六話
「なに、が、あったんだ……」
ほんの少しばかり打撲のような痕を負っているものの、慌てて戻ってきたのだろう。息を切らし、肩で息をするアウレールであったが、人為的に作り出された眼前の光景に、思わず声を失っていた。
視界一面———雪景色。
心なし、粉雪が舞っているようにも見えるそれは、時季外れの大雪だった。
「……よお」
不機嫌染みた声が彼女の鼓膜を揺らす。
聞き覚えのある男の声。
「……クラウスか」
狩人めいた身格好の男———クラウスへとアウレールは視線を移した。片方の腕にはタオルのようなものが巻かれており、状況を見る限り、彼は無関係ではないのだろう。そう確信した彼女は問い質さんと歩み寄る。
けれど、それより先に彼が開き切った手のひらを此方へと向けた。
待てよ。
そう言わんばかりのゼスチャーだ。
「なあ、アウレール。アイツは、一体何者なんだよ」
一瞥した先には、壁にもたれ掛かるひとりの少年。
ぐったりとするその様から、気を失っているのだと直ぐに理解が及んだ。だから、即座に駆け寄ろうとするアウレールであったが、それをクラウスは許さない。
「質問に答えろアウレール!!」
「……どういう意味だ」
「どうもこうもねえ。てめえの頭ん中でも渦巻いてる疑問。その答えをおれは聞いてんだぜ?」
「だから何を——」
「この光景、この現状。おれのこの腕」
そう言って彼は腕に巻かれていた白いタオルをほどき始め、隠されていた腕の部分をアウレールに見せつけた。
赤黒く変色し、凍傷のような痕がくっきりと浮かぶその腕を。
「お前、それ……」
「全てあのガキがやった事だ。その上でもう一度聞く。アイツは、何者だアウレール」
「ナハトの仕業だと?」
「そうだと言ってるだろうが……!」
憤怒に相貌を塗らすクラウスが嘘をついているようにはとても、彼女の目には見えなかった。
そもそもエルフの里、その大部分を雪景色に変えられる者なぞ、アウレールの記憶の中にも一人いるかどうかのレベル。
クラウスがここまでの芸当を出来るはずがない。その事実が彼の言葉を幸か不幸か裏付ける一因となっていた。
「だが……ッ」
ナハト・ツェネグィアは、魔法を扱う才能が絶望的なまでにない筈なのだ。それは、アウレールが誰よりも知っていたし、見てきた。元より、魔法が扱えるならば奴隷を見受ける事すらしなかっただろうし、死に掛ける事もなかった。
親族から迫害を受ける事も、血の繋がった家族から他人のように扱われる事もなかった筈だ。
だから、あり得なかった。
あり得ないのだ。
けれど、クラウス以外の少し離れた場所でこの口論を傍観する『エルフ』たちの責めるような視線から、彼の言葉もまた嘘ではないのだろうと理解してしまっていた。
最早、二律背反と言ってもいい。
ナハト・ツェネグィアが魔法が使えないならば、クラウスの言い分は真っ赤な嘘だ。けれど彼の言い分が正しいならば、なぜ、今まで魔法を扱えないフリをしていたのか。
死に掛けていたあの時、あの瞬間までどうして使う事を拒み続けたのか。隠す事でどんな利益があったのか。
考えれば考えるほど、訳が分からなくなる。
混乱の坩堝だ。
何が正しくて、何が間違っているのか。
真に正しいと思える正常な判断が出来なくなっていた。
「……どうにも、てめえは本当に知らないらしい」
哀れだな、と。
言外に指摘しながらも、クラウスはゆったりとした足取りで件の少年———ナハト・ツェネグィアの下へと向かう。
「何を、」
「これだけの事をやらかしやがったんだ。相応の報いを受けるのが道理ってもんだろうがよ?」
殺意をこれでもかと言わんばかりに放ち続ける彼の様子から、アウレールは次に移される行動について、察してしまう。
だから、
「クラウス!!!」
それは悲鳴であり、哀哭であった。
距離は、アウレールよりもクラウスの方がよっぽど近くにいる。
助けようにも間に、合わない……!!
けれど、それでも、助けんと駆け走る。
そして———。
クラウスが下げていた矢の一本を掴み取り、振り上げたその時だった。
「———ちょいと待たんか」
朗々とした声が響き渡った。
同時、クラウスの振り上げていた腕もピタリと硬直する。
ぎぎぎ、と壊れたブリキの玩具のように首を動かし、肩越しに振り返るとそこには
「その行動は、あまりに早計過ぎるわい」
緑玉石の瞳で此方を見据えるひとりの『エルフ』
白磁の如く透き通った透明感のある長い白髪を小風に靡かせる女性。
「長老……」
ざわざわと、姿を現した女性の姿を見るや否、波紋するかのように声が広がって行く。
感嘆、畏怖。そう言った感情を込められた声が木霊する中。
唯一怒りに顔をしかめる男。
「何の、つもりだ……ご老体」
肩越しに振り返った時、数十メートルは離れていたであろう長老と呼ばれた女性であったが、気付けば彼女はナハト・ツェネグィアの直ぐそばで腰を下ろしており、身体を気遣うように抱き抱えていた。
「アウレール、だったかの。
言葉に嘘偽りはなく、彼女こそが瀕死の状態のまま氷漬けにされていたナハト・ツェネグィアを治した本人であった。
だからこそ、言葉に説得力が増す。
「だが!!! 現にあのガキは魔法を———!!」
「ただし」
言葉を遮ってくれるなと。
言わんばかりの威厳のある声音は、獅子吼の如きクラウスの叫び声を黙らせ、
「
「……どういう事だ」
疑問符を頭上に浮かべるクラウスとは異なり、アウレールはどこか苦虫を噛み潰したような面持ちで、顔をうつむかせていた。
「違和感を感じたキッカケは、この腕じゃった」
かしゃり、と。
氷によって造形された作り物の腕を僅かに持ち上げる。
「儂がこやつの治療をする際、そこのアウレールに氷を溶かして貰ったんじゃが、何故か溶かした途端、この腕が勝手に形成された。それが違和感の始まり」
それはまるで、意志を持っているかのような。
気を失っているにもかかわらず、己に合った腕を形成していたその光景は異様の一言。けれど、その時は魔力は感じられず、アウレールも嘘をついている様子はなかった故に、長老と呼ばれた彼女はあえて口にはしなかった。
しかし、確信を得た今は違う。
「こやつは、既に魔法を扱えよう。しかも、ここまでの馬鹿げた真似すら出来る規格外となっておる」
「……魔法を使えなかった人間が、ここまでの芸当を出来るようになっただ? そんなふざけた事があってたまるか……ッッ!!」
「あるからこそ、かような光景が生まれとるんじゃろうが。しかし、」
殊更に、言葉を区切る。
「真、面妖よな。徹頭徹尾偶然に過ぎない出来事ゆえに己自身ですら扱い切れておらん。言うなれば、そうよのう。あれは、突然変異よ」
「突然変異……?」
「折角よ、ここはひとつ儂の立てた仮説を聞いけゆけ」
そう言うや否、クラウスは口を真一文字に結んだ。
村の長である村長よりも比べるまでもなくずっと、地位が高く、羨望の眼差しの先に立つ『エルフ』
それが長老であり、彼女——マクダレーネなのだ。
ゆえに、彼はひとまず耳を傾ける事を選んだ。聞く価値はあるだろうと、判断をして。
「こやつは一年もの間、氷の中で仮死状態になっておった。それも腕を斬り落とされた出血多量の瀕死の状態で、じゃ。とは言え、氷も永続ではない。魔法といえどいつかは溶ける。じゃが、そうならんためにそこのアウレールとやらが凍らせ続けとった。魔力を込め、凍らせ続けとったんじゃ」
面白可笑しそうに小さく破顔させながら、マクダレーネは言葉を続けた。
「こやつが魔法を扱えなかったのは紛れも無い事実よ。その前提があるからこそ、儂の仮説は成り立っておる。いわばこやつは器だったと言うわけよ。何物も受け入れられる器。恐らく、何らかの魔法がひとつでも扱えておったら、力が相反し合い、こうはならんかったじゃろう」
「……つまり、何が言いてえんだ」
独白染みた言葉を並べ続けるマクダレーネに痺れを切らし、乱暴な物言いでクラウスが尋ねると、彼女は苦笑いを浮かべた。
「少し、話がややこしかったかの。……つまり、こやつは一年もの間、氷の魔法にあてられ続けた事で身体の性質が変化し、魔法を扱えるようになったんじゃ」
「そん、な馬鹿な話が」
「あるからこうしてこやつが魔法を使ったんじゃろ。きっと、この小僧は優しいヤツなんじゃろう。そこなアウレールが懐くのも分からんでもないわい」
———なにせ。
「ここまでの大魔法を展開しておきながら、誰も死んでおらん。感情のまま行使したんじゃろうが、生来の優しさ故か、お主を威嚇するだけに留まっておろう?」
「……見て、やがったのか」
「謎めいておったから気にかけてただけよの。そう睨むで無いわ」
そう言うや否、マクダレーネは背を向けた。
あれだけの魔法を使っておきながら人死がない。
その事実に今更ながら気づかされ、歯噛みするクラウスにはもう言葉は不要だと判断したが故の行動。
「アウレール」
「は、はい?」
背を向けたまま名を呼ばれ、困惑めいた表情を浮かべるも、少し上擦った声音でアウレールは返事を返した。
「こやつは儂預かりとする。用があるならお主であれば訪ねる事を許そう。場所は追って伝える。ひとまずは休むがよい。ジャヴァリー討伐で疲れておろう?」
「それ、は……」
身体の節々に刻まれた傷。
それに視線を向け、言葉に詰まる。
「悪いようにはせん。安心せい」
それだけ告げて、マクダレーネはその場を後にした。
移動は一瞬。言葉を告げた次の瞬間には、
既に彼女の姿は、狐にでも化かされたかのように掻き消えていた。