七話
「———気分はどうじゃ」
目に優しい明かりに照らされて、うすらと目を開けた直後だった。聞き慣れない声が、耳朶を叩く。
誰の声だろうか。
そんな疑問が脳裏をよぎったが、それよりも先に偏頭痛のような違和感が頭部を走り抜け、痛みに顔を顰めた。
「っ、痛……ッ」
「様子を見る限り、典型的な魔力欠乏症じゃの」
少し離れた場所にて、木造りのデスクに肩肘を付きながらカリカリとノートに書き込む女性が横目に確認される。
彼女の声だという事はすぐに理解が及んだ。
が、しかし。
「……だ、れ?」
俺は、彼女を知らない。
少しだけ雰囲気が似通ったひとなら、ひとり心当たりがあったが、それでも俺は彼女を知らない。
どうしてここで俺が寝かされているのか。
押し寄せる不安がこれでもかとばかりに掻き立てられる。
「マクダレーネ」
名前、だろうか。
少しだけ眉間にシワを寄せて、そして続く言葉に俺は目を見開いた。
「お主を治した者の名じゃ。覚えといて損は無かろうて」
「あな、たが?」
「如何にも。とは言え、お主が恩を感じる必要はありはせん。感謝をするならばアウレールと名乗った小娘に言ってやるんじゃな」
けらけらと。
面白可笑しそうに笑いながら、マクダレーネと名乗った女性は古風な口調で話しを続ける。
「にしても……随分と変わっとるの、お主」
「……?」
どういう意味だろうか。
彼女の言葉の意図が分からず、俺は思わず小首を傾げた。
「儂はお主の事を人間の貴族と聞いておってな。良い意味で変わっておると、そう思っただけよ」
「……ああ」
———そりゃ、俺は己自身すら満足に守れない『落ちこぼれ』なのだから。
そう言葉を続けようとするも、ずいっと身を乗り出して顔を近づけてきたマクダレーネの行動によって言うタイミングを逃してしまう。見詰めてくる緑玉石の瞳は、まるで胸中全てを見抜いているようで、吊り上がった口角がその印象を更に増長させていた。
「卑下はやめんか」
不意に、そんな事を言われた。
タイミングがタイミングなだけに、本当に思った事を見抜かれた。そんな感覚に陥ってしまう。
「お主の過去がどうであったのか。儂はそれを知らんし知る気も毛頭ありはせん。何より大事なのは今じゃろう? じゃからひとまず思い出さんか。己がどうして、気を失っていたのか、をの」
「俺、が、気を失った理由……」
どうして、と考えた直後。
時季外れの雪景色が脳裏に浮かんだ。
薄氷の張った大地。白い風。
左の手の指先から生まれ、広がる——細氷。
「こお、り」
「漸く思い出しおったか。それよ、氷よ。お主は正真正銘あの時あの瞬間———魔法使いに、なったんじゃ」
鮮明な映像が、思い起こされた。
広がる雪景色のあの光景が。
「が、しかし、お主は魔法使いであって魔法使いでない稀有な存在よ」
「魔法使いであって魔法使いでない……?」
彼女の言う事の意味がわからず、俺は疑問で返すしかなかった。
「そうじゃ。お主特有である後天性の魔法使い故であろうな。あの時の氷原はいわば、真情の発露よ。感情が盛り上がっていたからこその現象。恐らくじゃが、今この瞬間。お主が魔法を発動させる事は叶わんであろう?」
そう言われて、俺は己の身体に視線を落とす。
あの時の感覚を思い出そうと試みるがいかんせん、上手くいく気配がない。どうして、なのか。
眉根を寄せていると、にたり、と喜色ばんだ笑みを向けてくる女性が目に留まった。
「そこで、じゃ。儂からお主に提案がある。なに、悪い話ではないわ」
そう言うや否、マクダレーネは先程まで逐一何かを書き込んでいたメモ用紙を手に取り、俺の目の前に差し出した。
そこには俺の挙動や、言動。
狩人めいた身格好の男とのやり取りなど、俺を中心としたメモがずらりと書き並べられていた。
「先程も言ったが、お主は稀有な存在よ。偶々とはいえ、後天的に魔法の才を大幅に上昇させたその結果。それはあまりに価値が高くての。何より、この儂ですら久方ぶりに興味が湧き、好奇心が抑えきれんほどじゃ」
「……実験台に、なれと?」
「勝手に話を飛躍させるでないわ。儂とてそこまで腐ってはおらん」
はあぁ、と深いため息を吐かれながら思い切り呆れられた。
話の流れからして人体実験。そんなところかと思っていたが、どうにも違うらしい。
「話は簡単じゃ。儂に、お主の観察をさせよ」
「かん、さつ?」
「期間は、そうじゃの……一年ほどでよいわ。じゃから、お主の一年、儂に観察させい」
思いの外、平和な単語に思わず呆けるも、そんな俺を余所にマクダレーネは言葉を続けていた。
「この申し出を受けるならば、儂がその一年に限りお主の面倒を見てやってもよい。無論、一年の間は、このマクダレーネがお主に魔法の扱いを教えようぞ?」
言葉に、詰まった。
目覚めたばかりで少しぼんやりする思考の中。
意識を総動員させてマクダレーネの申し出を吟味するが、吟味すればするほどその申し出が破格である事は容易に想像が出来る。
一年もの空白の期間のせいで、身体はマトモに動かない。
棚ぼたで何故か使えるようになっていたらしい魔法は自分の意思では扱えない現状。しかし、だ。貴族の闇を。人の闇をそれなりに知っている俺だからこそ、返答に躊躇った。
あまりに、話が美味すぎる、と。
そんな時だった。
「なにを迷う必要があるんじゃ」
マクダレーネの声が聞こえた。
「警戒心が高い事は決して、悪い事ではなかろうて。けどの、お主は儂のこの申し出を断って、その後はどうするつもりじゃ? アウレールとかいう小娘にまた、おんぶにだっこ。そして、またしても瀕死の重傷を負って仮死状態にでもなるつもりかお主」
その言葉はあまりに的確で。
俺は反論どころか、言葉すら出てこなかった。
「男がぐずぐずするでないわ!! 是か、非か!! 二択に一択じゃろうが!!」
叱咤するように浴びせられる怒声。
「俺、は……」
———『エルフ』は、恩讐を忘れない。
何故か、耳にタコができるほどに聞いた言葉が幻聴された。
恩讐を、忘れない。
そうだ。
俺は、恩がある。
助けて貰った大恩があるのだ。
だから俺は、返さなければならない。
己の都合の為に利用をしていた俺に対し、涙してくれたアウレールに返さなければならないのだ。謝罪も含め、いっぱい、いっぱい。だから。いや、ならば、答えは既に決まっている。
「申し出を受ければ、俺は恩を返せるかな」
ぽつりと。
内心を吐露する。
「アウレールに、報いる事が出来るかな」
あの頑固で、優しい『エルフ』に恩を返せるだろうか。
抱いた疑問を口にした俺であったが、対してマクダレーネはふん、と何を馬鹿な事をと言わんばかりに小さく笑う。
「そんな事を儂が知るものか」
呆気なく一蹴。
かと思われたが、どうにもそれは早計のようで。
「その答えはお主自身で見つけい。じゃが、儂の申し出を受けるというならば、手助け程度はしてやらん事も無い」
そう言って、マクダレーネは俺に向けて手を差し伸ばした。
「磨けば光る。今のお主はそんな原石よ。業腹かもしれんが、人というものは利用してナンボじゃ。儂はお主を、お主は儂を利用する。これでもまだ、不安かの?」
自分を利用しろ。
そんな事を宣う人には初めて会ったなあと苦笑いをもらしながら、俺は———
「いいや。それで十分だよ。マクダレーネ」
彼女の手を取った。
「左様か」
「ああ」
今度は、俺が守る番だ。
守られてばかりは情けない。
そんな事は誰よりも俺が身に染みて理解をしている。
けれど、今の俺には可能性がある。だったら、そこに賭けるべきだろう。
「であれば、名乗るがよい。このマクダレーネ、お主の名を覚えようぞ」
「俺は、ナハト。ナハト・ツェネグ……、いや、ナハトだ。ただの、ナハト。それが俺の名前だ」
もう、ツェネグィアの名前は要らない。
きっと、親族連中も死んだと思っている筈だ。だったら、もう死んだままで良い。ナハト・ツェネグィアは死に、ただのナハトが残った。それで、良いのだ。
「ふん」
あえて言い直した事に対し、何かを察したのか。
マクダレーネは特に指摘することもなく、鼻で一度笑うだけであった。
「ならば、取引はここに成った」
そう言うや否、手を解き、マクダレーネは扉へと向かって歩き出した。どこかに向かうのだろう。
「今日のところは休んでおくがよい。久方ぶりの目覚めに加え、魔力欠乏によりマトモに身体は動かんじゃろうて」
言葉を言い捨てながら、ドアノブへと手を掛ける。
ガチャリ。
そんな音と共に、もう一度だけ声が聞こえた。
「明日から観察も含め、鬼のように扱くゆえ覚悟しておくんじゃな———ナハト」
それだけを言い残して、マクダレーネは母屋を後にした。
魔法適性皆無。
そう呼ばれ、揶揄され続けたナハト・ツェネグィアはもういない。アウレールには本当に感謝してもしきれない。
俺は現に、あの時あの場所で生を諦めていた。
けれど、アウレールはそれを許してはくれなくて。そのお陰で、今の生がある。
『落ちこぼれ』だった俺とは、今日でおさらばだ。
そう、俺は心に誓った。