変わりゆくモノ
「やっとここまで完成した。あと少しで終わりそうだな」
石で出来た山の様なモノの前で、身長百六十センチメートルほどの女性が呟く。
女性はまだ幼さの残る顔立ちながらも雰囲気は十分に大人びた感じで、石の山に向ける視線は鋭い。
その呟きには疲労が色濃く出ており、その呟きだけで石の山を築くのにどれだけ苦労したのかが窺えた。
感慨深いといった様子の女性の前で、地響きを起こしながら新しい岩が運ばれてくる。運んできたのは、身長十メートルはあろうかという巨人であった。
見上げるほどのその巨体は、周辺で作業をしていた他の巨人よりも一回りも二回りも大きく、身の丈が二メートルに遠く及ばない女性など知らぬ間に踏みつぶされてしまいそうなほど。
その巨人は、運んできた女性の身長以上に大きな岩を、石の山の上に崩れないようにそっと置いた。
そうして石の山が更に高くなる。山はまるで石で組んだ家の様に造られているが、天井の部分は丸みを帯びていて、左右から押し合ってなんとか崩れていないような、そんな危うさを感じる。
少しでも突けば崩れてしまいそうな、そんなハラハラする見た目ながらも、しっかりと建っているその石の山。
人工物ながらも自然物にも思えるそんな石の山を眺めながら、女性は小さく口元に笑みを湛える。
「もう少し。あと少しだが、ここで焦ってはいけないな。あいつらはまだ手出ししてこないだろうから、ここは確実に完成させなければならない」
遠くから感じる地響きに視線を向けながら、女性は小さく顎を引く。
周囲で作業をしている巨人に指示を飛ばしながら、女性は石の山の周囲をゆっくりと歩いて回る。
沢山の岩で構成され、とても危うい見た目に築かれているその石の山は全体的に丸い。そして中は空洞で、出入り口はひとつだけ。その出入り口も三メートルほどの高さしかないので、周囲で作業をしている巨人は入れそうもない。横幅も二メートルちょっとぐらいなので、完全に巨人用ではない事が窺える。
それでも巨大な石の山なだけに中は広く、石の山の中であれば巨人が暮らせそうなほど。
そんな巨大な建造物の周囲を時間掛けて回った女性は、新しく積み上げられた岩を眺めた後に空中へと浮かび上がっていく。
「上部も問題はなさそうだな。あとは、あそことあそこに岩を置いて、上部にももう少し岩があった方がいいか? いや、そうなると崩壊する可能性もあるか。上部が少し薄い気がするが、現状でも及第点ぐらいかな」
上空から指差しながら確認した女性は、順調だと頷く。次の岩もそろそろ到着しそうなので、石の山ももう数日で完成するだろう。
そう確信したところで、女性は地面に下り立つ。
作業をしている巨人達に交代で休憩するように伝えた後、女性は石の山が築かれている広場の周囲に在る森の中へと入っていく。
そこは太古の森もかくやとでもいうかのように太く背の高い木が林立している森で、清々しい空気に満ちている。
神秘的な雰囲気さえ醸すその森の中を、女性は勝手知ったるとばかりに迷いなく歩いていく。
「現在森の外は、かなりあいつに蹂躙されているようだね。敵う者も居ないし、やりたい放題だ。あの魔物だって、あいつにはまだ届いていない」
少し忌々しそうに口にしながらも、女性は森の中を散歩する。気楽に歩いてはいるが、本来この森の中は安全という訳ではない。それでも女性が気楽なのは、既に周辺を支配下に置いているから。
なので、道中出てくる相手など女性にとって敵にすらならない。
突然四足歩行で長い牙が特徴の獣が音もなく跳びかかってきたが、女性はそちらに視線を向ける事なく制圧する。必要ないので殺しはしない。少しの間地面に押さえつけて身動き出来ないようにするだけだ。
獣を追い払うにはそれだけで十分。わざわざ命を取っても、貴重な戦力が減るだけだろう。
「命なんて必要な時に必要な分だけ刈り取ればいいんだよ。そんなに無差別に刈り取ったって意味はない。君が目指していたのは、そういうものではなかったと思うのだがね・・・」
誰に言うでもなく、女性は寂しそうにそう口にする。
その時に森の中を一陣の冷たい風が吹いた。季節外れだろうが、この森の中ではそれは珍しくもない。
女性は風が吹いてきた方に視線を向けると、珍しいと驚愕して口を開く。
「氷雪華か。珍しいな、こんな近くに居るのは。この辺は生息域から少し外れているから、探してもいないのに。この辺りで姿を見たのはいつ以来か」
視線の先では、青白い透明な花弁の花が咲いていた。高さは一メートルほどで、花弁の中央にはギザギザの歯の様なモノが見える。
その花は茎も透明だが、色は濃いめの青。葉っぱも透明ではあるが、紫色をしていて右に左にと動いている。
まるで氷で出来た花のような見た目ではあるが、これでもれっきとした動物であり、見た目は美しい花ながらも植物ではない。ただ、その動物の生息域は、現在女性が居る場所よりももっと奥の方のはずで、この辺りではあまり見かけることのない相手であった。
「これは吉兆なのか凶兆なのか」
女性は嘆息しつつも動物の方に身体を向ける。
氷雪華と呼ばれるその動物は、現在居る森の中でも生態系で上位に位置するような存在。近づかなければ積極的に攻撃してはこないが、しかしそれは透明な身体の中に異物が入っている時のみ。つまりは何かを食べている時は非常に大人しい動物なのだ。
消化にかなり時間を掛けるので、通常であれば月に一頭ほど獲物を確保する程度。生息数もあまり多くはないので、上位者でも特に問題になるような相手ではない。
しかし、現在女性の視線の先に居る氷雪華は、奇麗に向こう側まで透き通っており、中に何かが入っている様子は無い。つまりは空腹状態という事。
「こんなところまで空腹で現れるとは、本当に珍しい」
そう驚きを口にしながらも、女性は好戦的な笑みを浮かべる。空腹の氷雪華は確かに危険ではあるのだが、女性にとってはそれ以上に有用な存在であるのだ。
まず女性は狙いやすいように氷雪華へと数歩近づくと、見極めるように観察する。
氷雪華は、透明な身体の中を弱い酸性の液体で満たしており、それは色々なモノに役に立つ。
例えばその液体を薄めて肌に塗れば、角質を落としてツルツルの肌にしてくれる。美白効果もあるので、化粧品としても優秀だ。
薄める度合いを変えれば錆び落としにもなるし、掃除にも役立つ。他にも特定の薬草と混ぜれば、毒にも薬にもなった。
そしてなによりも、特定の種族に与えると劇的に強くなるという効果があった。例えばスライム。どうしてかはまだ解明されていないが、スライムが氷雪華を摂取すると強化されてしまう。
他にも幾種類か強化される種族が存在しているが、そのどれもが希少と呼ばれる者達ばかり。女性はそれについて調べ、ひとつの結果を出していた。それは。
(あれは中々に澄んでいる。という事は、適切に処理すればいい素材になるだろう。それを調合すれば、ぼくでも力が増す。他の必要な素材は十分量手元に在ったはずだから、これで揃う事になる。あれが完成してから採集しようと思っていたから丁度いい)
己を更なる高みに導くための薬。氷雪華について研究していた女性は、そこまで辿り着いていた。ただそれには、限りなく澄んだ氷雪華という条件の厳しい貴重な素材が必要であったのだが、丁度それに見合った素材が向こうからやってきてくれた。
女性は氷雪華を観察しながら、それは幸運なのだろうと思いつつも、つい何者かの思惑を疑ってしまう。
しかし、それを考えるのは今はいいと軽く頭を振ると、女性は氷雪華を適切に処理する為に行動を開始する。
氷雪華は、簡単に言えば液体の入った袋の集合体である。なので、無闇に傷を付けては貴重な中の液体が外に流れ出てしまう。そうなると、その液体の価値は極端なまでに下がってしまうのだ。
女性が欲するのは、濁りの無い液体。その為には、動物である氷雪華にもしっかりと在る関節に沿って解体しなければならない。それも、液体を体内に循環させる為に関節部分の筋肉を一瞬閉じた瞬間を狙って。
色々難しい方法だが、まず見た目が完全に透明な植物である氷雪華だが、関節も勿論透明なので、その見極めからしなければならない。更には関節部分は個体によって微妙に位置が異なるので、見極めるのは非常に困難。その為、女性は戦闘前にギリギリまで近づいて、それを見極めていたのだ。
あとは弁の役割をしている筋肉が閉じた瞬間を狙うだけなのだが、無論その筋肉も透明なので、閉じた瞬間の見極めというのもまた難しい。
しかしそれも女性は事前に確かめていたので、あとは筋肉の収縮に合わせて関節部分に攻撃するだけ。だが、ここでも問題があった。
それは、筋肉が収縮して弁を閉じた瞬間に関節部分に攻撃するにしても、面倒な事にそれを全ての関節にほぼ同時に行わなければならないという事。
それの問題は三つ。一つは、氷雪華の関節が多い事。それも全てが地上に見えている訳ではなく、植物でいう根っこのような外からでは見えない部分もあるので、そこを含めてほぼ同時に狙うのはそれだけでも困難なのだ。
二つ目が、筋肉を収縮させるにしても全身が同時に行われる訳ではないという事。とはいえ、幸いなことにズレはほんの僅かではあるが、それでもそれを把握して攻撃しなければならない。
最後の三つ目は、一撃で関節部分を切り落とす必要がある事。ただ、氷雪華は生態系の上位に位置しているだけに体表がもの凄く硬く、生半可な一撃では切り落とせない。
それらを全て克服すると、最上級の素材が手に入れられた。それとついでに述べれば、氷雪華は普通に戦っても強い動物であった。
女性はその悉くに対して問題ないと判断したからこそ行動に移ったので、心配する必要はないのだろうが。
そうして行動に移った女性。結果は全て完璧に処理出来ていた。元々力量さがもの凄くあったにしても、その手際は惚れ惚れするほどに鮮やかであった。
まるで容器に入れられている様に、各部位毎にバラバラになった氷雪華。解体を終えた女性は、それに近づき一つを手に取る。
「問題は・・・ないね。透明度も高いし、申し分ないだろう。ま、下の方が一部少し濁っていたのは残念だが、土や草木でも食べたのだろう。それでも許容範囲内。いや、それどころかこの透明度は上々か」
求めていた素材が手に入り女性は上機嫌に頷くと、虚空に穴を開けそこに氷雪華の部位を次々に放り込んでいく。少し濁っていた部位もついでに収納していた。
氷雪華の身体は氷の様に冷たいのだが、女性にそれを気にした様子は無かった。それどころか、冷たさなど感じいないかのように淡々と作業していたので、事前に何かしらの対策を取っていたのだろう。
見事に処理した氷雪華の身体を回収した女性は、少し周辺を調べた後に石の山が築かれている広場の方に目を向けて、思ったよりも早く石の山が完成しそうだと思い、戻る事にする。
その道中で先程の氷雪華について思案するも、明確な答えは出てこない。何者かの意思にしても、候補の中には該当しそうな相手は居ない。何よりそんな痕跡は発見出来なかった。
女性は小さくため息を吐き出すと、思案している間に到着した広場の中央で雄大な姿を晒している石の山に目を向ける。
見た限りもうほとんど完成したようだ。あとは女性が微調整をすれば、石の山は目的に沿って起動するだろう。あとはそれを制御さえ出来れば、目的である扉としての役割を全うしてくれる。
何処から何がやって来るかは女性にも分からないが、それでも協力的であればいいのだがと願いながら、女性は詰めの作業に取り掛かるのだった。
◆
石の山を扉として機能させるための詰めの作業は、石の山が組み終わってから一ヵ月以上掛かった。
膨大な魔力を維持しながら、精緻に魔法を組み上げていく。それだけでもこの世界に可能な者がどれだけ居るか。
それでいながら、その維持を一ヵ月以上という長期間続けられる存在となると、片手で足りるほどしかおるまい。いや、もしかしたら女性以外には不可能な芸当だったやも知れない。
そんな高度な技術でもって扉を完成させた女性は、起動する前に一旦休憩する事にした。
休憩といっても、女性に肉体的な休息は必要ない。精神的な休息は僅かに必要だが、別に取らなければ取らないでも問題なく活動出来る。その場合、合間合間に小出しに休息するだけだ。
そんな女性が行う休息は、一月以上前に手に入れた氷雪華を用いた薬の調合。
女性は森の中に入ると、広場から少し奥の方に在った大きな木にぽっかり開いた穴の中に入っていく。
その穴の中は地下へと延びており、地下には小さいながらもしっかりとした造りの地下室が在った。
女性は頑丈そうな扉を開けると、中に入る。しっかり施錠して誰も入ってこれないようにした後、室内に用意していた椅子に座り、大きな机の上に虚空に収納していた材料を置いていく。
机の上の置かれていく材料は、どれも瑞々しかったり真新しかったりと、時間の経過を全く感じさせない。
「さて、早速取り掛かるか」
そう呟くと、女性は少し離れた場所に虚空から取り出した大小様々な機材を並べていく。
それが終わるとその中から薬研を取り出し、椅子の前に置いた。その後にその中に薬草などの草木を適度な大きさに千切っては入れて、すり潰していく。
粗方材料をすり潰した後、次はすり鉢を用意する。
「さて、これが肝要だからね」
そう小さく口にして、女性はすり鉢の中に虚空から取り出した虹色に光る小さな塊を入れると、丁寧にそれをすり潰していく。
乾燥していたのか、それは簡単に砕けて粉になる。それから更に細かく砕いた後、女性はすり鉢の中身を薬研の中に入れて混ぜ合わせ始める。
程なくして完全に中身が混ざったら、虚空から氷雪華の一部を取り出した。
「最後にこの中身を入れて混ぜ合わせれば、最初の段階は終了っと」
長さ三十センチメートルほどの細長いそれの上部を僅かに切ると、とろとろとした粘性の液体が垂れてくる。
女性はそれを薬研の上でひっくり返し、中身を注いでいく。
「ゆっくり、ゆっくりと」
逸る自分に言い聞かせるように口の中で呟くと、眼前でトロトロの液体が薬研の中に少しずつ入っていく。
そのまま一時間ほど掛けて中身を全て薬研の中に出すと、女性は丁寧に丁寧に中身を混ぜ合わせた。
「よし! あとはこのまま少し置いておき、その間に次の準備だ」
念の為に少し奥の方に薬研を置いた女性は、機材の方に移動して機材を弄り始める。
何やら小さな四角い箱の部分から細長いモノが触覚や脚のように幾本も伸びている機材の用意を済ませると、女性は虚空から直径二十センチメートルほどの円形の平皿を取り出した。
「さて、そろそろいいかな?」
平皿を持って薬研に近づいた女性は、中身の様子を確認する。薬研の中には、満遍なくキラキラと輝く濃い紫の液体が入っていた。
それを確認して女性は頷くと、虚空から少し大きめの匙を取り出し、それを使って薬研の中身を平皿に少量移す。
キラキラと輝きながらゆっくりと平皿に薄く広がった液体に満足げな顔をすると、女性はそれを機材の箱の中に入れる。
それから機材を起動させて少し待つと、機材が止まり女性は箱の中から平皿を取り出した。
平皿の上でパリパリに乾燥して水色になったそれを確かめた後、機材を起動させている間に新しく用意したすり鉢の中に乾燥させたそれを丁寧に剥がして慎重に入れていく。
全てすり鉢の中に入れ終わると、それを押し潰すようにして砕き、粉にする。
そうして中身を完全に粉にした後、女性は先程と同じように平皿に薬研の中身を入れる。そうした後に、今度は完全に粉にしたすり鉢の中身を平皿に広がっている液体の上に振りかけていく。
満遍なく液体の上に粉を振りかけ終えると、それを再度機材の中に入れてから機材を起動させる。
機材が止まると、パリパリの中身をすり鉢に入れて粉にする。その後に平皿に薬研の中身を入れて、その上にすり鉢の中の粉を満遍なく振りかけていく。そしてまた機材に平皿を入れて・・・という作業を、薬研の中身が無くなるまで延々と繰り返す。
そうして完成した粉を、今度は氷雪華の液体と酒の様な何かで満たされた鍋の中に全て入れて、コトコトじっくりとろ火で煮詰めていく。時折混ぜて焦げないように気をつけながら煮詰め終わると、火を止めて今度は氷雪華の液体のみで慎重に鍋を満たす。
鍋の中が氷雪華の液体で満たされると、火を点けずに、同じ速度を保ちながらゆっくりと中身を混ぜていく。
二時間ほど手を休める事無く中身を混ぜると、そのまま一時間ほど寝かせる。
そうして中身が落ち着いた頃、火にかけて水分を少し飛ばす。水分が飛んで体積が少し減った辺りで火を止めて冷ます。
完全に熱が取れたところで、それを何度かろ過していく。
そうした過程を踏んだ液体を透明な瓶の中に移した女性は、やや黒い魔法の光に透かしながら中身の様子を確認する。
「・・・こんなものかな」
そう呟いた女性は、瓶を傾けて、やや黒い光を放つ光球に液体をかけていく。
液体を掛けられた球体は、液体を零すことなく全て吸い込んだ後、闇を凝縮したような濃い黒色になり、徐々に縮んでいった。
やがてその球体が直径一センチメートルほどまで縮んだところで、女性はそれを摘まんで躊躇なく口に放り込むと、何やら緑色になった氷雪華の液体で胃の中へと流し込んだ。
そんな特殊な丸薬を呑み込んだ女性は、椅子に腰掛け腕を組むと、目を瞑って時を過ごす。
静寂の時が過ぎていく中、少しずつ女性の指が腕に食い込んでいく。それに伴い、何処となく女性の顔も苦しげに歪みだした。
時間が過ぎていくほどに、それは徐々に表に出てくる。
静かな空間に鳴るミシミシという僅かな音は、掴んでいる女性の腕の骨が軋む音か、それとも食い縛っている歯が軋む音か。
額に脂汗を滲ませて、顔を苦悶に歪める女性。腕は自分の手で握り潰したようで、変な方向に曲がった腕をだらりと身体の横に垂らしている。しかし、女性にそれを気にしている様子は無い。
足下の石の床にはひびが入っており、座りながらも足先に力を籠めているのだろう。
更に時が過ぎ、歯が割れて口内でも傷つけたのか、一筋の血が口の端から細く流れている。
それに透けるように白かった肌が変色しており、全身の半分以上を赤黒い不気味な色が侵食していた。血管も皮膚の真下を走るように浮かび上がり、どくどくと不気味なまでの速度で蠢いている。
女性の膨大に在ったはずの体内の魔力も今ではほとんど無いような状態で、もしもこの状況を見た者が居れば、何か感染症にでも罹って今すぐにでも死んでしまいそうだと感じるような、そんなゾッとした雰囲気が漂っていた。
そんな状況でも、女性は何かに耐えるようにするだけで、声一つ漏らさない。強く閉じられたまぶたの隙間からは、真っ黒な血の涙が溢れて頬を伝っている。
常人では既に息絶えている状況のまま更に時が経ち、すっかり全身を覆っていた赤黒い色だが、時と共に今度は少しずつ薄くなっていっていく。
女性の表情も僅かずつだが和らぎだし、流れていた血も乾きだす。
更に時が経過すると、見た目が変化していたなど嘘の様に元に戻っていた。折れた腕や血の跡などは残っているが、それに目をつぶれば肌は白く、表情は実に穏やかなものだ。
それから少しして、女性はゆっくりとまぶたを上げる。
「・・・・・・ん」
まぶたを上げた女性は周囲を見回した後、意識がはっきりしてきたのか不快げに顔を歪める。
その後に一瞬で身体中の傷を治し、身体の調子を確かめだした。折れた歯もすっかり治っている当たり、普通の治癒魔法ではないのだろう。
一通り身体の調子を確かめた女性は、汚れた身体を奇麗にしていく。その後は服も奇麗に元に戻し、あの丸薬を飲む前と変わらない姿に戻った。
いつの間にか枯渇寸前から回復していた魔力も確かめた後、女性は口元を微かに吊り上げる。
「ちゃんと変わっているな。実験は成功だ」
歓喜の滲む言葉を呟くと、女性は周囲を見回してから片付けを始めた。
程なくして片付けを終えると、女性は扉の鍵を外して地下から外に出る。地上は昼だったようで、段々と光が強くなっていく。
それから木の穴から森に出ると、森の中だというのに眩しい光に包まれる。
しかし女性はそれに何の反応も返さずに、森の中を進んでいく。
それから広場に到着すると、石の山を取り囲むようにして巨人達が見張りをしていた。
「どれぐらいの間地下に居たのやら」
巨人達の許に向かいながら、女性は独り言つ。
結局、結構な時間を地下に籠っていた。少なくとも丸薬の作製に四日は掛かった。その後に起きた薬への適応にどれだけ掛かったのかは、意識が朦朧としていた女性には分からない。
まあそれも巨人達に訊けばある程度は分かるかと思い石の山を囲っている巨人達に近づくと、それに気がついた巨人の一人が手を上げて言葉を掛ける。
「久しぶりだなソシオ。もう用事はいいのか?」
その巨人にソシオと呼ばれた女性は、にかりと少年のような笑みを浮かべた。その笑みには何処となく達成感というか、何か含みがあるようで、声を掛けた巨人は納得したように頷いた。
「ああ。それで、ぼくがここを出てどれぐらい経ったか分かる?」
「そうだな、太陽が十回以上は沈んで昇ったと思う」
「そうか」
巨人は長命種故か、それとも森で過ごしているからか、時間に酷く無頓着だ。ほとんどの巨人が時間も太陽が昇って沈んだ回数でしか計っておらず、それだってかなり適当なので、参考程度にしかならない。それでも今の女性には十分だったようだが。
「その間にここに誰か来たかい?」
「いいや、誰も来てはいないな」
「そうか」
巨人の返答に頷くと、女性は口の中で転がすように「そろそろ来てもいいのだが、起動した時か?」 と疑問を口にする。誰に言った訳でもないので、そのまま視線を石の山へと向けた。
「あれの様子は?」
「崩れてはいないな」
「そうか」
頷いた女性は巨人の方に顔を向けて「感謝する」 と告げて石の山の方へ近づく。
「さて、最終確認だ」
石の山の上まで飛ぶと、女性は問題はないかと確認を行っていく。
「しっかりと定着しているな。これなら制御も楽だ」
石の山の状態に女性は満足げに笑うと、石の山からゆっくりと浮かびながら下りて巨人達に伝えた。
「さぁ、門を開くよ!」
女性のその言葉に巨人達はざわつきながらも、急いで石の山から離れていく。
そうして広場の端の方まで移動した巨人達は、遠巻きに石の山の方へと緊張した視線を送る。中にはいつでも戦えるように構えている者まで居る。
そんな巨人達を確認した女性は満足げに顎を引き、石の山の正面に立った。
離れた場所に居る巨人と比べても一回り程高い石の山は、身長百六十センチメートルほどの小柄な女性にとってはかなり大きい。
正に壁と表現出来るほどの高さと横幅を持つその石の山を見上げた女性は、片手を前に突き出す。
女性が突き出した手から石の山へと向けて魔力を放つと、その魔力が石の山を覆うように拡がっていく。
瞬く間に膨大な魔力が石の山を覆い、それが石の山へと浸透するように吸収されると、石の山が鳴動するかのようにゴゴゴゴゴゴと腹の底に響くような音を響かせる。
その音は数秒ほどで鳴り止むと、今度はひとつだけあった入り口のような穴に薄い膜が張ったようになり、そこが光を反射して虹色に輝き出す。光の合間から確認出来る膜の奥の様子は、真っ暗でよく見えない。
次第に膜の光が強くなり、直視出来ないぐらいに入り口が発光しだす。
そのまま周囲を眩く照らしながら十数秒程が経過した辺りで、光が徐々に弱くなっていった。
眩く照らしていた光が収束すると、膜には暗闇ではない別の光景が映し出されていた。
膜に映し出されているその光景は何処かの平原。特筆すべき点はなさそうな牧歌的な風景だが、遠くに高い壁に囲われた場所が見える。
少しの間その光景を眺めていると、壁に囲われた場所から何かが近づいてくるのが分かった。
始めは黒い点。それが次第に塊になり、近づくにつれようやくそれが馬のような何かに乗った人間のような何かである事が分かる。
どの人物も全身甲冑という物々しい見た目で、今から何処かに攻め入るよう。
その全身甲冑が騎乗している何かは馬のように手足の長い体躯なのだが、まるで筋肉の鎧でも着ているかのように何処を切り取っても分厚く、その為に実際よりも短く見えてしまう。それでも脚一本の影に大人でも余裕で隠れられそうなほどだ。
その何かは、人の腕ほどの尻尾が二本生えている。先頭を進むモノに至っては尻尾が四本生えていた。
顔は馬同様に縦に細長いのだが、口の中に見える歯は鋭く尖っているので、もしかしたら肉食獣なのかもしれない。
足は馬よりも速く、鈍重そうな見た目に確実に重いだろう人物を背に乗せているというのに驚くほどだ。動きだって無駄がなく、滑るように向かってきている。
このまま進んでくるならばこちらに突っ込んでくるだろうと判断した女性は、空中を飛んで扉の真上、石の山の上に下り立つ。
女性が石の山の上に移動してから数分ほど経過したところで、石の山の穴から石が飛んでくる。突撃して来ていた連中が安全確認の為に投げたのだろう。
「無事に別世界と繋がったな」
それに女性が安堵の息を吐いたところで、馬っぽい何かに騎乗して武装している者達が数名飛び出してきた。数が少ないので斥候だろうか。
飛び出してきた者達は少し進んだところで止まり、周囲を見渡す。
ここは森の中に出来た広場なので、遠くに森が見える以外には、後方の石の山ぐらいしか目立つものはない。森との境付近には巨人達が待機しているが、結構距離があるので、余程視力がよくなければはっきりとは見えないだろう。少なくとも動かなければ、小山か周囲の木よりは小振りな木にしか見えない。
そして、どうやら石の山から出てきた者達は視力が優れている訳ではないのか、巨人達には反応しない。その代り、自分達が通過してきた扉や石の山に意識が向いていた。
そうなると当然、石の山の上に堂々と立ち、出てきた者達を見下ろしている女性に目が向く。
来訪者達は女性を指差し何かを確認した後、代表者と思われる一人が女性に向かって何かを大声で叫ぶ。しかし、世界が違うので言葉も異なる。自身が居る世界の言葉であれば大体把握している女性でさえも、その言葉は解らなかった。
それでも、誰何の問いや状況の説明などを求めているのだろう事は容易に想像がつく。代表者の声音も、大声ではあるが荒げている訳ではないので、警戒していても、まだ敵対している訳ではないようだ。
とりあえず女性は言葉が通じないという事を分かってもらう為に、来訪者達に対して自己紹介を試みる。
「ふむ。どうやら頭は回るようだ」
それで直ぐに言葉が違う事を悟ったらしい来訪者達を見下ろしながら、女性は小さく呟く。ついでに敵意無しとばかりに、両腕は身体の横にだらりと垂らしていた。
来訪者達は、女性に視線を向けたままその場で相談を始めた。言葉が通じないのが分かったからか、大声ではないにせよ特に声を潜める様子はみられない。
そのまま少しの間来訪者達は話し合うと、女性へと何かを告げて戻っていってしまった。
そんな来訪者達を女性は何もせずに見下ろしているだけ。別に女性から積極的に敵対するつもりはないので、後は相手の出方次第だ。
来訪者達が戻ってから十数分が経過する。完全に引き上げたのかとも思ったが、道が繋がっている以上、見張りぐらいは居るだろう。なので、もう少し待って向こうから何もしてこなければ、今度はこちらから向こうに行ってみてもいいかと女性は思案する。世界が異なると法則も異なるのかなど、興味は尽きない。
それから更に少し経っても誰もやってこないようなので、女性は一度石の山から下りる事にした。