十六話
「これ、は……!!」
瞬きする
ほんの一瞬の時間で、大地は薄氷が敷き詰められたかのような氷地に早変わり。そして、続けざま、ベリアスの肢体にまで『氷』は侵食を始める。
気付けば、彼の表情は逼迫めいたものへと変貌しており、身体には薄透明色な膜が纏うように張り付いていた。
その変化こそが隠していた手札なのだろう。
けれど、俺はそれすら度外視して口を開く。
「あまり動かない方がいいよ」
「ッ、く……!」
身を引くように地面を蹴り、顕現した氷原から距離を取ろうとするその行動は、殆ど反射的なもの。
焦燥感に駆られ、即座に行動を起こさねばと身を焦がすベリアスに、俺の言葉は届かない。
『氷原世界』とはそのままの意味で、『氷』の世界を創り出すという意味だ。
ただ、それは正真正銘の『氷』の世界をつくるという行為に他ならず。
『氷』とは寒さであり、『氷原』と暖かさは無縁の存在同士だ。ゆえに、『氷原』においては暖かさは常に排斥される定めであり、異物として捉えられてしまう。
身体を動かせば体温が上昇する。
子供でもわかることだ。だから、俺は言ったのだ。
動かない方がいい、と。
「ほら、」
何気なく発された一言。
ベリアスが動きを見せるや否、まるで意思でも持ったかのようにうねり出す『氷』。程なくして、吹き込む冷気が彼の身体を蝕み、氷結させる。
「だから言ったのに」
予兆も挙動もないにもかかわらず、蠢き出す『氷』の様子に驚愕を張り付けていたベリアスであったが、それも一瞬。『氷』に侵された肢体を動かし、カシャリと音を立てて剣を握り直す。
「———まだ、終われません」
そして不敵に笑い、ぐぐ、と身体を前のめりに傾ける。
まるでそれは、一撃に全てを賭けると言わんばかりの様子であり、己の瞳に映っているであろう俺だけを射抜いていた。
だからだろう。
「————ベリアス」
不屈の闘志を燃やす彼には、前以外見えていないのだろうと、知っていた。否。
観ていたからこそ、その男は彼の名前を呼んだ。
声の主は、気怠げに門番をしていたもう一人の男。
外野からの声を以ってして漸く、己を取り巻く状況を把握できたのか。いつの間に、と言わんばかりに目を見張り、ベリアスは声を詰まらせた。
「なる、ほど……。僕が最後のひと当てをするまでもなく、決着は付いていた、というワケですか」
口惜しげに言葉を発する彼のすぐ側には剣があった。
それは、青白い剣。
剣身に留まらず、柄ですらその色一色に統一された少し変わった——氷剣。
その数約10。
ベリアスに狙いを定めるように刃を向け、虚空で舞う凶刃。そして僅かな時間であれど硬直してしまった事で凍り付く足下。
「そのよく分からない技は、さっさと使うべきだったね」
「……そう、ですね」
俺の言葉に肯定するが早いか、身体に纏わり付かせていた白い膜は消え、ガラン、と手放した模造剣が落下した衝撃に鳴る。
「ところで、力試しは貴方とだけで良かった?」
顔はベリアスと向き合ったまま、流し目に駆け寄ってくるもう一人の男——セスタを見やりながら尋ねる。
すると、ややあってから、
「ええ。セスタもこれならば文句を言うはずがありません」
苦笑いしながら答えた。
そうですよね? と確認するようにベリアスが笑いかけると、セスタはバツが悪そうに頭を掻いた。
「当たり前だろうが。こんなやつとやり合うなんざ、勘弁してくれ」
それは、明確な否定の意思だった。
侵食は止まったものの、時季外れな『氷』広がるあたり一帯。この景色を既に見ている彼に、戦う意志は皆無であった。
そして、遅れてやってくる一人の女性。
アウレールだけは、この惨状を目にして尚、悠々と微笑んでいた。
「お疲れさま」
そう、一言。
「ふふん」
対して俺は、どーだ。と言わんばかりに鼻高々に胸を張る。すると、程なくして俺の頭上へとアウレールの手が伸びた。
そして、わしゃわしゃと頭を撫でられる。
俺とアウレールの身長差は約10cm程で、彼女の方がやや高い。だからこうして頻繁に頭を撫でられたりしているのだが、中々に気持ちが良く、いつもされるがままになっていた。
「なんつーか……」
そんな光景を眺めていたセスタが、言いづらそうに口を開き、
「傍から見てると姉弟みたいだな」
人間と、エルフなのにな、と。
気を使ってか、言葉にこそしなかったが、きっと彼がそう思ってるんだろうなと何となく理解が出来てしまった。
けれど、それを責める気は無い。
むしろ、褒め言葉。
だから俺は、その言葉に対して笑んで返した。
「そもそも、そこの彼女を貴方が連れ歩いていた時点で気付くべきでしたね」
パキリ、と。
これ以上戦う意志はないと示し、白旗をつい先程振ったベリアスは、突然打って変わって脆くなった氷を砕きながら、歩み寄り、そう口にする。
「『エルフ』と共に行動をしている。それは、どんな事があっても守り切れるという事実の裏返しでしたか」
仲の良い関係。
加えて、未だ痕跡が深く刻み付けられている氷原からそう結論付けたのか、得心顔で述べていた。
けれど、彼の言葉は少し誤解を含んでいた。
「ううん。それは違うよ」
だから、俺は訂正をする。
「守り切れるじゃない。俺が、絶対に守るんだ。今度は、俺が」
並々ならぬ感情を孕ませた一言。
そこにさまざまな事情があると察してか、ベリアスは「そうですか」と、早々に引き下がった。
「誰かを守るために、強くなったってクチか」
と、今度はセスタが呟くように言う。
「ま、そんなところかな。……あ、そうだ。ところで、ツァイス・ファンカって人は今どこに?」
力試しのような事も終わり、これでいよいよ依頼が受けられるようになった筈。
だから俺はそう尋ねたのだが、
「あー、それなんだが……」
「———強いのね」
申し訳なさそうな表情を浮かべ、歯切れの悪い言葉が飛び出したと思った直後。その言葉に被せるように、新たな声がやってきた。
つい最近、聞いたような身に覚えのある女性の声。
「難なく氷に変えるその技量。ベリアスが手も足も出ないだなんて、はじめて見た気がするわ」
つい最近、顔を突き合わせた面貌が、肩越しに振り返ると瞳に映される。
「少しトラブルがあって、戻って来ていたんだけれど、何やら面白い事になってるじゃない? だから観させて貰ってたの。不躾でごめんなさいね」
「あの時の、」
依頼書の仕組みを教えてくれたひと。
と、言葉を繋げるより早く、割り込んできた声がそれを遮った。
「お嬢!! 今の今まで何処をほっつき歩いてたんですか!!!」
「……ま、魔物の討伐に行ってたのよ」
あからさまに目を逸らし、顔を引きつらせながらセスタにお嬢と呼ばれた赤毛の女性は言葉をもらす。
それも、返り血なのか。
むせ返るような異臭をさせ、皮鎧に水玉模様の赤を付着させておきながらの一言である。
「はあぁぁぁ……」
疲労感の滲んだ深い深いため息。
普段から気苦労が絶えないんだろうなと同情しながらも、俺は構わず、気になっていた事を彼女向けて問い掛けた。
「お嬢、って事は貴女が?」
「——えぇ」
首肯を一度。
鷹揚と頷き、冒険者らしい服装とは全くもって似合わない挙措で彼女は名乗りをあげる。
「
流し目でポケットに収めていた依頼書。
収まり切らずに飛び出していたその一部を見やりながら、
「事情はおおよそ理解しております。ですので、詳しい話は屋敷の中にて行いましょう」
そう言って、ツァイスと名乗った赤毛の少女は微笑んだ。
「あなた方を、わたくし共は盛大に歓迎致します」