バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

産業革命期に入り、マンチェスターの炭鉱は盛況である。
石炭は、薪を使った暖房よりも暖かいし長持ちだ。
マンチェスターで肉屋として店を構えている、
彼女、パトリシア・シャムロックは
ひたすら石炭の火で、肉を焼いていた。
毎日何頭かの牛を解体している。
これを聞けば、この店がどれだけ大きいかわかるだろう。
だが、この店は、ある一点において特殊であった。

故オックスフォード卿ロバート・ハリーが
フランスへの亡命。
女王メアリーの系譜ステュアート朝の後継であり、
ケルト人の希望であった僭王ボニープリンスチャーリーの敗北。
それらの事実に絶望してしまった彼らは、
フランス西部に本拠地を移した。
ブリテン側の海岸沿いの各地に拠点を持つ彼らは、
自らの国家を持たず、なんら支援を受けていない。
しかし、弱きもののために命を賭けて戦い、
しかし、持たぬものからの見返りは受けない。
流浪の騎士団フローティングナイツ、ハイルドギースと言う。
日本語では「暴れ鵞鳥」を意味する。

綺麗事で飾られた彼らではあるが、その仕事は
単純に言えば、「人殺し」だ。
軍隊である以上当然だろう。
戦場であれば、殺した相手の死体は放置すれば、
野犬やオオカミが食べるだろうし、腐って土に返るだろう。
むろんこの時代、月に数人程度ならば放置しても問題ない。
浮浪者の死体など見向きもされないからだ。
人の死体などゴミと同じである。

しかし、彼らは騎士団であり、仕事の相手は
貴族や大商人、スパイや騎士、傭兵などだ。
大騒ぎになるので、到底、死体を放置など出来ない。
ゆえに、牛の肉に混ぜてミンチにして、
肉屋で販売している。
人間の死体は人間の胃袋が始末してくれる
と言うことだ。
食べる側からすれば、たまった物ではないが。

薄汚れた継ぎ接ぎだらけの服を着た、男が2人,
店にやってきた。
朝方から煮込んだ、牛肉のミンチ肉を団子状にしたものは、
食欲をそそる匂いをしている。
パトリシアの店は金儲けを目的としているわけではないので
香辛料もたっぷり、燃料費もケチらず、よく煮込んである。
にもかかわらず、どの店よりも安いのだ。
当然、毎日長蛇の列が出来ている。

昼飯時の最初の客である2人の男は朝方から仕事もせずに
並んでいたところを見ると、この店に並ぶのが彼らの役割なのだろう。
仲間の昼飯確保の仕事だろう。人件費は安く、
仕事より人のほうが多いのだ当然である。

男の一人は、パトリシアに向かって大きなバケツのようなものを
差し出すと、2人では到底食えない量を注文してきた。
「おいブッチャー、ミンチ 20パウンド。」
広いとはいえ、薄汚い店舗に、薄汚い客。
それでもパトリシアは笑顔で黙々と、
男のバケツに肉の団子を入れていく。
熱々の温度だ。

「ちょっと、オマケしておいたよ。」
本来は笑顔などめったに見せないパトリシアだが
さすがに接客業になれてきた。
満面の笑顔だ。
流行っていない店の店主ほど無愛想だ。
この店は繁盛している、仏頂面で数百人の客の
相手をするのは大変だ。
パトリシアも半年働いたところで、
笑顔で接客するほうが、疲労を感じにくいときがついた。

「あんがとよ。つけでたのむぜ。」
そういうと、その客は次の客が睨みつけるので、
そそくさと去っていった。
正直、付けといわれてもいつ払われるのかは
一向にわからない。むろん、店員の一人が帳簿にはつけているのだが
客の人数が多すぎて把握し切れていない。
公的な身分証明書で会員証を作るわけでもないので、
無料で手に入れることも可能だろう。

この時代、圧倒的に通貨が不足しており、金貨を持っている
市民などおらず、銀貨も銅貨も不足していた。
それゆえ、付けで買うのが当たり前であった。
レストランで暴れた挙句、その場で付けを払えと言われた客が
借金で監獄船に送られることも少なくない。
たいていは債権者が許してくれるのだが、
そのまま奴隷として売られたり、奴隷として閉じ込められて、
強制労働。運が悪いと、いや運がとても良くないと生き残れない。
大小便垂れ流しで、寿司詰めの監獄船で半数は1年以内に死ぬ。

ふと店の隅に目をやると、真っ黒な服を着た紳士が立っていた。
ハーブのマスクでも消しきれない、地面に落ちた肉の破片の腐敗臭や
風呂に入らない汗まみれの労働者の臭いゆえか、
苦しそうな顔をして立っている。
パトリシアはこの男が嫌いなので、意図的に気が着かない振りをして
緩慢に作業をしていた。


「よろしいですかな。」
我慢できなくなったのか、その紳士は、
パトリシアに、慇懃丁寧に話しかけてきた。

「すまないね。臭いだろう。もうすぐ終わるから、奥に行きな。」
黒服の紳士は走り出さんばかりに奥の部屋に飛び込んだ。

この黒服紳士、苗字は ハーシー れっきとした貴族である。
ハイルドギース騎士団の団長の ハンドルフ公の片腕である。

ハイルドギース騎士団は、ケルト人の貴族や騎士の集団であり、
国と国民を棄てたとはいえ、それなりの勢力を維持できているのは
ハーシー家がハンタギューやハワードとそれなりに繋がっているからだ。
しかし、騎士団のメンバーの大半が名誉や誇りを重視するのに対し、
ハーシーは、「国を失ってまで、高潔に生きる必要は無い。」
と言う思想であり、同胞が殺されている。どのような手段を用いても
祖国奪還を!と言う考えで、パトリシアとはウマが合わない。

パトリシアは、幼いころ貧乏ではあったが、育ての親に
「どんなことがあっても、弱きを助け、正義を貫け。」と教えられた。
カヴァネスをしていた彼女は教養も高かった。
騎士団のボス ハンドルフ公もそれに近い。
このハーシーは違う。騎士団にとって異物なのだ。
こいつのボスは、トーリー党の清教徒のハンタギュー公爵家
なのではないかと思えるほどだ。

この男も パトリシアに邸宅に部屋を用意するから住みませんか。
とか、働く必要も、戦う必要もありませんと言うのだが。
仲間に汚れ仕事を押し付けて、貴族のように暮らすのは
パトリシアは絶対にいやだった。それはクズのすることだ。
しかも、この男はパトリシアが一喝すると、黙り込む腰抜けだ。
それは、団長ハンドルフも同じなのだが。彼は紳士だ。臆病なのだろう。

ハーシーはおどおどした様子で、申し訳なさそうに口を開いた。
「あのーそのー、騎士団の一員が例のものを、持ち逃げしまして、
探してはいるのですが、あなたの元に何か情報が入っていないかと
おもいまして、あと報告のために、うかがわせていた、いただきました。」

「ああ、裏の仕事かい。」
パトリシアは一般市民ながら、その知性と腕力、足の速さを見込まれて
治安判事ヘンリーフィールディングの作った自治組織
ボウストリートランナーにスカウトされた。ハンドルフやハーシーは
肉屋も辞めるべきだが、自治組織で殺人鬼を追いかけるのは危険だと
猛反対していた。

しかし、ストリートランナーの仲間からは、尊敬されていた。
もはや崇拝と言っていいレベルで。
自治組織の人間は、捕まえると金がもらえると言う理由で
濡れ衣を着せたり、ちょっとした犯罪でもすぐ捕まえる。
しかし、パトリシアは女子供はわざと見過ごし、自分のお金で立て替えていた。
しかし、どんな凶悪な犯罪者にも一番先に突っ込んで行く。仲間思いで
性格が真面目で暗いが、その姿勢は評価され、自治組織で彼女ほど
人望のあるものはいなかった。立て替えた金はハーシーの財産から出ているが。
そのため、あらゆる情報が彼女には集まってくる。
その知性も認められており、信用できる情報はまず彼女に相談が来る。

「知らん、それに知っててもお前に教えると思うか?」
パトリシアは不愉快さを隠そうともせず、足を机にのせた。

「それでは困るのです。そうおっしゃられるなら、私の差し上げた金銭を
かえしていただだだききた・・・。」
ハーシーはパトリシアの鬼のような形相に黙るしかなかった。

「せっかく、整った顔立ちをしていらっしゃるのに、
社交界にきていただだだけけれ・・・。」
ハーシーはまたも黙った。

パトリシアとしても、マキャベリストな部分が好きにはなれないが
ハーシーも 敵には冷酷だが、仲間思いで、騎士団やケルト民族を
守ると言う覚悟と想いは本物で。その点は評価していた。
WASPの王家ハノーヴァ朝と奸臣ハッペンハイムはともかく
一般大衆のアングロサクソンにも 優しさが少しでもあればいいのだが。

これ以上ここにいると憂鬱なので情報を渡す事は約束してやった。
「はぁ、疲れた。」
肉屋と言っても自営業なので、営業時間も自由だ。
人間を解体して、売るか捨てるのが仕事なので
働いているのはハイルドギースの騎士だ。
しかも、パトリシアの「高貴なるものの義務」に共感しているのか
ハイルドギースの若くも無い幹部が、額に汗して、鼻が馬鹿になりながら
働いている。
ボウストリートランナーはパトリシアには寛容で、こちらも
自由勤務、まとめ役になっていた。
「さて、店じまいすっかな。おい、野郎ども、店じまいだ。」
パトリシアがいうと。
「あいまむ」と言う返事が返ってきた。














しおり