二十六話
サク、サク、と僅かに積もった雪を踏む音が、足下より軽快に鳴る。
すっかり降り頻っていた霰は止み、代わりに柔らかな雪に変わってぽつりぽつりと未だ降り注ぐ。まるでここだけ隔離された世界なのかと錯覚に陥りそうになる雪景色——氷原世界。
すっかり辺りには闇が立ち込めており、暗雲越しに照らす申し訳程度の月明かりだけが頼り。
けれど俺にとってその程度の光であれば無いに等しく、終始一貫してアウレールの肩を借りながら歩いていた。
「なあ、坊主」
それを見ていたからか。
セスタが不意にそう声を掛けてきた。
「足、悪いのか?」
相手を慮るような気持ちが滲んだ声音。
肩を借りている人間を見たならば、足が悪いのではと疑うのが普通だ。だからこそ、セスタの問いは極々当たり前のもの。だけど、悪いのは足では無い。
「いんや、足は問題ないんだけど」
『
「目がね、特別弱いんだ」
「目、が?」
俺の言葉にいち早く反応をしたのは、意外な事にツァイス・ファンカであった。彼女の言葉を肯定するように一度首肯をし、俺は言葉を続ける。
「そ。俺に『氷』を教えてくれた人は『視覚障害』だろうって言ってた。こうして極端に暗いとこの通り全く見えてないし、かといって極端に明るくても同様に見えない。だからこうして肩を貸して貰ってるんだ」
「そ、れは……」
藪蛇だった。とばかりに、バツが悪そうに言葉を詰まらせ、視線を背けるセスタでったが、対する俺はその事に対して深刻に考えおらず、気にする事はないと笑ってみせた。
「ま、『氷』さえあれば視力が死んでてもそれなりに見えるしね。それに、俺は人間だよ?」
彼が俺と『
当たり前の事実として、そもそもあり得ないのだ。
人間という種族でありながらここまで魔力適正が高い事が。魔法適正の高い『エルフ』ですら、一握りの者しか出来ない芸当を人の身で行なっている。それこそが何よりの異常なのだ。だから、目が悪いだ、片腕が無いだと不自由があったところで何もおかしい話ではない。
人間という種族だからこそ。
何らかの事情があって、『エルフ』すら凌ぐ魔法の力を手に入れた。そう言外に言ってみせた俺の意図を察してか、
「あぁ、そういう事かよ……」
得心顔で、けれど不機嫌に言葉を吐き捨てた。
失われた腕。視覚。
セスタが顔を歪めた理由は、尋常でない過去があった事が火を見るよりも明らかであったからだ。
「そういう事。だから別に気にしないで良いよ。まだ不慣れではあるけど、それでも俺は
「そうかい」
これ以上は、流石に深入りするべきではない。
そう悟ったのか、んっ、と声を上げて伸びをしながら、セスタはあからさまに話題の転換を試みる。
「にしても凄かったな、あの氷竜はよ」
「氷竜……?」
この場で唯一、何も知らないツァイス・ファンカは不思議そうに小首を傾げる。
「そうなんだよ。あの坊主、氷竜みたいなのを造り上げやがったんだ。こう、がおーって咆哮吐く竜だ。そりゃ、凄かったぜ?」
両手を合わせ、次いでそれをパカリと開かせる。
まるで顎門を模しているかのように頻りに開いては閉じ、開いては閉じる行為を繰り返す。
そんな彼の様子から、『氷竜』を顕現させた事が嘘ではないと判断したのか。
はたまたこの氷原を目にした時から既に疑う事をやめていたのか。彼女が意外にもあっさりとその言葉を受け止め、小さなため息を吐いた。
「流石、と言うべきなのかしらね。あの時の鬼気迫る様子は、決して張子の虎で無かったと」
「この世界は優しくないからね。その事はこの身をもって実感したよ。だから守れるように鍛錬をしたし、つけてもらった」
「その結果がこれ、と。ホント、末恐ろしいものね」
あたり一帯の景色を変えて尚、魔力切れのような兆候を一切見せない俺に呆れてか、もう一度、ため息が聞こえてきた。
「ところで貴方たちは、いつまでベルトリアに?」
「特には決めてないけど、可能な限り早く出たいかな」
「どこかに向かう予定でもあったのかしら」
「そ。墓参りにね」
すると程なくして、……そう、と少し残念そうな感情が孕んだ声が鼓膜を揺らした。
「そういう事ならば、無理に引き止められないわね」
まるで、予定がなければ滞在してもらおうと考えていた。そんな印象を与える言い草に対して、それはどういう事なのかと怪訝に眉根を寄せる。
「今は留守にしてるけど、ここの領主であるあたしの父親が一方的に『
あと一週間程度って手紙にも書いてましたからねえ。とセスタが割り込んでくる。
この時点で、どうやらツァイス・ファンカは俺が『
「そういう事ならまたいつか。ツェネグィアに墓参りに行った後は適当に旅するつもりだから、近くに来た時にでも寄っていくよ」
「ええ。その時は是非」
そう言って、彼女は微笑んだ。
「あぁ、それと、ツェネグィアに向かうなら気をつけ、てって、貴方たちには無用な心配だったわね」
言い忘れていたのか。
やや慌て気味に言葉を紡ぐツァイス・ファンカであったが、その勢いはどうしてか後になる程、死んで行く。
「?」
「ツェネグィアというと、奴隷制が深く染み込んでるでしょう? ベルトリアでは奴隷商を禁止しているけれど、あそこはそうじゃない。だから気をつけて、そう言おうとしたんだけど」
「坊主たちには無用だわな。それに、そこの嬢ちゃんもそれなりに強いんだろう? なに、襲い掛かってくる攫い屋共がいたなら、そいつらを逆にぶちのめしてやれ」
げらげらとセスタ豪快に笑い、それもそうだなとつられて笑いが湧く。
「さぁて、と。どうやら話してるうちに着いたようだぜ?」
雪を踏み締める音が、ピタリと止む。
目の前を大きな氷像が鎮座し、行く道を阻んでいる。
肢体には四本の劔が今も尚突き刺さっており、痛々しいまでに滲み出た鮮血が氷と混ざり、赤黒く変色した氷が部分部分にくっきりと現れ出ている。
「そら、お嬢。これが、『
ゆっくりと、名を呼ばれた彼女は氷像へと歩み寄り、ぴたりと手をあてた。
「ええ、確かに」
うすらと射し込む月明かりに照らされた氷像。
見上げても頂上がまるで見えないそれは、ツァイス・ファンカの記憶の中に残っていた『
「依頼の完遂、この目でしかと確認したわ」
そう言って彼女は氷像に背を向け、俺たちの方へと向き直る。
「報酬は戻ってから渡しても構わなくて?」
「ん。その方が助かるかな」
「であれば戻り次第、報酬は用意するとして」
殊更に言葉を区切り、
「お二人とも、『
やけに畏まった口調。
それでいてどこか弾んだ調子で、ツァイス・ファンカはそう言葉を述べた。