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シオンは途方にくれていた。
前日は薄暗く良く見えなかったが、天井が低い、しかもすごく。
背の低いシオンでさえ天井に手が届く。
しかも、5~6階建てはあるだろう。確認はして無いが。
高層の建物が所狭しとひしめき合っていた。
彼女、公女殿下もオスマンの華麗な服から、こちらの一般的な
ユダヤ人の服に着替えさせられていた。
三角形の奇妙な帽子、よれよれの一張羅。変形したぼろぼろの木靴。
これがヨーロッパのユダヤ人の処遇を表わしていた。
もちろん彼女がそういう姿なのには理由がある。
それが理解できたから我慢しているのだ。
周囲のユダヤ人に、ヘロデの至玉の存在を知られるわけには行かない。
そもそも、オスマンの大貴族の正装は目立ちすぎる。
ギデオン卿が手紙で書いてきたのはこのことか。
後でギデオンを叱責しよう、ここ人は悪くない、何も悪くない。うん。
部屋をノックする音が聞こえた。
自宅なら侍従がするだろうが、ここは小人の国だ。
しかも船のような硬質な響きではない。
扉の安全性が非常に不安だ。
「よろしい。入りなさい。」
シオンは威厳を持って、下々のものに舐められないように
粗末な服と小さな部屋で、胸を張って迎えた。
「すみません、こちらにシオン公女殿下は
いらっしゃいますか。」
ハイヤーハムシェルと言う接待人は、ふざけている。
憤慨するシオンだったが、社交術には長けている。
見た目に感情は出ない。
しかし、言葉には少し出た。
「この部屋で、公女殿下は無いでしょう。」
不愉快極まりない、最もあきれ果てて、どうでも良いが。
「ご機嫌麗しく存じ上げます。王女殿下。
私の名はハイヤーハムシェル、ハッペンハイムより遣わされた
接待人です。」
ハイヤーハムシェルは自分の限界を超える慇懃さで
深々と頭を下げた。
「ハイヤー ハムシェル?キリスト教圏ですよね。
名前がハイヤー 家名がハムシェル?」
シオンは英国について学んできたが、ハムシェルという家名があるのだろうかと
不思議に思った。
「いえ、本名を隠して申し訳ございません。陳謝いたします。
名はハイヤー 家名はバウアーです。
ドイツ語で田舎者と言う意味でございます。」
「す、すみません。変なことを聞いてしまって。」
しかし、疲れる。このような会話と態度がずっと続くのだろうか。
まあ、ギデオン卿も、貴族といって無いし、民衆でしょう。
「こちらのユダヤ人は、おかしな家名をつけられるのです。
知り合いに 船 バネ 強欲 と言う家名のものがおります。」
シオンは、噴き出してしまった。
考えても見よう。「砂糖 花子」、「針金 次郎」などという
本名の人がいたら、可笑しいし、悲惨だろう。
ハイヤーハムシェルは慇懃に、淡々と、自己紹介を終えた。
・・・つもりだった。
「本日は日曜日です。外出は禁じられておりますので、
ゲットーの中を案内させていただきます。」
シオンは名前が面白いので、なんだかこの少年がかわいいと思えた。
そこで、ある提案をする事にした。
「そうですね、あなたは私に、虚偽の発言をしました。
オスマン帝国公爵家として、オスマンの名代として
1ヶ月以上かけて、遠路はるばる来た私に、接待の責任者が。」
笑いながら言ったのだが、バウアーには伝わらなかったようだ。
「しかし私は、人に処罰をしても何の益もありません。
そうですね、水タバコを買ってきていただけますか。」
今日中に買ってくることができれば、許しましょう。
ハイヤーハムシェルは地面にひれ伏しそうな勢いで
走って出て行った。あらら、私の案内は誰がするのかしら。
すると、シオンと同じような年恰好の女性が顔を出した。
「バウアーの指示で、案内させていただく事になりました。
イライザと申します。」
慌てふためいても、仕事はきっちりしているようだ。
そもそも、この人が案内する予定だったのかも。
ハイヤーハムシェルは顔を真っ赤にして、息を切らせて
ハッペンハイムの使用人を急きょ集めた。
「水タバコを探し出せ。今日中だ。」
使用人の一人が言った。
「ここはイスラムではありません。通常の方法では入手できないのと思います。
モーセス様にご助力いただいたほうが良いのでは。」
「だめだ、町中を探せ。」
ハイヤーハムシェルはあわてていたためひとつ忘れていた。
ゲットーの中に水タバコなどと言う、高級品が売っているはずが無いと。
ハイヤーハムシェルはあっさりと騙された。
水タバコは見つかった。だが明らかにゲットーの
外に出られないと言ううそがばれてしまった。
ヨーロッパ大陸において日曜にゲットーから出られないと言うのは常識だ。
だが、ここは大英帝国なのだ。
「公女殿下 あまりお急ぎにならないほうがよろしいのでは。」
ハイヤーアムシェルは路にある水溜りが、水や雨ではなく
小便であると言うことを知らせるか迷った。だが知っておくべきだ。
「なぜですの。」
シオンは不思議そうに聞いた。
ハイヤーハムシェルは慎重に、だが真剣に言った。
「路の真ん中を歩けば馬車に轢かれます。しかし端のほうを歩くと
窓から、トイレの中身が降り注いできます。」
「そのため、すさまじい悪臭が漂っており、ハーブのマスクなしで歩くのは
不可能です。」
ハイヤーは必死に傘を差しながら早口で説明した。
オスマン帝国から来た貴族は歩くのが速かった。
ついていくのに必死だ。殿下が頭から糞尿を被ったら。
そう思ったら気が気でなかった。
シオンは貴族ではあるが、イスラム教徒ではないので
身分制度そのものから外れており、ユダヤ人の代表と言う位置だった。
しかも、その次女。どこかのユダヤ貴族の嫁に行くだけだ。
それに先ほどの服や建物、寛容で裕福だと言う大英帝国でこれだ。
ヨーロッパ大陸はどのようなところなのだろう。
「こちらには、午後の紅茶と言うのがあるらしいですね。
ぜひ経験してみたいです。高級店はいやですよ。」
シオンは紅茶よりコーヒー党だが
オスマンにはない英国のお菓子に興味があった。
それを聞いたハッペンハイム使用人の団体が大急ぎで探しに行った。
はあはあと息を切らせながら使用人の一人が店を見つけてきた。
ハイヤーは使用人をにらみつけた。思いっきり庶民の店だ。
「ぶしつけな質問ですが、ユダヤ人はハノーヴァ王朝において
開放されたのですよね。なのに大半の人々はゲットーに住んでいる。
なぜですか」
少し迷ったが、また嘘を言って、怒らせるとまずい。
物理的に首が飛ぶのはいやだ。ここからはすべて正直に行こう。
ハイヤーハムシェルはそう心に決めた。
「元々、物乞いやスリ、乞食や売春を生業としてきた我々
と言うより、一般のユダヤ民衆は資金がほとんどありません。」
「それに住み慣れた我が家と申しましょうか、ゲットー
それ自体がユダヤ人を閉じ込めておく牢獄であると同時に
身を守るための城でもあるのです。」
ハイヤーはひとつだけ聞きたい事があった。
幼少に両親が殺され、8歳でオッペンハイム家に出仕した為、
記憶はおぼろげだが、毎日のように借金を踏み倒すため
暴徒が襲い、キリスト教徒の虐殺や強姦が日常茶飯事
ゲットーの門に豚の絵が書かれており、
賄賂を持たないものは リンチされ殺されていた。
それゆえ、キリスト教徒である大英帝国がこれほどまで
ユダヤ人に寛容なのか、それなりに権力に食い込み
地位もコネもあるハイヤーハムシェルでも知らない。
それゆえ、尊敬と親愛を持ってこう聞くのだ。
「なぜ、この国は我々、ユダヤ人に良くして下さるのですか。。」
シオンは少し迷ったが隠す事でもない。
「そうですね。かつて薔薇戦争のランカスター側の武門の出自であった
後のヘンリー7世はヨーク側に裏切りました。彼はローマ教皇の仕立てた
王女エリザベスを妻に迎え、平民出身でありながら王となり
テューダーという王朝を作りました。」
「しかし、神聖ローマ皇帝及び教皇はこれを認めず、
王権の返還すら求めました。しかし反対勢力もおり
妨害され、国が纏まらない為、対策を講じる事ができませんでした。」
「そこで、あなたのような優秀な若者、一介の貿易商であった
初代ジョン・ラッセルに白羽の矢が立ったのです。かれは のろま
と言う名の船に乗り、世界最強のスペイン無敵艦隊の打倒を掲げ
反旗の狼煙を上げたのです。」
「当時オスマン帝国のペルギーネだった我が租ヨセフとグラツィアは
協力し、ユダヤ海賊スィナンや宮廷医ハモン、初代オスマン帝国海軍提督
バルバリア王ハイレディン、彼の部下モハメットシャルークらを集め
プレウェザの海戦にて、アンドレアドーリア率いるイタリアスペイン艦隊に勝利し、
地中海の制海権を握りました。」
「ロードス島を落とし、セウタ海峡を勝ち取り、ウィーン包囲にいたりました。
背後ではグラツィアがネーデルランド独立に莫大な支援をして、独立させます。
フッガー家は多額の借財を負わせ、免罪符の乱発で兵站を破綻させ、
民衆の心は離れました。その結果、初代ラッセルは救国の英雄となり、
一代で伯爵になり、その子、フランシスはアマンダ海戦でスペイン無敵艦隊を
壊走させました。その結果、大英帝国が成立、世界の植民地を手に入たのです。」
「まあ、ラッセル公は我が家に大恩があると言う事です。」
そういうと、公女殿下はティーカップを置かれ
お菓子を食べ終えた。
ハイヤーハムシェルはあまりの規模の大きさに驚いていた。
それと同時にこの方はやはり、我々の正統王家なのだとも感じた。
感心仕切りのハイヤーハムシェルがまだ隠し事をしている。
油断したハイヤーハムシェルを見ながら、
そう感じたシオンは問いかけた。
「何か心配事でもおありですか。」
ハイヤーハムシェルは少し考えたが、我々では数年もの間、解決できなかった。
そもそも、ギデオン家やハッペンハイム家の主人である。
隠していても仕方が無いし、ユダヤ人への襲撃事件を話さなければ
発覚したとき、殿下は本当に私を殺すだろう。
ハイヤーハムシェルは今まであった事件の経過を知る限り
シオン公女殿下に伝えた。
「なるほど、しかし、オスマンはおろかヨーロッパでも
聞かない話ですね。その事件が起こったのは大英帝国だけなのですか。」
もう大抵のところは調べた。
「いまのところ打つ手はなし、お手上げです。」
シオンはハイヤーハムシェルに慇懃に振舞ってもらう必要を感じなかった。
かつて、オスマンの大貴族だったヨセフやグラツィアは
ジョンラッセルを単なる一介の騎士、平民として接したのだろうか。
おそらく違う。対等に扱ったはずだ、だから、ラッセルは大英帝国で
必死の努力をして、ユダヤ人が安心して暮らせる世界を目指したのだろう。
シオンは心を決めた。
「シオンと呼んでください。ハイヤーさん。」
ハイヤーは固まった。
「え。」「あのう、どういうことですか。」
シオンは自然体にもどりたかった、友人でありたかった。
同胞のことを心から心配し憂慮する、年下の接待人に。
「かつてのジョンラッセルは平民でしたが、
我が祖グラツィアに平伏して従ったのでしょうか。
友人だったから、この国ができた、そう思います。」
「あ、そうそう。大航海時代で思い出したのですが、経度を測るのに
正確な時計が必要で、王家の身代金と同額がかけられていたとか。」
「今周囲の労働者も、時計を持っていますね。工場で働くので
他の国に比べて、時間に正確だとか。」
シオンがそう発言したとき、ちょうど労働者が歩いており
スリに懐中時計をすられたところだった。
運悪くそのスリの子供は、時計を落としてしまい
しかもさらに運の悪いことに捕まってしまった。
この時代5シリング7ペンス以上の窃盗は死刑であり
子供であっても容赦はない。
だがハイヤーハムシェルは、落ちた時計から零れた
あるものに目が行くと固まってしまった。
時計から転がり出たものそれは、「ルビーだ。」
ハイヤーハムシェルは小さくつぶやいた。
何気ない言葉だが、異邦人の視点も馬鹿にはできない。
そもそもオスマンには懐中時計など無いのだろう。
懐中時計には宝石が軸受けとして使われている。
しかも質屋で高額で換金できる。
カルテルも鑑定していないはずだ。
シオンの幸運に感謝した。
「シオン、そのラッセル公の片腕、ギデオン卿に会わねばなりません。
今すぐに、ご同行願いますか。」
「それと、そのハーブのマスクを外す事をお勧めします。」
マイヤーは笑いながら言った。
「それは遠慮しておきますわ」