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表と裏とその奥に8

 例えばの話。君が誰かに追われていたとする。その者は残忍で、こちらを殺そうと探しているのだ。
 こちらが特に何か悪い事をした訳ではない。少なくとも自分が認知している内では、殺意を持って追われるような事をしでかしたという記憶はない。
 だというのに、追われているのだ。そんな理不尽な相手に追われているとして、君は何処に逃げる? もしくは隠れる?
 ああ、一応言っておくが、戦っても勝てない。正面切って戦うのは論外にしても、奇襲を仕掛けても勝つ事は出来ないだろう。それこそ、こちらの都合がいい条件を揃えに揃えたうえで奇襲したとしても、あっさりと返り討ちに遭う未来しか見えないほど。
 それほどの相手なのだ。世の理不尽を体現したかのような不条理な存在。そんな者に追われていたとしたら、君はどうする? どういった行動に出る?
 ああ、ここでも更に追加して言っておくと、降伏したとしても赦される事はないだろう。見つかって捕まった時と結果は変わらない。温情なんてモノを期待しているのであれば、それは幻想というモノだ。
 故に、出来る事は追跡者が飽きるまで逃げ続けなければならないだけだ。隠れてやり過ごすにも、場所を考えなければならない。相手もこちらを探しているのだからね。
 隠れ場所はまぁ、色々とあるだろう。君には君の考えというやつが在るだろうからね。因みに僕はというと、追跡者が拠点にしていた場所だろうか。
 追跡者がそこから出てきたのを確認後、こちらを探す為に遠くへ行ったのまで確かめてから、逆に拠点の中に入って隠れるんだ。相手も、まさか自分の拠点に追っている対象が居るなんて思わないだろうからね。足下というのは存外目に映らないものさ。
 という訳で僕はその場合、相手のお膝元に隠れるという選択をする訳だ。
 しかしこれには注意が必要で、まずは相手の動向をある程度把握しておかなければならない。でなければ、潜入なんて難しいからね。
 潜入後は、気配を可能な限り消す事だ。お膝下という事は、そこは相手の領分という事。そんな場所であれば、少しでも気が緩むと直ぐに発見される危険性が在るから。
 そんな風に危険性は高いのだが、それでも見つかりにくいという魅力が在る。見つかりさえしなければどうにかなるのだ。
 だがそれは逆に、一度でも見つかると危険だという事を意味している。本当に、見つかった瞬間に終わりなのだから。

「現実逃避もこれぐらいにしておくか」

 周囲を油断なく見渡しながら、僕は一つ息を吐き出す。
 逃走生活を始めてどれぐらいになるだろうか。そんな事に意識を向けている余裕がなかったので、正確な日数までは分からないが、数ヵ月程度だったと思う。その間、ずっと気を張っていた。

(あれはおかしい。異常だ、異様すぎる。始原の祖たる僕が無様に逃げるしか手立てがないなどおかしすぎる。これまでだってこれからだって、僕を超えられる存在は誕生しないし、してはならない。そうなってはこの世界の根幹が変わってきてしまう。だからこそ、あれはおかしい。突然変異なんて範疇ではない。あれは存在自体が歪過ぎる。何処かに僕の関知していない別の世界が在って、そこからやってきたと言われた方がまだ納得出来る)

 そう思うのだが、そうではない事を誰でもない僕自身がよく知っている。僕が知る世界以外に世界は存在していないし、あれが僕が知る世界で生まれた事も知っている。だからこその異常。

(何故あれは理の根源に手を出せる? あれは僕でも気を遣う代物だぞ!? それをいとも容易く扱いやがって!! あの世界を構築していたデータを改ざんするのとは訳が違うのだぞ!? あり得ない。だが、認めない訳にもいくまい。実際問題として、あれはそれを行っているのだから。だからこその脅威。僕が勝てない理由。僕以上に理の根源を掌握しているせいで、こちらからは手が出しにくい)

 そんなことを考えると、つい深刻な表情を浮かべてしまうが、今はとにかく隠れていなければならない。
 その間に反撃の手を模索しなければならないが、そんなモノが在るのだろうか?
 まあいい。とにかく今は隠れていよう。あれが生まれたこの世界の中に。





 世界の眼を修得する為の修練を行い、食事をしてから少し休み、入浴がてら水練を行った後、睡眠前の魔法開発。最近はそんな毎日。
 ああ、勿論朝食もちゃんと摂っている。しかし、昼食はあまり摂れてはいない。世界の眼を修得しようと集中していたらあっという間に夕方だからだ。
 まぁ、その分修練が終わるともの凄くお腹が空いているのだが。
 水練の後もお腹が空くからな。そちらは寝る前だから気持ち悪くなりそうで控えているけれど。
 そんな日々を過ごしているが、まだ拠点は完成していないよう。思ったよりも遅いのだが、詳しい事は聞かされていない。ただ、何かに手間取っているようだ。それが終われば完成らしいが。
 その間の成果は、世界の眼は訓練部屋程度の広さなら問題なく使えるようになった。現在はここの階層全体を世界の眼で把握する事に移行しているが、こちらももうすぐ完成しそうだ。
 そうなれば、ある程度離れた場所まで視る事が出来るようになるので、貫通魔法も再度使えるようになるだろう。だが、転移は短距離が精々だろうな。長期はまだキツイ。
 水練の方は、浮く事は出来た。泳ぐのも速度はでないが出来るようになったので、一応出来るようになったといってもいいと思う。
 魔法開発の方は行き詰っている。水中で呼吸が出来るようになるまでは出来たが、それも短時間。しかも水練の時に泳いで試してみたが、効果が半減した感じ。これは泳ぐ事に慣れていないのが原因だろうと思っているが、魔法の方も完成していた訳ではないからな。
 そして、この段階になってやっと気がついたのだが、どうやら以前ほど魔法を理解する事が出来なくなっているようで、今回のように何処が駄目なのか直ぐには分からなくなっていた。
 脳内での魔法の構築は問題ないんだけれどな。実地だとどうも感覚が鈍化しているように思える。気をつけないと。
 魔法開発の方は、そういう訳で上手くいっていない。
 水練の方を優先した方がいいのだろうかとも考えるが、そういう訳でもないのだろう。最終的には泳がなくてもいいようにしたいが、広大な水の中を自由自在に泳ぐというのも楽しそうではある。
 まぁ、今はそれについてはどうでもいい。
 そもそも魔法の開発などそうそう上手くいくものではない。新たな魔法の開発というモノは相応の時間が必要なのだ。あとは閃きだが、これについては昔から欠けている部分なので、どうしようもないだろう。
 全体としてはそんなモノ。改めて確認してみても、全体的に順調に事が進んでいるものだ。
 魔法開発は時間が掛かるので、急ぐ必要はない。それこそ水中で呼吸できるようになっただけでもかなり順調だと思う。
 これも全て集中できる環境のおかげだろう。それもいつまで続くのか分からないのが気になるが、まあいい。急に外に出られるようになったとしても、直ぐに出るかどうかはボク次第だろうし。
 その中でも世界の眼が使えるようになったのは大きいだろう。もっと視る事が出来る範囲を拡げなければいけないが、少し前まで使えなかった事を思えば、これで安心出来る。
 失って解ったが、ボクは世界の眼に大分頼っていたようだ。そんなに使っているとは思っていなかっただけに、あの時は不安でいっぱいだった。
 とはいえ、こうして世界の眼を再習得できたのだが、やはり情報を読み取ることは出来ない。あれは精神干渉魔法と同じで、先天的な才能が必要なのだろう。であれば、修得など不可能。直感だが、おそらく間違ってはいない。
 さて、寝る前に現状を確認してみる為に振り返ってみたが、さきほど思ったように、全体的に好調だ。そろそろ新しい何かを増やすべきか、それともより深く取り組むべきか。もしくは時間配分を見直すべきだろうか?

「うーん。現状、世界の眼に関しては、もうすぐここで出来る範囲を超えそうなんだよな。そうしたら下の階層や上の階層まで範囲を拡げればいいだけなんだけれど・・・ここはプラタが設置した魔法道具が在るから、それの影響で上層と下層は魔法が使いにくいんだよな。下に設置した転移や拠点防護の魔法道具への影響は限りなく無いようにしてくれているようだけれど、その他はプラタが設置した魔法道具以外は妨害される仕様らしいし。本来であればここも対象らしいけれど、そうすると修練の邪魔になるから限定的に解除してもらっているが、これは拠点が完成したら、ここも妨害の効果範囲に入るのかな?」

 この魔法の例外は、製作者のプラタのみらしい。プラタだけは、その妨害の中でも魔法の行使が可能なのだとか。ただこれは、直にボクにも適用する予定らしいので、そうなったら気兼ねなく魔法の修練も出来るな。
 いや、今はそんな事はどうでもよくて、労力の配分について思案しているのだったな。
 現状では世界の眼がかなり進展している。水練はほどほどに修得してきたが、これは急ぎではない。魔法の開発も同じだ。しかし、こちらは水練よりも優先されるべき案件だろう。

「お風呂の時間を短くすれば、その分魔法開発に時間を使えるが、水練しながら魔法開発は・・・無理だな。そんな余裕はない。入浴時間を短くするのは問題ないけれど、うーーん・・・せっかく前に進んできているというのに、その流れを絶つのはな」

 徐々に眠気が増していく中で思案していくが、答えが出ない。
 睡眠時間や食事の時間を削るのは却下だ。現状でも既に昼食の時間がないのだから、食事の時間は大切にしたい。
 睡眠も同様だ。この身体になって必要になった事なので、そこには少しこだわりが在った。
 ああ、急に眠気が増してきたな。今日はもう寝よう。明日の結果次第では、また何かしらの考えが浮かんでくるだろう。
 そう思いながら意識を闇に沈めていった。





 気配を消して隠れる。こんな経験は初めてだ。
 そもそも、追われるという事自体が初めての経験。
 初めての経験というのは、わくわくするモノらしいが、この初体験はわくわくというかガクガクだ。
 恐ろしい、本当に恐ろしい。具体的にどれだけ恐ろしいかといえば、気配を消すのに気を配りすぎてろくな考えが思い浮かばないほど。
 それを聞くだけなら何だか愉快な感じがする気もするが、それは当事者ではないからだ。もしも君が当事者であれば、恐怖だけで今すぐに死ねると感じているだろうさ。
 ああ、本当に。どうしてこうなったのだろうか? よく分からない内に命を狙われる。原因が分からない以上、対処のしようがない。
 あれの生誕の地に来れば何か分かるだろうかとチラリと考えはしたが、そもそも僕に分からない事などないはずなのだ。なので、結局は隠れる為でしかない。
 しかしまぁ、解っていた事とはいえ、この地にはそこら中からあれの足跡が感じられるな。特に二ヵ所、いや三ヵ所ほど強く感じる。これは確か、あれが創り出した変異種と生み出した変異種か。それと、長きに渡りあれを封じていた器か。
 封じていた器は、色々な要因が絡んでいたとはいえ、よくもまぁ、あれだけ長きに渡ってあれを封じられたものだ。しかし、同じ事をしても、もうあれを封じる事は不可能だろうな。何せ、相手が理の根源に手を出せるようになったのだから。
 その結果、あれを封印でも何でもいいから止める事は不可能になってしまった。望みが判ればいいが、姿を現す訳にはいかないし・・・困ったな。
 あれなら世界の管理も出来るのだろうが、完全に破壊しか考えていない。生い立ちを考えればそれも多少は理解出来るが、やはり何かおかしい。だが、何がおかしいんだ? 無差別に世界を破壊している事か? 僕を追っている事か? ・・・分からないな。上手く思考が回ってくれない。現状があれの腹の中みたいなものだからな。恐ろしくてしょうがない。





「・・・・・・まぁ、結構出来てきたかな?」

 現在建設中の街に在る、一際高い建物の屋根に腰を下ろしながら、シトリーは眼下に広がる光景を眺める。
 眼下には建物が規則正しく並び、そこを行き交う様々な種族の者達。
 既に移住はかなりの数が済み、建物も十分量建設されていた。物流に関しても、各種族の商人が集められて早速市が開かれ、賑わっている。
 貨幣に関しては、いつの間にかプラタが新たな通貨を用意していたようで、シトリーが知った時には、独自に定めた歩合で各種族の貨幣と交換を終えていた。
 シトリーがプラタにその事について話を聞いたところ、かなり厳密に周辺の国々の相場や貨幣の価値などを調べ上げており、それを相対的に比較して相場を決めていたようであった。
 難しい部分は全てプラタに丸投げしていたので、シトリーはそれを聞いても異議は何も無い。結局のところ、国が上手く回るのであればそれでいいのだ。
 それに、どうやら法律も大枠で決めているようで、既に暫定的な法まで施行されていた。それらを聞いて一体いつの間にと、押しつけておきながら、シトリーはプラタの処理能力の高さに内心で苦笑したほど。
 それでも、そのおかげで国は上手く回っているようだ。様々な種族が暮らすからか、法もそこまで堅苦しいものではない。正直現在の本当の法は、その暫定的な法律よりもプラタ自身といっても過言ではないのだが。
 シトリーはその様子を眺めながら、未だに遠くで作業をしているフェンとセルパンの方に意識を向ける。

「いやはや、本当に規格外だ事で。短期間でこれだけの物を、ねぇ。私でもこれは無理だな。だから素直に凄いと思うよ」

 うむうむと数度頷くと、シトリーはもう一度街並みに目を向けた。そこには、少し前までここには何も無かったとは思えないほどに栄えた街並みが広がっている。
 上下水道などもしっかりと整備されているので、出来たばかりの街というのを除いても、とても清潔な街だ。
 何より特質すべき点は、やはり住民の強さだろうか。
 この国に住まう者の数はまだそこまで多くはない。実はここ以外には海擬きの湖に街がもう一つあるだけで、領土の割にはまだ内情は小さなもの。
 シトリーの目の前に広がる街と海の街との交易もしっかりと行われているのだが、それでも国としてはやはり小規模だ。
 とはいえ、他にも新たな街が築かれているので、それも時間の問題かもしれないが。しかし、現段階でも国としての戦力は、他国を圧倒する。
 欠点は数だろうが、それはやり方次第ではどうとでもなるので、その辺りは工夫次第だろう。
 この国の戦力が異様に高いのは、単純に強い者を中心に集めたから。それでいてしっかりと統率が取れているのだから弱い訳がない。

「・・・それにしても、せかっくこんなに美味しそうなご飯が集まっているというのに、手が出せないとはな」

 シトリーは住民達を見ながら、残念そうに呟く。その内容は実に酷いものであったが、本気でそう思っているのが判る声音であった。住民に聞こえていないのがせめてもの救いか。
 しかし、眼下の住民には聞こえていない呟きでも、それを聞いていた者も居るようで。

「当たり前です。この国のモノは全てご主人様の物。それに手を出そうというのであれば、貴女でも容赦はしませんよ?」
「分かってるよ。だからこうして見ているだけでしょう?」
「ええ。今のままでしたら見なかった事にしましょう。貴女がつまみ食いをしていた事も同じように」
「あれは移住を拒絶した者達だから、ジュライ様の物ではないだろう? であれば、君にとやかく言われる筋合いはないよ」

 眼下に視線を向けたまま、シトリーはプラタに面倒くさそうにそう告げる。

「というか、君は忙しいのだろう? なんでこんな場所に居るんだい?」
「貴女の様子を見にですよ」
「それはまた、大変だねぇ」
「ええ、本当に。それが解っているのでしたら、もう少し協力的になって欲しいものです」
「協力しているだろう? 住民は集めたし、物資も持ってきている。何より現在の防衛を担っているのは私だよ?」
「何を偉そうに言っているのです? 他の事をやらない代わりにそこを担っているのでしょう? 文句が在るのでしたら、私と役割を交代しますか?」
「うっ・・・・・・はいはい、分かりましたよ。それで? 私に何をさせたいので?」

 やれやれといった感じで振り返ったシトリーは、プラタに嫌々そう問い掛けた。

「何、簡単な事ですよ。少し周辺の様子見をお願いしたいだけで」
「そんなモノ、私に頼まなくとも君一人で出来るだろう・・・に?」
「ええ、それです」
「なるほど」

 呆れたように言葉を返したシトリーだが、その途中で異変に気づき、プラタの真意を理解する。

「しかし、何だこれ? 死の支配者関係でもないし、知らない気配だな。そもそも、よくこれに気がついたな」

 シトリーは困惑した目をプラタに向けながら、驚いた声を出した。

「偶然です。周辺を警戒していた時に微かに引っ掛かっただけです」
「それでも大したものだよ。私は今まで気がつかなかったんだからさ」
「あれで気がつくのでしたら十分でしょう。とにかく、そちらの方は頼みましたよ? その間の防衛も私が担っておきますから」
「分かったよ。面白そうだし」

 プラタの言葉に楽しそうに返すと、シトリーは立ち上がり屋根から飛び降りる。そしてすぐに転移で姿を消したのだった。





 気配を探って転移したシトリーは、周囲に視線を巡らす。
 転移した場所は、シトリー達が拠点を築いている場所から少し離れた場所に在る火山地帯。その山間部。
 ゴツゴツとした岩がそこら中に転がっているその場所を、シトリーは注意深く進んでいく。捕捉している気配はあまりにも希薄で、それがその場に薄く満ちていて、場所を特定するのが難しい。

「さて、この辺りだと思うのだが・・・」

 身を隠しながら慎重に進むシトリー。
 シトリーでも中々気配を掴めない様な相手なので、手ごわい相手なのは間違いないだろう。
 それでも少しずつ近づいているからか、着実に気配が読めてきていた。もう少しで大本に到達する。

「一体何が居るのやら」

 そうして緊張しながら近づいてみると、覗き込んだ岩陰に小さな水溜まりが出来ていた。

「こんなところに水溜まり?」

 周囲を見回したシトリーは、水溜まりに視線を戻して首を捻る。火山の影響か、はたまた最近雨が降っていないのか、周辺は乾燥していて水溜まりどころか湿気っている土さえ見当たらない。
 だというのに、目の前には小さいながらも水溜まりが出来ている。まるで誰かが水筒の中身を棄てた様な感じではあるが、周囲には誰も居ない。気配さえも感じない。それどころか、その水溜まりから周囲に薄く漂う気配と同じモノを感じていた。

「なんだ、これ?」

 シトリーは疑問に思いながらも水溜まりから距離を取ると、それに向けて強酸性の液体を放つ。しかし、その液体が当たっても水溜まりには何の反応もない。

「・・・・・・気のせい、な訳ないよな」

 少し様子を見たシトリーは、もう一度同じ攻撃を行う。だが、変わらず何の反応もない。
 それにシトリーはどうしたものかと思案する。

「おい、そこに誰か居るのか?」

 順番が逆だったかと思いはしたが、シトリーは水溜まりへと声を掛ける。

「・・・・・・」

 しかし、答えは何も返ってこない。それでも最初と同じくそこから気配はしているので、何かがそこには居るのだろう。

「言葉が解らない? それでも何かしら反応してもいいと思うのだが。そこに居るのは分かっているのだし」

 語り掛けるようにそう口にするも、声を掛けている水溜まりからは何の反応もない。最初の方で微かに騒めいたような感じがしたのだが、段々それも気のせいだったかもしれないと思えてくるほどに何の反応もしなくなった。
 シトリーは暫し考えると、その水溜まりに問い掛ける。

「君は私の敵かい?」

 その自分の問いに、シトリーは実に今更だなと思ったものの、その感情は黙殺する。そんな事を考える事の方が今更だ。
 それから返答を待つも、やはり何の反応もない。これも同じ結果かとシトリーが次の手について思案を始めたところで、水溜まりの気配が一瞬揺らぐ。

「おや? 何か答える気になったのかな?」

 それを察したシトリーは、余裕のある声音でそう問い掛けるも、密かに戦闘体勢を取りつつ、内心では緊張していた。
 暫くすると、水溜まりやその周辺の気配が一気に希薄になる。その後に水溜まりから何かが飛び出す。それはとても小さな雫。
 一滴の雫が形を保ったまま地面に転がる。その姿は小さいながらも、シトリーには見慣れた姿であった。ただ、随分と懐かしい気もした。

「・・・小さなスライム?」

 水溜まりだった時よりも気配は薄くなったものの、変化が在った事は喜ばしくもあった。同時に警戒も強める。

「――――――」

 シトリーの言葉に反応するように、その小さなスライムの様な何かは、何かを発する。しかし、小さいからか声が大きくない。それに加えてシトリーの知らない言語なのか、それは音にしか聞こえない。

「何を言っているのか聞こえないぞ? 言葉も解らないし」

 困ったような呆れたような感じで応えると、小さなスライムはプルプルと小さく震える。
 数秒そうして震えていた小さなスライムは、震えるのを止めると再度声を出す。

「僕は君の敵ではない」
「お?」

 変わらず小さい声ながらも、今度はちゃんと言葉として理解出来たシトリーは、やや驚いたような表情を浮かべた。

「ちゃんと会話が出来るんだな」
「ああ。出来たらしたくはなかったが」
「何故?」
「見つかってしまうからな?」
「誰に?」
「僕を追っている者にさ」
「何をしたんだい?」
「さぁ? それは僕にも分からない。しかし、気がつけば追われていた」
「意味が分からないよ?」
「それは僕も同じさ。だからこそ、こうして隠れていたんだけれど・・・こうして簡単に見つかったという事は、どうやら力が弱まっていたようだね」
「ふむ。それはそれで見つけた私に失礼な気もするが・・・まあいい」
「おっと、それはごめんよ」

 見つかったのはシトリーが優れていたからではなく、自分が弱っていたからだと嘯く小さなスライムに、シトリーがやや面白くないといった感じでそう漏らすと、小さなスライムは軽い言葉ながらも、申し訳なさそうに謝る。
 それにシトリーは小さく息を吐き出すと、小さなスライムに改めて目を向けた。
 その小さなスライムは、直径一センチメートルぐらいの楕円形で、やや水色がかった透明。
 顔などの何か目を惹くようなモノは何も無く、何もせずにじっとしていると、ただの雫にしか見えない。
 魔力も大して内包していないので、余計に感知しづらい。
 口はないが、声を出す時には身体を震わせているので、その振動で声を発しているのかもしれない。
 他には特に特徴らしいところもないので本当に発見が難しいのだが、これでも本調子ではないという。

(それにしても、よくこれを見つける事が出来たものだ)

 小さなスライムを観察したシトリーは、これの気配を発見したプラタの感知の鋭さに改めて驚愕する。

「それで、これからどうするんだい?」
「どうするも何も、このまま隠れているさ」
「いつまで隠れているんだい?」
「相手が諦めるまでさ」
「そんな日が訪れるのかい?」
「・・・・・・そう願うしかないよ。僕では到底勝てない相手なのだから」
「ふむ。そうかい」

 一瞬、拠点に連れ帰ろうかと考えたシトリーだったが、面倒事をわざわざ持っていく必要もないかと、その考えを却下した。

「それは邪魔をしてしまったね。敵ではないのならば、それでいい」
「ああ。僕はここでずっと隠れているつもりだから、敵対も何も、動くつもりはないよ」
「そう。それじゃあね。その追っ手とやらに見つからないといいね」
「そう願うよ」

 それだけ言うと、小さなスライムは溶けるようにして広がり、地面の染みとなった。
 その様子を最後まで見届けたシトリーは、危険無しとして転移する。

「・・・・・・」

 転移してシトリーが去った後、地面の染みと化したそれは、困ったように気配を消す。

(あれ以外に見つかる、か。これは失態だな。というよりも、ここに来たのは失敗だったかもしれない。この世界はあれに法則が弄られているせいか、どうも力が上手く発揮できない。それでいて、その影響でここから出る事も難しい・・・・・・これはあれだな、完全にあれの術中に嵌ったというやつだろうな)

 それは現状をそう判断して、自分の無様さにどうしたものかと思案する。
 実際それは、扉を開けて待っていた鳥かごに自ら飛び込んだに等しく、既に扉は閉められているので、もう出る事は敵わない。
 そして、それは現状に酷く焦っている為にまだ気がついていない。鳥かごの役割の一つに、対象を観察する為というものがある事に。
 しかし、それは気がつかない方が幸せなのかもしれない。見られているというのは、精神的に負担になるものなのだから。それもかなり間近で観察されているなど、知らない方がいいだろう。

(姿を現して話をしてしまったからな、僅かでも波立たせてしまっていたら気取られているかもしれない。力だって制限されているのだ、更に慎重に周囲を警戒しながら隠れなければならない)

 何も気づいていないそれは、そう考えながら更に気配を消していく。
 そのすぐ傍では、完全に全ての気配を絶った状態の一人の少年が、無表情のままそれを観察しているなど、露ほども思わない。
 シトリーがこの場に来るよりずっと前からその少年はそこに居た。そして、ただただそれを観察していた。
 もしもの話だが、仮にそれが少年の存在に気がついたとしても、それには予想がつくまい。少年にはそれが考えている事が全て筒抜けであるなどと。
 それは相手を勘違いをしていた。いや、見誤っていたというべきか。
 確かにそれは気配を消すのが上手く、見つけるのがやや難しい。しかし、もしも相手がそれを追う事に集中したとすれば、その隠密など何の役にも立たない。
 相手はそれを越えているどころの話ではなく、既に全ての管理者としての権限は奪われていた。
 神は万能ではない。ただ絶大なまでの力を持つだけだ。ならば、その力を超える者は何なのか? 新たな神? では、今までの神はどうなる?
 そんな事は知りはしない。隠れる事になるのか、追われる事になるのか、はたまた役割を分担する事になるのか、もしくは変わらないのか。
 それにとっての少年は、まさにその神を脅かす存在であった。しかし、それがそもそもの勘違い。
 少年は確かに神を脅かす存在なのかもしれないが、少年は別に神などどうだっていいのだ。力などどうだっていいのだ。
 それ以前に、少年は別にそれを追ってはいない。
 それに、少年はそれがちらりと考えた様な、何処かの世界で生まれて神を超える力を持った者ではない。それの視点で見れば間違ってはいないのだが、その根本を見直さなければ、少年への対策など出来なかっただろう。
 しかし、知る訳がない。理解出来る訳がない。少年が世界の理が微かに狂ったせいで生まれた(ひず)みであるなど。
 かつて少年は自身をバグだと説明した事があった。それは実に言い得て妙で、少年は本来生まれべからざる存在。世界の法則に反した、在ってはならない存在。
 そんな存在が祝福される訳もなく、また歓迎される訳もなし。歪みに歪み、世界を壊し、それでもなお世界には受け入れられない。ならばと足掻いてみた結果、少年は一つの結論にたどり着いた。それは世界を壊す事。
 歪な自分を創っておきながら、それを受け入れられずに忌み嫌い、あまつさえ排除しようとするような世界。それでいながら、自身を止める事さえ出来ない脆弱なる世界。であれば、存在する価値は如何ほどのものであるか。
 そんなものは決まっている。無価値であると。だからこそ少年は動き出したのだ。世界を壊し、その先へと繋げる為に。本当の世界を知らないそれに成り代わって。

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