二十五話
「『
伝え忘れでもあったのかと、屋敷から顔を出した赤毛の女性———ツァイス・ファンカはまるで信じられないとばかりに、うわずった声を上げた。
「……一体、何の冗談かしら」
事実確認をせんともう一度、真偽を問うべく眉根を寄せながら彼女は言う。
言葉の矛先は勿論、ツァイス・ファンカが反射的に声を上げる原因を作った二人に向けて。
『
何気ない様子でそう宣った俺と、その隣で立ち尽くすアウレールに、だ。
「冗談もなにも本当の事だよ。俺が凍らして、『
傷らしい傷は受けていない。
そう言わんばかりに手を広げた。
「……アクシデント?」
怪訝に眉を潜めながら彼女は問い返す。
対して俺はバツが悪そうに視線を逸らし、そのまま目線は屋敷のドア付近へと移動。
玄関にて話し込んでいる事もあり、ドアは目の鼻の先であった。
「とは言っても、『
どうせ隠していてもバレる。
そう分かっていたからこそ、俺は気まずそうにドアをゆっくりと押しかけて行く。
次いで開けたドアの隙間から顔をのぞかせたのはくりくりとした黒色の丸い鼻。白くふわふわな体毛。
「懐いちゃったのか、全然離れてくれなくてさ。でも街の中に入れても良いのか分からなくて……、仕方なくこっそり連れてきちゃったんだ」
でも、全然凶暴でもなければ寧ろ人懐っこいというか。
害ある魔物じゃないよと言い訳をするより先。
「———『ウォルフ』」
白くもこもことした狼を目にするや否、ツァイス・ファンカはそう口にしていた。
「……知ってるの?」
俺の鼓膜を揺らした言葉は、数刻前に街の門番の男が俺に向けて言ってきたモノと同様の固有名詞。
「知ってるも何も、ベルトリアじゃそれなりに有名なのよその狼。それも、少しばかり凶暴って事でね」
「凶暴、かあ」
手を『ウォルフ』の頭に乗せ、軽く二、三度さする。
すると気持ち良さそうに目を細め、ぶんぶんと右左に尻尾を振り始めた。
「そうは思えないけどねえ」
「それはそうでしょうね。『ウォルフ』が凶暴になる時は、ある条件が働いた時のみだもの」
「条件?」
「その狼は物凄く賢いのよ。人間の言葉も多分、大方理解は出来てるでしょうね。だからこそ、勝てないと悟った相手には極端に従順になるの。逆に、自分より下か。もしくは同等と見た時は相応の対応となるわ。凶暴というのは、そういう習性から来てるのよ」
成る程ねえ、と。
得心顔で俺は今もなお、気持ち良さそうに目を細める『ウォルフ』に視線を向ける。
「やっぱりお前、言葉が分かるんだ?」
「ガウ?」
何のこと?
まるでそう言うように、素知らぬ顔をして『ウォルフ』は首を傾げた。
「うんや。やっぱなんでもなーい」
尋ねてもちゃんと返ってくるワケもないわなと、今度は少し乱暴にくしゃりと頭を撫でてから手を離す。
ツァイス・ファンカに改めて向き直ると、なぜか神妙な面持ちにて此方を見詰めていた。
「?」
「……確かに、『ウォルフ』は『
実際に相対した者だからこそ、否が応でも分かってしまう。アレは、入念な準備を行い、何日も時間を掛けて倒さなければならないような化け物である、と。
だからこそ、彼女はひたすらに否定をしていた。
そんなツァイス・ファンカを見かねてか、
「窓を見るといいだろう」
アウレールがそう、口にした。
「窓?」
「ああ。あの『
そう言うが早いか。
彼女は此方に背を向け、窓のある方へと足早に歩み進み、ほんのり光さす窓越しの風景を目にし、身体を思わず硬直させた。
傍から見れば面食らっている。
そう言って相違ない様子で、ツァイス・ファンカは無言で食い入るように眼前の景色を見詰めていた。
「……なんで、」
『
雪山。思わずそう表現出来てしまう光景が、まるで人為的につくられたかのようにある場所にだけ存在していた。
言わずもがなその場所は———
「地形が変わってる、の? なんで、雪が? 氷、が?」
『
その変わり果てた光景に、ツァイス・ファンカは絶句。
そしてふと、思い出す。
……氷? と。
「ま、さか」
ぐぎぎぎ。
そんな音が幻聴してしまうのではと錯覚してしまうようなぎこちない動き。
それはまるで壊れたブリキのような動作にて俺の方へと向き直る。
「いや、でも……!!」
今、屋敷には真昼間に俺たちを迎えた二人の護衛はおらず、留守にしていた。
彼女はその理由を本人たちから口頭で伝えられていたので知っている。だからこそ、すんなりと納得は出来ずにいた。
貴方たちを止めるために向かった二人は、じゃあどうしてこの場にいないのか、と。
その疑問があるゆえに納得が出来ない。
だから、それを問おうと詰め寄ろうとした刹那。
ガチャリ。
ドアノブが回る音がいやに響いた。
俺とアウレールと『ウォルフ』。
そしてツァイス・ファンカ。
三者と一匹の視線が同時に集まり、そしてドアは引き開けられる。
「悪りぃお嬢。俺らが到着した時にはもう既に、止められない状況に陥っててよ」
短髪の大男———屋敷の門番を務めていたセスタが、悪びれた様子で後ろ頭をくしゃりと掻きながら姿を現した。
「で、代わりにちょいと気の利いた行動をしようとしたはいいものの、そういや説明役が必要だったなと思い出してな。こうして俺だけ引き返してきた。ベリアスには別件で頼み事をしてるんで別行動だ」
「セスタ……」
「悪いな、坊主に嬢ちゃん。今、ここベルトリアの領主様が諸事情により不在でよ。代理としてこのお嬢が立てられてるワケなんだが、その立場上、原則お嬢は一人での外出は禁止。出る際は俺がベリアスを伴うって条件があってな」
だから、外に出て真偽を確かめる。
即座にそういった行為を起こせず、疑ってかかるしか出来なかったのはそういう理由なんだと言外に言ってみせる。
加えて、会った当初。
どうしてセスタがツァイス・ファンカに対して怒鳴っていたのか、その理由が意図せずして判明していた。
「ま、お嬢にとっても『
ドアは開けたまま。
セスタはツァイス・ファンカに向けて言い放つ。
「日暮れ後の出掛けはあまり褒められたもんじゃないが、今回は例外だ。確認がてら『
依頼履行の確認。
その為に向かうから、一緒にどうかというセスタからの申し出。けれど日は既に落ちており、視力に難ありの俺は少し返答に悩んだか、
「肩なら貸してやる」
その内心を見透かしてか。
心配はないと抱いていた懸念を吹き飛ばさんと、隣でアウレールがそう口にしていた。
だから俺は、
「分かった。そういう事なら、向かおっか」
そう言って、肯定の意を示したのだった。