其の二
「何を見ておいでですか?」
そう訊ねたのは、ランマルが部屋に入ったときから女王が一枚の紙片を手に持って、それを見つめていたからだ。
一方の手に握られたクリスタルグラスを口もとで傾け、中のワインの赤い液体をひと口干すとフランソワーズは微笑まじりに応じた。
「お前を呼んだ理由のひとつよ。まあ、見なさい」
そう言うと手にする紙片をランマルに差しだした。
うやうやしく受け取ってその紙片に視線を落としたとき。そこには大きな文字で、
【天下布武】
という四文字だけが書かれてあった。
この国の文字ではないのでランマルにはなんと書かれてあるのかはわからなかったが、すぐに見憶えのある字であることに気づいた。
「ひょっとして、これはドラゴニア文字でございますか?」
するとフランソワーズは薄く破顔し、
「さすがはランマル。王立学院主席卒の秀才だけのことはあるわね。そのとおり、これはドラゴニア文字よ」
ドラゴニア文字とは、海をはさんだ先にある亜大陸にあって三千年の歴史を誇るドラゴニア帝国で使われている言語のことである。
大陸の東部一帯を支配するドラゴニア帝国は、今ランマルが手にしている紙をはじめ、絹、火薬、羅針盤などを発明した偉大な国で、このジパング島の文化にも多大な影響を与えている国である。
まだランマルが王立学院の学生だった頃。一時、その大帝国の文化に興味をもち、さまざまな文献を読み調べたことがあったのでその文字に見憶えがあったのだ。
もっとも、見たことがあるというだけで、なんて書いてあるのかまではさすがのランマルにもわからなかったが。
「それで陛下。これはなんと読みますので?」
「これは【テンカフブ】と読むのよ」
「テンカフブ?」
「そう。武力によって天下を、つまり人の世を支配するという一種の思想ね」
「武力で支配……」
なんとも恐ろしい思想である。ランマルなどにはそう思えてしょうがない。
そもそもドラゴニア帝国という国自体、三千年もの間、戦争と滅亡と勃興を繰り返してきたまさに【修羅の国】であり、そういう不毛な歴史を刻んできた国だからこそ、こんな恐ろしい思想ないし哲学が生まれたのだろうとランマルは思う。
「それで陛下。このテンカフブなる言葉がどうされましたか?」
「もうすぐ私が即位して一年になるわね?」
質問に質問で、それも、それまでの話とはまるで無関係な質問で切り返されたので、ランマルは一瞬返答に窮したものの、
「あっ、はい。来月の二十日でちょうど一年になります」
「それを祝う式典も予定されているわよね?」
「御意ですが、それが何か?」
するとフランソワーズは沈黙し、かわってなにやら意味ありげな薄笑いを浮かべてランマルを見つめた。
その笑みに、たちまちランマルの胸中に得体の知れない不安が囲みあがってくる。
妖艶さすら感じられる意味ありげな薄笑い。
この種の笑いが女王の顔に浮かんだとき。それはその頭の中で「ろくでもない」考えが進行していることを、このわずか半年の間にランマルは身をもって学んでいたのである。
そして、それが事実であったことを、ランマルはこの直後知ることとなったのだ。
「その式典の席上で重臣連中に対して大々的に発表するのよ。これよりオ・ワーリ王国は、この天下布武を国政の基本とすることをね」
「はあ?」
不敬の極み。ランマルはおもわず間の抜けた反応を見せてしまった。
しかし人間、あまりに突飛なことを突然面と向かって言われたら、誰しも間の抜けた反応しかできないとランマルは心底から思う。いや、そんなことよりも……。
「ええと、国政の基本にされると申されますと?」
「あら、わからないの? 国軍を中心とする武力を背景に、まずは国内の完全支配に乗りだすのよ。この私に――女王フランソワーズ一世に逆らう者は容赦なく皆殺しにすると宣言してね」
「み、皆殺し……でございますか?」
「そうよ。貴族であろうと平民であろうと例外なくね」
「はあ……」
あまりに突拍子もない女王の言葉に、ランマルは当初冗談だと思って笑おうとしたのだが、その顔は中途半端に凍りついてしまった。
それも当然で、フランソワーズの透きとおるような碧眼と視線があったとき。
その輝きを見て女王が本気であることを察したのだ。
となれば、ランマルとしてはとても平静ではいられない。
「し、しかし、陛下。国内の完全支配と申されましても、先の内戦からすでに一年。すでに陛下の治世は盤石のものとなっておりますれば、そのようなイカレた……いや、苛烈なことをされる必要はないものかと……」
するとフランソワーズは、またしても意味ありげな微笑でランマルを見すえ、
「ランマル。お前には先の戦いで私に敵対した連中が、本当に心の底から私に忠誠を誓っているように見えるの?」
「そ、それは……」
面と向かって問われると、ランマルは言葉を詰まらせざるをえなかった。
否、答えられなかったのだ。
本音を言えば「先の内戦」は終わったどころか、今もその残り火が国内各所にくすぶっていることを、彼自身よく知っていたからである。
――先の内戦。
それは今から一年半ほど前。オ・ワーリ王国の王位をめぐって王族間で勃発した戦いのことである。
すべての発端は、先代の国王オーギュスト十四世が急逝したことにある。
オーギュスト王が生前のうちから後継者を正式に定めておけば、たとえ急逝したとしても混乱が起きることはなかったであろうが、なにぶん王は当時まだ四十代で、まさか突然亡くなる――しかも食中毒で――とは、本人も含めて誰も想像すらしていなかった。
ともかく国王が死んだ。
となれば、王の子息の中から次の国王を選んで即位させなければならず、その候補となったのは長男のカルマン王子、次男のアジュマン王子、三男のアドニス王子という三人の息子たちであった。
およそ王位継承における序列は、長子が第一位というのが万国共通の慣習であり、それはオ・ワーリ王国も例外ではない。
長男であるカルマン王子が即位すれば問題はなかったように思われるが、話を難しくさせたのは母親の身分であった。
カルマン王子はたしかに長子であるが正王妃の御子ではなく、オーギュスト王が城勤めの女官に生ませた、いわゆる庶子であった。
一方、次男アジュマン王子と三男アドニス王子はともに正王妃の実子で、血統にこだわる重臣や有力貴族の中には「二人のいずれかこそ次の国王にふさわしい」と主張する者まで出た。
そんな血統の話だけでも問題を難しくさせるのに、くわえて三人の王子たちの背後には、それぞれ自分たちが担ぐ王子に国王に即位してもらい、その「おこぼれ」にあずかろうと画策する者までいたことで問題はさらに複雑なものとなり、三王子間――正確には支持者同士の――対立も日増しに激しくなっていたこともあいまって、結局、醜悪きわまる骨肉の内戦が勃発したのである。一年半前のことだ。
当初、カルマン王子を支持する勢力は北部ジャルジェ領に。アジュマン王子の勢力は西部グランディエ領に。アドニス王子の勢力は東部モリエール領にと、それぞれが所有する自身の領地に本拠をかまえて戦いは三つ巴の様相を見せていたのだが、三人の中では比較的兵法の心得と、なにより人望に優れていたカルマン王子がしだいに勢力を拡大し、二人の弟を圧倒していった。
これに焦ったアジュマン、アドニスの両王子は、実の兄弟ということもあったのだろう。
戦いの最中に突然和睦すると、そのまま同盟を結んでカルマン王子に対抗したのである。
すると、それまで戦いを優勢に進めていたカルマン王子も、兵力で勝るアジュマン=アドニス連合の前に、それまでの快進撃から一転、たちまち劣勢に追いこまれた。
連勝を続けていたカルマン軍が一時は敗走を繰り返していたというから、いかに二人の王子の和睦と同盟が絶大な相乗効果を生んだのかが知れたが、それでもカルマン王子が幸運だったのは、敵対する二人の弟が側近たちもサジを投げだすほどの「愚者」であったことであろう。
アジュマン王子もアドニス王子も、手を組んだものの本心では互いを嫌悪していた上、カルマン王子に勝利した後、どちらが王位に就くかという問題についても話し合うことを避けて棚上げにしていたこともあり、同盟を結んだ後もつまらない内輪揉めと対立を繰り返し、劣勢だったカルマン軍に反攻の隙を与えてしまった。
敵内に生じた混乱を見逃さずにふたたび攻勢に転じたカルマン軍は、ほとんど自滅状態のアジュマン=アドニス連合軍を一蹴。二人の王子を自害に(近習に謀られて毒殺されたとも言われている)追いこみ、半年近くにもおよんだ骨肉の王位継承戦に終止符を打ったのである。