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第二章 月曜日のバグ

 ――ピンポーン
 いつものように食パンとサラダの朝食を食べていると、玄関のチャイムが鳴った。こんな朝早くから一体誰だろう?
「はーい」
 ドアに一番近い席に座っていたお母さんが返事をして、玄関に行った。
「あら、智保ちゃん」
「これ、北海道のお土産です」
 昨日まで家族で旅行に行っていた智保が、お土産を持ってきてくれたのだ。智保の両親は旅行が趣味で、ちょくちょく智保と三人で旅行に行ってはお土産を買ってきてくれる。
 僕と愛里も玄関に行った。
「りっくん、あいちゃん、お土産もらっちゃった」
 お母さんが、智保から受け取った箱を僕と愛里に差し出した。
「あっ、『白い動物たち』だ! これかわいいけどおいしいから絶対食べちゃうよね」
 愛里が箱を受け取ってはしゃいでいる。
『白い動物たち』はクッキーにホワイトチョコがかかっているお菓子で、熊や狐、馬、牛、羊といった北海道でおなじみの動物の形をしている。これまでにもお土産として何度かもらって食べたことがあるけど、クッキーはさっくりしているしホワイトチョコの甘さは控えめなので、つい次々と手が出てしまうおいしさだ。
「そうそう! 智保ちゃん、お母さんもね、こうちゃんのゲーム始めたのよ!」
 お母さんはなぜか智保にまで自分のことを「お母さん」って言う。お母さんにとっての智保は、僕や愛里と一緒に育った自分の子供のようなもの、なのかもしれない。
「はい。愛里ちゃんのブログで見ました」
 アイリーのブログはけっこう人気だ。まめに更新していて、アクセス数やコメントも多い。そもそもアイリー自身がβ版からのヘビーユーザーということもあって、『リュンタル・ワールド』ではちょっと名前が知られている存在だ。そのせいもあって、ブログにも自然と人が集まるのだろう。
「智保ちゃんは今日はゲームするの? 一緒に遊びましょうよ! 楽しいのよこのゲーム!」
 智保は僕や愛里と一緒に開発中のテストプレイから遊び続けているし、本物のリュンタルにだって一緒に行っている。そんな智保に「楽しいのよこのゲーム」なんて言うのはおかしいんだけど、そういうことを言ってしまうのがお母さんだ。智保だから笑顔で受け止めてくれているけど、他の人だったら絶対変な人だと思われてしまうに違いない。
「はい、じゃあ一緒に」
 智保は笑顔のまま頷いた。智保の笑顔には本当にいつも癒される。
「ねえねえお母さん、リュンタル行く前にお菓子食べようよ」
『白い動物たち』を持っている愛里の手が落ち着かない。早く開けたくて仕方がないのだ。
 僕もこのお菓子は好きだ。でも、僕は冷静だった。
「あのなあ愛里。まだ食事の途中だろ。お菓子は後にしろよ」
「あっ、まだ朝ご飯終わってなかったのね」
 智保はそう言うと、ドアノブに手をかけた。
「じゃあ、あたし先にログインしているんで、後で合流しましょう」
 お母さんに軽く頭を下げて、智保は隣の家に帰っていった。

 朝食を食べ終えた僕は、『白い動物たち』を食べ始めた愛里とお母さんを後にしてリビングを出て、部屋に戻った。すぐに智保に電話を……と思ったら、智保はもうログインしていた。
 僕は『リュンタル・ワールド』のアプリから、仮想世界のシェレラにメッセージを送った。

 Rikki: お母さんのことなんだけど、話したいことがあるから、今から行くけどいいかな?

 愛里は、セキアがイモムシを倒したところまでしかブログに書かなかった。
 僕もそうだけど、昔からお父さんが作った開発中のゲームを熱心にテストプレイしている愛里は、「明かしてもいい情報」「明かしてはいけない情報」についての意識が人一倍強い。だから、お母さんが初めての『リュンタル・ワールド』を楽しんだということは書いたけど、バグが関係しているあのとんでもない活躍については触れなかった。当然、それを読んだだけの智保は詳しい事情をわかっていないはずだ。

 Shelella: 噴水の広場にいるから、待ってるね。

 よかった。時間的にも遠くには行っていないだろうとは思っていたけど、ログインした直後に会えるなら一番都合がいい。元々お母さんたちと一緒に遊ぶつもりだったし、最初から噴水の広場で待っていてくれたのかもしれない。
 僕はゴーグルを装着した。

   ◇ ◇ ◇

 目に飛び込んできたのは、シェレラと――シェレラに抱きしめられ、大きな胸に顔を埋めているアミカ。
 しまった。
 シェレラに昨日のことを言わなきゃ、ってことばかり考えていて、アミカのことがすっかり頭から抜け落ちてた……。
「あ、リッキ、話って何?」
 ただ突っ立っているだけだったとしても、きっと同じ口調で言っていただろう。ごく当たり前のことであるかのように、シェレラはアミカを抱きしめていた。
「いや……、その…………」
「ふにゃ~っ」
 アミカが力の抜けた声を漏らした。
 シェレラの大きな胸に擦りつけるように、もぞもぞと頭を動かしている。その拍子に顔が横を向き……トロンとした薄紫色の瞳が、僕を見つけた。
 アミカの目が大きく開く。
 うっすらとピンクに染まっていたアミカの顔が、急激に紅潮した。突然手足をジタバタさせたかと思うと、シェレラをドンと突き飛ばした。
「リッキ、オ、お、おハよう! な、なんでもナいよ」
 真っ赤な顔のまま、焦点が定まらないアミカが挨拶した。声が上ずって、ところどころで裏返っている。
「お、おはよう……」
 僕はなんとか挨拶を返した。
「シェレラにもアミカにも、今日は一緒だって言ってなかったね。ごめんごめん。でも仲が良さそうで何よりだよ。あはは……」

   ◇ ◇ ◇

「――ということなんだ……」
 三人で噴水の近くにあるベンチに座り、僕はゴーグルのバグのことをシェレラに話しているんだけど。
「うぅん……んにゃ~ん」
 アミカがまた甘い声を漏らしている。
 僕がアミカの頭をなでているので、それに反応しているのだ。
「なでさせて」と自分から言った手前、さっそく「なでなでして」と言ってきたアミカの要求に断ることもできず、ベンチの上で寝そべるアミカの頭を膝枕して左手でなでながら、顔は右隣に座っているシェレラのほうに向けて話している。
「だから、今日もとんでもないことが起きるかもしれないけど、お父さん公認のバグだから気にしないで。結局お母さんはゲームのことがよくわかっていないし、あんまりバグのことは追求しないで、お母さんと一緒に気軽に楽しんでほしいんだ」
 シェレラは時折頷きながら黙って聞いていたけど、こういう時のシェレラって本当にちゃんと聞いてくれているのか疑わしい。頷くタイミングも、なんだかずれている時があるし。
「わかった」
 シェレラはまた頷いた。
「どうしてあたしが上手く剣を使えないのかがやっとわかった。まさかゴーグルのせいだったとは思わなかったわ」
 そこ!?
 回復魔法の使い手であるシェレラはなぜか、本当は自分には直接攻撃が向いているのだと思い込んでいる。
「リッキ、そのゴーグル、もう一つないの?」
「ないよ! ――あっ」
 電子音が鳴った。アイリーからのメッセージだ。
 きっと、これからログインするっていう連絡だろう。

 Airy: お菓子全部食べちゃったからそっちに行くね。

「そりゃねーだろ!」
 メッセージウィンドウに向かって大声を上げてしまった。ウィンドウは本人にしか見えないから、傍から見れば何もない空間に向かって叫んでいる、ちょっと変な光景だ。思わず周囲を見回したけど、特に注目を集めたりはしていなかった。きっと、普通に三人で話しているように見えたのだろう。
 ただ、シェレラとアミカは、ちょっとびっくりしたみたいだったけど。

 見回した視線の先にあった『(ゲート)』が光り出した。地面に描かれた直径二メートルほどの円形が白く輝き、上へ伸びて円筒を作る。
 数秒後、円筒が上から形を失っていく。白い光が地面まで降りて消え、『門』の中にはアイリーと――。
 少女、だ。
 武器も防具も装備していない、ごく普通の一般人の少女。
「だ……、誰?」
 僕だけではない。シェレラもアミカも、一緒に『門』の中にいるアイリーも、戸惑いを隠せない。
「アミカ、もしかして同級生?」
「……いっしゅん信じそうになった」
 髪の色や瞳の色は、セキアと同じ黄緑色だ。
 でも、この水色のワンピース姿の人物は、普通に見れば十歳くらいの女の子だ。
 こんな冗談も言いたくなる。

 ログイン時に一緒に『門』にいるということは、現実世界の同じ場所から同じタイミングでログインしたということだ。だからアイリーと一緒にいるこの少女は、間違いなくお母さんのアバターのはずだ。
 これも、バグの影響なのか……?
「お母さん……だよね」
『門』の中のアイリーが口を開いた。アイリーだって、この少女がお母さん以外ではあり得ないことはわかっている。ただ、戸惑いを振り払うための確証が欲しいのだ。
「おかあさん……?」
 少女は小首を傾げた。頭の左側につけている花の形の髪留めも、一緒に動く。
 僕が普段聞くお母さんの声とはちょっと違う。その姿に合った、いかにも女の子らしい声だ。
 お母さんじゃないのか? だとしたら誰なんだ?
「……とりあえず『門』から出ようか。こっちにおいでよ」
 僕はアイリーと謎の少女を呼んだ。

 僕とアイリー、シェレラ、アミカの四人が、少女を囲んで立っている。
 少女の顔は、お母さんの面影をうっすらと感じさせた。
「あの……」
 僕たちだけではなく、少女も戸惑っているみたいだ。ちょっと困った顔をしている。
「ここに『名前を入力してください』って、書いてあるんですけど……」
「えっ?」
 少女が自分の前の空間を指差している。一体どういうことだ?
「ウィンドウが出ているの?」
 僕は少女に訊いた。
「はい……」
 少女以外の僕たち四人は、それぞれ顔を見合った。
 まだみんな戸惑っている。
 名前の登録は『リュンタル・ワールド』を始める前にアバター作成と同時に行うもので、ログイン後に名前を登録するなどということは、絶対にない。
 この少女は、やっぱりお母さんでは、セキアではないのか?
 僕たちが戸惑い続けている間に、少女は指を動かしていた。
「名前、入力してみました」
 少女の右手の人差し指が、空間を押した。
「登録が完了しました、だそうです」
 少女が誰とも目を合わせることなく呟いた。少女の視界にあるウィンドウの表示を、そのまま読んでいるのだ。
 右手を降ろした少女は、その場でぐるりと回って自分を囲む四人の顔を見ると、にっこりと笑った。そして、さっきまでの不安をかき消すような明るい声で言った。
「わたしの名前はアーピ。みなさんよろしくね! ところで、みなさんのお名前は?」
 アーピ。
 やっぱり、セキアじゃないんだ。
「はじめまして! 私はアイリー! よろしくね!」
 さっきまでの戸惑いはどこへ行ったのか、アイリーはにっこり笑ってアーピの問いに即座に答えた。
「ほら、お兄ちゃんも挨拶して!」
「え、う、うん……。や、やあ、僕はリッキ」
 アイリーに背中を叩かれ、戸惑いの中で僕は名乗った。
「あたしはシェレラ」
「アミカだよ!」
 僕と違って、シェレラもアミカも、アイリー同様いつもと同じ感じだ。
「ねえアーピ、フレンド登録しようよ」
 フレンド登録? それは昨日……。
 僕は慌ててフレンドリストを開いた。リストにはちゃんとセキアの名前がある。でも、表示は薄いグレー。つまり、ログインしていないってことだ。
「うん! わたしもアイリーとお友達になりたい!」
 二人はさっそくフレンド登録を始めた。ついでにスクリーンショットまで撮っている。アイリーだけじゃなく、シェレラとアミカも次々とアーピとフレンド登録をしていった。
「ほら! お兄ちゃんも!」
 アイリーに促されるまま、僕もアーピとフレンド登録を交わした。

   ◇ ◇ ◇

「サブアカウントを作ったんじゃ、ないんだよな」
「違う違う。サブアカなんて作ってない。ちゃんとセキアでログインしたんだけど」

 アーピはシェレラ、アミカと三人で何かおしゃべりをしている。
 僕はアイリーを連れて少し離れ、噴水に隣接する建国王の巨大な像の陰で三人を横目で見ながら話を進めた。
「じゃあどうしてこんなことになったんだよ」
「バグでしょ」
「バグなのはわかってるよ! お母さんは、セキアはどこに行っちゃったんだよ! いくらバグだってわかっていても、さすがにあり得ないだろ! あのアーピって子は誰なんだよ!」
「誰だっていいじゃん」
「いい加減すぎるだろ! 少しは心配しろよ!」
「いーの! お母さんでも誰でも、アーピはアーピなの! それに、バグはお父さん公認なんだから、お兄ちゃんが心配することはないでしょ。何かあったらちゃんとお父さんが対処してくれるよ」
「でも」
「ほら、バグがあったら報告するようにってお父さんが言ってたでしょ? 私がメッセージ送っておくから、お兄ちゃんはアーピと遊んであげて」
 アイリーはメッセージを打ち始めた。隣にいる僕など、まるでいないかのようだ。
 本当に、大丈夫なのだろうか……。

「リッキ、アーピはお花が大好きなんだって。お花がいっぱいある場所に案内してくれる?」
 アーピたちがいる場所に戻った僕に、シェレラが頼む。
「花か……」
 僕は考えながらアーピを見つめる。
 さっきからのおしゃべりは今も続いている。とても楽しそうだ。
「わたしね、お花も好きだけど、歌を歌うのも好きなの」
「アミカだって歌はとくいだよ! だってアミカはアイドルだからね!」
「そうなの? アミカって有名人なの?」
「そうだよ! ――でも、ピレックルではアミカを知ってる人、ほとんどいないけど……」
「じゃああんまり有名人じゃないね……」
「……まだこれからだよ! これからアミカはがんばるんだよ!」
「うん! がんばって!」
 こんな短い時間で、ずいぶんと仲が良くなったんだな。アーピからするとシェレラはお姉さんって感じだけど、アミカは見たところ同じくらいの年頃だし……。
 いや、違う。
 なんだか混乱してしまう。
 しかし、電子音がそれを遮った。
 アイリーからのメッセージだ。
 建国王の像の陰にいるアイリーを横目で見ながら、メッセージを開く。

 Airy: お母さんちゃんとログインしてるって。ゴーグルもちゃんとアーピのアバターに接続されてるって。

 ――ちゃんと?

 Rikki: ちゃんとってどういうこと? アーピが誰なのかもわからないのに?

 Airy: それはこれからお父さんが調べるから。

 メッセージを見ながら、アイリーがこっちに歩いてくる。両手はキーボードを打っているみたいだけど、僕にメッセージは送られてこない。きっとお父さんとのやり取りなのだろう。
 僕はウィンドウを閉じた。
 もう一度、アーピに目を移す。
 楽しそうにおしゃべりをしているアーピ。
 本当に、アーピはお母さんなのだろうか……。
「リッキ! お花があるところ、決まった?」
 シェレラの声で、我に返る。
「あーっ、ごめん、まだ決まってない」
「お花?」
 ちょうど戻ってきたアイリーが首を傾げる。
「うん、アーピは花が好きだから、花がたくさんある場所へ行こうってことになったんだ」
「そうなんだ。じゃあお兄ちゃん、アーピにいいとこ見せてあげて!」
「リッキ、お花がいっぱいあるところ、知ってるの?」
 アーピがアミカとのおしゃべりを止めて、僕の顔を見上げた。
「う……うん、そうだな。それじゃあ、ツァコンネ宮殿の庭園に行こうか」
 なんだか気持ちがまとまらない。
 ちゃんと考えることができなかった僕は、有名な観光地の名前をとりあえず吐き出した。

   ◇ ◇ ◇

 ツァコンネ宮殿はフーギロンという国にある王族の宮殿、ということになっている。本物のリュンタルにはちゃんと国を治める王がいてここに住んでいるんだろうけど、もちろん『リュンタル・ワールド』の中には王はいない。将来的にはプレイヤーがそういう地位に就けるようにするらしいんだけど、現時点ではまだ具体的な実装の予定はない。
 宮殿は白い石造りの建物と、その正面に広がる庭園とで構成されている。建物の中には入れないようになっているけど、庭園は開放されている。これもきっと、本物のリュンタルがそうなっているからなのだろう。
 庭園には、五センチくらいしか丈のない小さな花もあれば、人の高さくらいにまで伸びた茎から葉を繁らせ大輪の花を咲かせるもの、柵に蔓を巻きつかせどこまでも伸びていくものなど、さまざまな植物を見ることができる。花の色も赤や白、黄色、紫などさまざまだ。花を植えていない部分は芝生で覆われ、その緑を背景として花々の色鮮やかさが一層引き立っている。
 大木の上から人を覗き込む、蓄音機のような形をした巨大な花もある。植物タイプのモンスターでこんな形の食人花がいるけど、お父さんは実際にこの花を見て、それをヒントにゲームとしてのモンスターを考え出したのだろうか?

 僕一人だけがベンチに座っている。
 アーピはみんなと一緒に花々を見て回っている。石畳で整備された道を少し歩いては立ち止まり、食い入るように花を見つめたり、あえて距離を取って遠くから眺めたりしている。アーピだけではなく、みんなが楽しそうに花を見て、笑ったり驚いたりしている。
 僕はどうしても、アーピを素直に受け入れられない。
 不安で仕方がない。
 メッセージウィンドウを開き、リストからお父さんの名前を選び、文字を打つ。

 Rikki: アーピのこと、何かわかった? お母さんのことが心配でしょうがないよ。

 さっきアイリーがメッセージをやり取りしてから、ちょっとだけど時間が経っている。なにか新しいことがわかったかもしれない。
 メッセージが返ってきた。

 Koya: 画像を見たけど、アーピはかわいい子じゃないか。一緒に遊んで楽しませてあげなきゃダメだぞ。むしろ父さんが一緒に遊びたいくらいだよ。

 …………。
 ゲームの管理者としてのお父さんにメッセージを送ったつもりだったのに、返ってきたのは『白銀(しろがね)のコーヤ』からのメッセージだった。
 真面目な返事を期待した僕がバカだった。
 叩きつけるように、メッセージウィンドウを閉じた。
 俯いて、足元の地面を見る。
 お父さんは、お母さんが心配じゃないのだろうか。
 一番心配すべきなのは、僕よりお父さんなんじゃないの?
 それなのに、こんなメッセージで返してくるなんて。
 でも、本当に深刻なバグなら、お父さんだってこんな呑気なことは言っていられないだろう。
 きっと、勝手に僕が一人で深刻に考えすぎているだけなんだ。
『お母さんでも誰でも、アーピはアーピなの』
 そうアイリーが言っていた。
 アイリーだけではない。
 シェレラもアミカも、バグのことなんか気にしないでアーピと接している。
 バグのことは気にしないように二人に言ったのは僕なのに、僕ばかりがバグのことを気にしている。
 もっと気楽に考えていれば、それでいいんだろうけど――。
「ねえ、リッキ」
 名前を呼ばれて、反射的に顔を上げた。
 アーピの顔が、目の前にあった。
 いつの間にか、みんなが戻ってきていた。
「リッキはお花キライなの? 一緒にお花見ようよ」
 うまく言葉が出てこない。
 僕はどうすればいいんだ?
 電子音。同時に視界の左下隅で、手紙の形をしたアイコンが点滅する。
 左手の人差し指で二回つついて開く。
 お父さんからだった。

 Koya: せいちゃんを頼む

 お父さんはバグの対応をしなければならない。
 それに、一人のプレイヤーとしてゲームの中に入ってくるというのも、難しい立場だ。
 お父さんは、この場に来たくても来られないんだ。
 だからお父さんは、僕にお母さんを託した――。
 半透明のウィンドウの向こうで、アーピが僕の返事を待っている。
 僕はウィンドウを閉じた。
 クリアになったアーピに、僕は立ち上がりながら答えた。
「お花、嫌いじゃないよ! 僕もアーピと一緒にお花を見たいな!」

   ◇ ◇ ◇

「けっこう混んでるね……」
 有名な観光地なだけあって、ツァコンネ宮殿には多くの人が訪れている。
 ベンチに座っている時は気にならなかったけど、混雑しているせいでなかなか落ち着いて花を見ることができない。
「もうちょっと人が少なそうなところに行こうか」
「お兄ちゃん、いいとこ知ってるの?」
 アイリーは『リュンタル・ワールド』にどっぷりと浸かっているわりには、意外と知識が多くない。有名な場所ならともかく、ちょっとマイナーな場所となったらアイリーが案内することはできないだろう。
「あまり手入れされていない感じの場所なんだけど、それでもいいかな?」
「アーピがいいって言うんなら、私はそれでいいけど。アーピはどうする?」
「うん! 行ってみたい! どんなお花があるの?」
「え!?」
 アーピはアイリーの顔を見て答えているけど、当然アイリーは答えられない。アーピの視線から逃げるように、アイリーは僕のほうを向いて答えを待つ。
 何か言わなきゃ。
「いやあ、どんなって……」
 そこはテストプレイで行ったっきりの場所だ。だから、おおよそのことは覚えていても、花の種類となると記憶も曖昧だ。
「大きい花とか、小さい花とか……赤い花とか、白とか、黄色とか」
「お兄ちゃん! それじゃここと同じじゃん!」
 なんでアイリーから責められなきゃならないんだよ。
「えっと、こことは違うんだけど、その……」
 どう言ったらいいのかな。
 思わずシェレラに視線を送る。
 場所がどこなのか言っていないし、シェレラが代わりに説明してくれるはずはないんだけど、こういう時はついシェレラを頼ってしまう。
「行ってみればわかるかな」
「そそそうだよ! さすがシェレラ! よーし行こう!」
 僕は言った直後にみんなに背を向け、庭園の外のある『門』に向かって歩き出した。
「もー! お兄ちゃんったら!」
 アイリーが不満そうについてくる。
「なんでアイリーに怒られなきゃいけないんだよ」
 僕は振り返ってアイリーに文句を返す。
「いーから! 早く行く!」
「だからなんで怒ってるんだよ! じゃあアイリーがいい場所知ってるのかよ!」
「知らないけど! 知らないからお兄ちゃんが頼りなんじゃん! ちゃんとしっかりして!」
「そんな無責任なことってあるかよ!」
「いーから!」
 アイリーが両腕を伸ばして僕の背中を押す。
「わかった、わかったって!」
 僕はまた前を向いた。

「うふふ、リッキとアイリーは仲がいいね」
 背中の向こうで、幼い少女の声がかすかに聞こえた。
「ええ、いつもあんな感じなのよ」
 続けて、幼なじみの声が聞こえた。
「……うらやましい」
 遅れて、ロリっ娘の声も聞こえてきた。

   ◇ ◇ ◇

「お兄ちゃん、ここ……」
「お花……咲いてないね……」
 ソジーモという小都市の外れ。
 この街の南端に広がる公園には、緑が広がっていた。
 花壇には元気に葉を繁らせた草ばかり。近づいてよく見ると、茶色く萎れた花びらの残骸がわずかに確認できる。
 周囲を囲む木々にも、花はない。広い形をした濃い緑の葉の陰に、まだまだ硬そうな青い実がなっている。木に止まっている灰色や薄茶色の小鳥は、腹を満たす花の蜜も木の実もなく、たださえずるばかりだ。
 僕たち以外、誰もいない。人が少ないとか、そういうレベルではない。
「いやー、前に来た時は咲いてたんだけどなー。あはは」
 僕は笑ってごまかすしかなかった。
「リッキ、前に来たってのはいつなの?」
 半開きな目で絶望的な視線を送ってくるアイリーやただただ落胆するアーピと違って、シェレラの言葉は落ち着いていて優しく、それだけで僕は救われそうだ。
「えーっと、四月ごろかな……」
 テストプレイの時、つまり四月といってもそれが去年の四月であるということは、さすがに言うと怒られそうだから言わなかった。
「つまり、ここにあるのは春の花ばかりってことね」
「うん……そうみたいだね。その時一回来たっきりだったから、知らなかった」
「しょうがないよ。知らなくても。また来年の春に来ればいいじゃない」
「そ、そうだよな! 来年になったらまた来よう!」
 シェレラは本当に優しい。アイリーとは大違いだ。
「お兄ちゃん! 来年のことよりも、今どうにかしてよ!」
 救われたと思った直後に突き落とされた。アイリーももっと優しさというものを覚えてほしい。
 でも、アーピをがっかりさせたままというのは、やっぱり気まずい。
「確か、街を出たところが野原になっているはずだ。そこに花が咲いているんじゃないかな」
「もーお兄ちゃん! 本当に大丈夫なの?」
「だ、大丈夫だって。……と、思うけど」
「お兄ちゃん!」

   ◇ ◇ ◇

「ほら、ちゃんと咲いてるだろ?」
「本当だ! 良かったねアーピ!」
「うん! きれい!」
 決して目立つ花ではない。芝生のように地を這って根を生やす草から、足首を隠す程の長さの細い茎が伸び、その先端にクローバーのような花が咲いている。花の色は白だけではなく、薄いピンクや黄色いものもある。一つひとつは小さな花だけど、それが遠くに見える丘の上までずっと続いている光景は平和的でありつつも圧巻だ。
 街を出たばかりのこの場所は、一面の花以外にもところどころに木が生えていたり、苔むした岩が転がっていたりしている。木にはりんごのような赤い実がなっている。『リュンタル・ワールド』では一般的なクムズムという果物で、食べると少しだけHPが回復する。見た目と違って味や食感は洋梨に似ているから、初めて食べた時はちょっと戸惑ったけど、慣れれば平気だ。
 道を外れて、野原の中に入って歩いて行く。どこまでも変わらない景色。
 突然、アーピがしゃがんだ。
 数歩先に進んだ僕や、他のみんなも振り返る。
 アーピは足元の花を茎の根元から次々と摘んでいる。
「どうしたのアーピ?」
 アイリーがアーピのところまで戻り、しゃがんで花を摘むアーピの顔を覗き込んだ。
「花冠を編むの。わたし、プーミュの花冠を編むの、得意なの」
 アーピの手が忙しく動き始めた。花を両手に持ち、右手の茎を左手の茎に一回巻き、二本の茎を揃えて左手に持った。右手に新しい花を持ち、また茎を巻きつけた。次々と茎を巻きつけていき、編まれた茎がどんどん伸びていく。
 僕もしゃがんで、茎の根元から一本摘んだ。アーピが言ったように、プーミュという名前の花のようだ。表示させた説明文には「一年中咲き続け、色は白が多いが地域によって黄色・薄いピンク・薄いオレンジ・水色などもある」とある。
 そんなことをしているうちに、アーピが編んだプーミュはかなりの長さになっていた。先端をスタート地点の茎の束に差し込み、さらに新しい茎を巻きつけると、棒状だった編んだプーミュが輪っかになった。白い花の円の中に、薄いピンクや黄色い花がいくつか混ざっていてアクセントになっている。
「できたー!」
 アーピが輪っかを両手に持って掲げた。そのまま、しゃがんでいるアイリーの頭に乗せた。
 少しきょとんとしたアイリーだったけど、
「ありがとうアーピ!」
 すぐに満面の笑みになって、アーピに抱きついた。勢いでそのまま倒れ込む。
「ごめんごめん。つい嬉しくて」
 アイリーに手を引かれて、アーピが上半身を起こす。弾けそうな笑顔が見えた。
 頭から落ちてしまった花冠を、アイリーが手に取った。
「これ、装備したことになるのかな?」
 アイリーは花冠を頭に乗せ直し、指先で空間をなぞった。すると、アイリーのアバターが立体映像のフィギュアとなって出現した。
「ちゃんと装備してる!」
 フィギュアの頭には、アーピが作ったばかりの花冠がちょこんと乗っている。
「こんな感じなんだ。かわいいねー」
 アイリーは自分をかわいいと確信しているから、自分のフィギュアを見てかわいいと言うことになんの躊躇もない。フィギュアを回転させ、さまざまな角度で見ながら「かわいい」を連発させている。アイリーが自信過剰なだけで言っているんならそろそろ止めに入ってるところだけど、これは花冠を作ってくれたアーピを褒めていることにもなっている。だから僕は何も言わず、にやけながらフィギュアを見ているアイリーをただただ眺めていた。
 でも、アーピはそんなアイリーのことなどお構いなしで、次の花冠作りに取り掛かっていた。「ラララ~♪ ルル~♪」と鼻歌を歌いながら、プーミュを編んでいく。
「アーピ、あたしも花冠作れるよ」
 シェレラもアーピの隣に座って、一緒に花冠を作り始めた。アクセサリー作りが得意なシェレラにとっては、これくらいはお手の物なのだろう。
「アミカも! アミカも作る!」
 そう言ってアミカも花冠を作り始めた……ようだけど。
 アーピやシェレラの手元を覗き込みながら、アミカも手を動かしている。でもなかなか二人のように上手くできない。しっかり茎を巻いて固定したつもりなんだろうけど、すぐに解けてしまう。なんとか頑張って進めても、編んだプーミュがなかなか二人のようには長くなっていかない。花の位置も一直線ではなく右や左にずれているし、花と花の間に不規則な間隔で隙間ができまくっている。
「うぅーーっ」
 アミカの顔がだんだん赤くなっていく。
 ついにアミカは作りかけの花冠を放り投げ、走り去っていってしまった。
「アミカ! 待って!」
 放ってはおけず、僕も走ってアミカを追いかけた。
 どたっ。
 アミカが転んだ。顔から地面に突っ伏す。
「アミカ! 大丈夫?」
 痛くはないとわかっていても、つい口に出てしまう。
「だいじょうぶ……」
 アミカは起き上がらず、ゴロリと仰向けに寝転んだ。
 そのまま、ただぼーっとしている。
「アミカ?」
 返事がない。
 も、もしかして、打ちどころが悪かったとか?
 でも仮想世界に打ちどころが悪いとか、そんなのあるのかな!?
「……きもちいいよ」
 小さな口が、ぼそっと呟いた。
「リッキも、ここ」
 続けてアミカは左手で地面を叩いた。
「ここに寝て」
 どういうことなのかよくわからないまま、僕は言われるがままアミカの隣で仰向けに寝転んだ。
 かすかに草の匂いがする。
 草の匂いだけではない。あんな小さな花なのに、ほのかな甘い香りを感じる。
 頬や首の周りに、プーミュが触れてくすぐったい。
 小鳥がさえずりながら、青空を横切って行く。
「気持ちいいねー」
 自然と呟いた。
 現実世界の日常では、こんな一面の草花の中に寝転がって埋もれる機会はまずない。
 この仮想世界でも、効率のいい戦闘と探索ばかり追い求めていて、こんなにのんびりしたことなんてなかった。
 頭が空っぽになる。ただ息を吸って、息を吐く。
 時間の感覚が、なくなっていく。
 ――――――――。
 ふと、視線を感じた。
 顔を横に向ける。
 そこにあったのは、超至近距離で僕を見つめるアミカの顔。
 思わず目を見開き、猛烈な素早さでまた真上を向く。視界が空の青で埋まる。
 そしてゆっくりと、また横を見る。
 くっつきそうなアミカの顔に囁く。
「もしかして……ずっと見てたの?」
「うん」
 アミカが僕の手に指を絡める。
「リッキ、大好き」
「うん。ありがとう、アミカ」
 アミカが初めて僕のことを好きだと言ってくれた時、僕は「好き」という感情がよくわからなくて、アミカの期待に応えることができなかった。それは今も変わらない。それでもアミカは僕を好きだと言ってくれている。うれしいと同時に、なんだか申し訳ないような気持ちにもなる。
 アミカの顔を見つめたまま、手を握り返す。
 薄紫色の瞳の中に、僕の顔が映り込んでいる。
 僕が今見ているのは、「仲のいいフレンドのアミカ」だ。
 でも、アミカが見ているのは、「大好きなリッキ」なんだ。
 何が違うんだろう――。
「おーい、ご飯だよー」
 止まっていた時が、突然流れ始めた。
 握っていた手を離し、ガバッと起き上がる。
 アミカも同時に上半身を起こした。
 ちょっと離れたところから、プーミュの花冠を頭に乗せたままのアイリーが歩いてくる。
「シェレラがお弁当を食べたい気分だって言うから、みんなで食べようと思って呼びに来たんだけど……ひょっとしてお邪魔だった?」
「いやいや全然!? そんなことないけど!?」
「うんうん。ナイナイ」
 アミカは顔を真っ赤にして否定している。きっと僕の顔も赤くなっているに違いない。
「どうするお兄ちゃん? アミカも、無理して来なくても」
「行く行く! 行くって!」
「アミカも行く!」
 僕は立ち上がって、アイリーについて歩いて行く。
 隣でアミカも立ち上がって、僕の手を握った。
 その手を僕は握り返し、二人で歩いて行った。

   ◇ ◇ ◇

 クムズムの木の下にカラフルなシートが敷かれ、サンドイッチが詰まったランチボックスが、えーと……二十個くらい積んであるけど?
「こんないいお天気で、広い野原にお花も咲いていて、ピクニックに来たみたいでしょ? だからお弁当食べたくなっちゃった」
 うん。そういう気分になるのは理解できる。むしろシェレラならなって当然かもしれない。現実世界では朝食を食べてからそんなに時間は経っていないけど、仮想世界に来てしまえばそんなことは無関係だ。
 それにしても、この大量のサンドイッチはどういうこと?
 シートに座ったシェレラが、クムズムの皮を剥いている。傍らにはうず高く積まれたクムズムの山。見上げると……このクムズムの木は枝を広げ葉を繁らせているものの、実がほとんどない。
 ひょっとして……これ全部食べるつもり?
「急に決めたから、簡単なものしか持ち合わせてないけど」
 シェレラはクムズムを一個剥き終わり、一口サイズにカットして皿に盛ると、今度は空間を指でなぞり始めた。
 ミートボールやウィンナーなどの肉、色とりどりの野菜の煮物や、ギザギザにカットしたゆで卵などが次々と出現した。それぞれが大皿に山盛りで、あまりピクニックという感じではない。
『リュンタル・ワールド』の料理は現実世界の料理に似ているけど、食材はすべてゲーム内のオリジナルだ。卵はニワトリではなくクークーの卵だし、肉も牛や豚に似ているけれども現実には存在しない動物の肉だ。そういえば本物のリュンタルに行った時にノスルアザラシのステーキを食べたけど、『リュンタル・ワールド』ではノスルアザラシを食材として使うって聞いたことないな。レシピが存在しないのか、だれも知らないのか、どっちなんだろう。
 シェレラが出す食べ物はまだ止まらない。白身魚のゴエは塩焼きと甘辛煮の二種類、フィリゴ芋は小ぶりのものはそのまま蒸して、大きなものはスライスして揚げている。それにヨムム貝のヌパ焼き(ヌパ海岸で採れる塩を使っている)、葉物と根菜の漬物各種、コブーオのシロップ煮、アオギエとソベの――
「ストップ! もういい! もう十分だって!」
 何が「簡単なものしか持ち合わせてない」だよ。こんなにたくさんもっているじゃないか。
 食べ物はアイテム化してしまえばその状態のままで保存できる。ただし、食べかけはアイテム化できない。だから、料理したものをアイテムにするには、できたてをすぐアイテム化しなければならない。
 僕は現実世界では普段から料理をするけど、『リュンタル・ワールド』では食べ物にあまり関心がない。空腹でさえなければプレイに問題がないからだ。だから『リュンタル・ワールド』では料理をしたことがないし、食べ物はそのへんで売っている安い食べ物で間に合わせている。アイテムとして持っているのも、万が一の時のための最低限の量だ。
 でも、シェレラはそうではないみたいだ。僕がストップを掛けたことが、ちょっと不満そうだ。軽くムッとしている。
「じゃあ、最後にこれだけ」
 現れたのはカンルンスープが入ったポットだ。カンルンはとうもろこしに似た野菜で、スープにする以外にも焼いたり茹でたり、まあ……ようするにとうもろこしだ。
「じゃあ、みんな座って。リッキはここね」
 シェレラに促されてみんなが座った。シェレラが僕の名前を呼びながら左手でシートを叩いたので、僕はシェレラの左隣に座った。料理が多すぎて五人では囲むように座ることができない。アミカが僕の左に座り、アイリーとアーピは向かい側に座った。

   ◇ ◇ ◇

「リッキ、あーんして」
 シェレラがミートボールをフォークで刺し、優しく微笑みながら僕の顔の前に持ってきた。
「いや……自分で食べるよ」
 断るのは悪いと思ったけど、さすがに照れくさい。
 僕はサンドイッチを手に取った。タマゴサンドだ。
 クークーの卵の味は、現実世界のニワトリの卵と変わらない。
「むー」
 ふくれっ面になったシェレラは、行き先がなくなったミートボールを自分の口に運んだ。
「リッキ、次は何がほしい? アミカが取ってあげるね」
 アミカが僕の顔を覗き込む。
 取ってくれるくらいなら、お願いしてもいいかな。
「じゃあ、蒸しフィリゴを」
「はい、お兄ちゃん」
 なんとなく言ったフィリゴ芋を蒸した料理は、アイリーの目の前に置いてあった。素早く紙皿に数個取り分けたアイリーが、僕に腕を伸ばした。紙皿はいかにも現実世界のものっぽくってこういうファンタジーな世界に合ってない気がするけど、本物のリュンタルでは魔石の力によって水に濡れない紙や油が染みない紙が作られていて、紙皿も使われているらしい。カンルンスープを入れるのも紙コップだ。
「あ……ありがとう」
 僕は紙皿を受け取った。
「リッキのいじわる!」
 アミカが僕を睨んでいる。
「ごめんごめん」
 どこに何が置いてあるのか、ちゃんと見てから言えばよかった。たしかにこれじゃいじわるしたみたいになっちゃってるよな。僕は素直に謝った。でもアミカの体は小さいし、アミカの手が届く範囲は僕も腕を伸ばせば届いちゃうんだよな……。
 この先どうしようかと悩みながら、蒸しフィリゴを食べようとしてフォークで刺した。すると、横から小さな手が伸びてフォークを持った左手を軽くトントンと叩いた。
「あーん」
 手が伸びてきた左側を見ると、アミカが雛鳥のように小さな口を大きく開けて待っていた。
 さっきは悪いことしちゃったからな。
 僕はフィリゴをアミカの口に近づけていった。
「――――っ!」
 突然死角から手が伸びてきた。フォークを持った左手を掴み、引き寄せる。
 僕は反射的に引っ張られた方向――右側に首を振った。
 フィリゴは……消えていた。フォークの先には、何もない。
 そして、僕の左手を掴んでいるシェレラが、口をもごもご動かしている。
「…………シェレラ?」
「このお芋、おいしいねー」
「あーっ、シェレラ、ずるい!」
 アミカが身を乗り出して、僕の左手を両手で掴んで引き寄せようとする。
 シェレラも両手で掴み直した。二人の力によって、僕の左手が意志とは関係なく右へ左へ往復する。
「ちょ、ちょっと、やめろって」
 どうしてこの二人はこんなにケンカするんだ?
 それに、向こうの二人は笑っているし。
「ふふ、みんな仲がいいね」
「そうだねー。みんなお兄ちゃんが好きなんだよ。ぷっ、くくっ」
 アーピの笑顔はかわいいけど、アイリーの笑いは同情からの失笑にしか見えない。口に手を添えているけど、全然笑いを隠せていない。ようするに、いつものアイリーの笑いだ。こういう時、アイリーは本当に何も助けてくれない。
 でも、アーピは違った。
「ねえ、みんなで一緒に食べようよ。これじゃリッキが食べられないでしょ? だからもうやめて、みんなで食べよ? ね?」
「ほら、アーピも言ってるだろ? こんなことしてないで、みんなで食べようって。シェレラもアミカも、僕が食べるのを邪魔してるだけじゃないか。アーピみたいな小さい子に注意されるなんて情けないよ二人とも」
 穏やかに話すアーピとは違って、僕はちょっと怒り気味に言った。
 すると、左右から引っ張り合う手が、ぴたりと止まった。それぞれの手が同時に離れ、左右へと引いていく。
 シェレラは目の前のサンドイッチを手に取った。
「邪魔なんかしていないし、このサンドイッチおいしいね~」
 アミカもサンドイッチを手にすると、
「アミカもジャマなんかしていないし、サンドイッチおいしいね~」
 まるで何事もなかったかのように、サンドイッチを食べ始めた。
 本当に何なんだろう、この二人。
 そう思いながら、僕は残りの蒸しフィリゴにフォークを刺した。

   ◇ ◇ ◇

 どうして女の子ってのはこんなにおしゃべりが好きなんだ?
 さっきから、他愛もない話が延々と続いている。僕は聞いているばかりで、全然話に加わっていない。どの街のどこのお店のお菓子がおいしいとか、僕は全然興味がない。
 話の内容は、次から次へと変わっていく。
「でさー、お祭りをやろうってことになったんだけど、みんななかなか言うこと聞いてくれなくってさー。屋台の場所取りとか? やっぱみんないいとこ取ろうとするじゃん。だから公平にくじ引きで決めようとしたんだけど、そこで<探索>使って狙った番号引き当てようとする人がいたりさー、もー大変だったよ」
 アイリーは攻略よりはイベント重視だから、こういう苦労もあるのだろう。でも僕はイベントを運営する側になるなんてことはないから、大変だろうとは思うけどあまり共感する気持ちが沸かない。
「シェレラはなんか大変なこととかない? いつも違う人とパーティ組んでると、たまには嫌な人もいるでしょ?」
 アイリーはシェレラに話を振った。
 シェレラはこの世界に不足がちな回復魔法の使い手として、いろんなパーティから誘いを受けてその時限りの助っ人をやっている。
「う~ん、触ってくる人とか?」
「そんな奴いるの?」
 僕は初めて会話に加わった。
「ダメだって、シェレラ、そんな奴のとこ行っちゃ」
 しゃべりながらサンドイッチを取ろうとしていたシェレラの手が止まった。僕のほうを向き、目を合わせたまま動かない。
「ど、どうしたのシェレラ」
「リッキ、心配してくれているのね」
 目をうるうるさせて僕を見つめている。
「そりゃあ心配するだろ。シェレラがそんな奴と一緒にいると思うとさ」
「でも大丈夫。安心して。そんな男にはさんざん貢がせた上に二度と会わないし」
 さんざん貢がせてって……。
 そういうことはやめるようにって前に注意したことはあったけど、こういう奴ならちょっとくらい罰を受けたほうがいいのかもしれない。
「それに」
 シェレラは僕の右手を握った。
「あたしの体に自由に触っていいのはリッキだけだから」
 握った右手を、シェレラの大きな胸へと引き寄せていく。
 一瞬遅れて抵抗し、なんとか触る寸前で手の動きを止めた。危なかった。
 と思ったら!
 今度はシェレラが体を寄せてきた! 胸のほうから僕の手に近づいてくる。
 しかし、僕は体ごとシェレラから遠ざかった。
「シェレラ、リッキをゆうわくしないで!」
 反対側からアミカが僕の体を引っ張ったのだ。
 バランスを崩して仰向けに倒れた僕の体の上で、二人の視線が火花を散らす。
「……あたしが間違ってた」
 厳しい視線を解いたシェレラが、優しく微笑んだ。
「だって、アミカちゃんもあたしに触っていいし!」
 シェレラは両腕を伸ばし、アミカの体を抱え込んだ。大きな胸の上にアミカの頭を乗せ、背中と後頭部を両手で優しく包み込む。
「んん……んにゅ~ぅ」
 アミカの小さな口から甘い声が漏れた。
 僕の体越しにこんなことをされては、起き上がることができない。
「シェレラとアミカは仲がいいね」
「うん、そうだね」
 アーピとアイリーはまた同じ反応だし。
 それにしても、なんでアーピはシェレラとアミカの仲がいいって見えているんだろう? 僕には仲がいいのか悪いのか、全然わからないけど。
 僕は仰向けになったままその場をすり抜け反対側に回り、アーピの隣に座った。これなら大丈夫だろう。
 隣に来た僕に、アーピが囁いた。
「リッキは人気者だね」
「うん……そうなのかな」
 僕自身には、そういう意識はないんだけど。
 シェレラの胸の中で悶えていたアミカが跳ね起きた。
「アミカは人気者だよ! だってアミカはアイドルだからね!」
「アミカは……(もぐもぐ)」
 アイリーが話し出そうとしたけど、口の中に食べ物が残っていたみたいで、止まってしまった。忙しく顎を動かしている。やっと飲み込み、カンルンスープを一口飲み、呼吸を整えて、やっと話し出した。
「アミカはアイドルやってて嫌な目に遭ってない? 変なファンとかいない?」
 なんでそっちの方向に持っていこうとするんだよ! わざわざ嫌な人の話をするなんて、僕なら絶対にしないよ。
「アミカのファンはねー……、いい人ばっかりだよ。でもね」
 アミカもカンルンスープを一口飲み、一拍置いて、再び話し出した。
「アミカのまわりの人って、大人の人ばっかりだけど、みんな音楽が好きであつまってる人たちだから、音楽の話をしているときは仲良くできるよ。でも、スタッフの人どうしで話をしている時って、わかんないことが多くってひとりぼっちになっちゃったみたいで」
「あーわかる!」
 すかさずアイリーが同意した。
「私もコンサートのスタッフ、みんな年上だもん。でもさ、私は音楽活動はイベントの一つとしてやってるからそれでもいいけど、アミカは音楽中心でやってるでしょ? さびしくない? 大丈夫?」
「そういう時は、詞をかんがえたりしてるよ」
「あーそっか。アミカは作詞作曲も自分でやってるんだもんね。じゃあ大変だ」
「でもアイリーは衣装のデザインかんがえてるんでしょ?」
「考えてるって言ってもちょっと案を出すだけだけどね」
「でも、アミカはぜんぶナオにおまかせしてるから……そうだ、ナオがブランドつくってオンコドルのなんでも屋さんで服を売ってるから、こんど行ってみてよ」
「そうなの? すごいじゃん! 絶対行くよ」
 ナオはアミカと初めて会った時に一緒にパーティを組んだ人だ。現実世界ではファッション関係の専門学校生で、『リュンタル・ワールド』ではアミカのステージ衣装を担当している。『リュンタル・ワールド』では、ナオのように戦う以外の目的でプレイしている人もけっこういる。
 ちなみにオンコドルは中央ギルドがある街で、『なんでも屋』とは中央ギルドに隣接している、デパートのような巨大な店のことだ。
「ねえ、わたしアミカの歌を聞いてみたい」
「ダメだよ、アーピ」
 僕は隣の女の子に諭すように言った。
「アミカはプロ……じゃないけど、ちゃんとアイドルとしてステージで歌っている人なんだから。プライベートで気安くお願いするのはあんまりやっちゃいけな――」
「いいよ」
「ほら……えっ、い、いいの?」
「うん。いいよ」
 僕の戸惑いをよそに、アミカが空間をなぞった。すると、アミカの手にマイクが現れた。さらに空中に黒い球体が二つ。
 アミカが立ち上がった。
 球体から音楽が流れ出した。どうやらスピーカーのようだ。
「アミカの歌、みんなに聞いてもらっちゃおっかなー!」
 アミカが歌い出した。かわいい女の子がかわいい振り付けで歌うのがとても似合う、電子音を多用したかわいらしいポップな曲だ。
 アミカの歌はコンサート告知のポスターに添付されていた動画でちょっと聞いたことがあるだけで、生で聞くのはこれが初めてだ。まさかこんな形で聞くことになるとは思ってなかった。こんなに間近で聞くことなんて、コンサートのステージではあり得ない。ファンでも経験することができないような貴重な経験を、今の僕たちはしている。
 歌い終わったアミカに、みんなからの拍手が浴びせられた。
「私も! 私も歌う!」
 アイリーが手を挙げた。
 立ち上がって、アミカからマイクを受け取る。
「アミカがそう来たなら……私はこれで」
 アイリーの指が空間をなぞる。
 球体が別の音楽を流し出した。アミカの曲とは違って、生音のギターやドラムの演奏だ。
 アイリーが歌い出した。意外にもバラードだ。この間のコンサートや普段のアイリーのことを考えると、明るく元気な曲というのがイメージとしてあったけど、バラードもちゃんと歌いこなしている。しっとりした曲に、頭上の花冠が似合っている。
 思わず聞き入ってしまった。
 さっきアミカが受けたみんなからの拍手を、今度はアイリーが受けた。
「アミカもアイリーも、歌ってくれてありがとう!」
 アーピは拍手で讃えながら二人に感謝した。
「私のほうこそ、聞いてくれてありがとう! ……お兄ちゃんは? なんか感想ないの?」
 アイリーはなぜか突然僕に感想を求めてきた。
「いやあ……思ったより上手いなと」
「なんなのその冴えない感想は! それって私が下手だと思ってたってこと?」
「そそ、そうじゃないけど。こういう曲も歌えるんだな、って」
「もっと友達とかに『自慢の妹です』とか言っていいんだからね! あんまり友達いないかもだけど!」
「『友達いない』は余計なお世話だよ! ずっとソロでやってたんだからしょうがないだろ」
「ねえ、リッキは歌わないの?」
「へっ!?」
 クムズムの皮を剥き始めたシェレラが唐突に割り込んできた。手元のナイフに目をやることもなく、水色の瞳は僕だけを見ている。
 まずいぞ。
 このままでは、この場がカラオケ大会になってしまいかねない。
 僕は人前で歌うなんて無理だ。そんな歌唱力も自信もない。
 そもそも持ち歌なんてない。
 シェレラだってそれくらい知ってるだろ。そんな笑顔でムチャ振りするなよ。
「いやあ、その……、そ、そうだ、アーピは歌わないの? 歌うの好きなんだろ?」
 隣に座るアーピに、話を逸らす。
「わたしも歌っていいの?」
「もちろんだよ! みんなだってそうだろ? アーピの歌、聞きたいよな? な?」
 僕が歌わずにすむように、必死にみんなに呼びかける。
「アミカも聞きたい! アーピ、歌って!」
「私も聞きたい聞きたい!」
「じゃあ……歌うね」
 アーピは立ち上がった。
 アイリーがマイクを差し出したけど……アーピは受け取らなかった。
 球体は無音のまま。
 おなかに手を当て、呼吸を整える。
 小さな赤い唇が、開いた。

 ありきたりな言葉で言えば「天使の歌声」だ。
 空の果てまでも響きそうな、それでいて静かな、高い、澄んだ声。
 歌詞はない。ラララやルルルといったスキャットが、無防備な心に染み入ってくる。
 こんな歌声、聞いたことがない。
 こんなピュアな歌声が存在すること自体が信じられない。
 優しく、それでいて力強い。
 この小さな体のどこから、こんな素敵な力が湧いてくるのだろうか。
 やがてアーピは両腕をいっぱいに広げ、空に向かって歌声を放った。
 一段と声量が上がる。
 力を放っているような、それでいて受け止めているような、アーピの姿。
 小さな体が、とてつもなく大きな存在に見える。
 僕はただただ隣にいる少女に見入り、奇跡の歌声に耳を傾けていた。

 時間は長かったのか、短かったのか、覚えていない。
「リッキ、リッキ」
 シェレラに名前を呼ばれて、アーピの歌が終わっていたことに気がついた。
「リッキったら、ずーっと口が開いてた」
 シェレラは皮をむいてカットしたクムズムが入っている皿を持ち、フォークで刺して口に運んでいる。アーピの歌を聞きながら食べていたのだろうか。残りはわずかだ。
「え、そ、そう?」
 僕はカンルンスープを飲んだ。
 喉の渇きを感じたということは、やっぱり口が開きっぱなしだったのだろう。
 それだけ、何もかもを忘れてアーピの歌に聞き入っていたということだ。
 アーピ……君は一体、何者なんだ?
 アイリーが身を乗り出した。
「アーピ、すごい、すごいよ! ねえ教えて? どうやったらそんなに綺麗な声で歌えるの?」
 勢いに押されて、アーピはちょっと身を引いた。
「えっと……わたしはただ、歌うのが好きなだけだから……。どうやったらいいかなんてわからないよ」
「そっかー……。しょうがないね。私は私なりに歌うよ」
「アイリーの歌、とても素敵だよ。わたしはアイリーの歌が大好き」
「本当? ありがとう!」
「アミカは? アミカの歌は?」
「うん! アミカの歌も大好き!」
「じゃあ今度はあたしが歌うね!」
 えっ? シェレラが歌うの?
 シェレラはなぜかサンドイッチを手にして立ち上がった。まさか食べながら歌うつもりなのだろうか。いくらシェレラでもそれは無理だ。

「きゃっ!」

 シェレラの悲鳴が、楽しい雰囲気を一変させた。
 何か大きな物体が、僕たちの間を素早く通り抜けていった。
 ごく微かな、ヒュウッという空気を切る音。
 そして――。
 シェレラが持っていたはずのサンドイッチが、なくなっていた。
 僕は何かが去っていった方向を見た。
 そこにあったのは、大空を悠々と滑空するトンビのような鳥の姿。
 両足の先には、さっきまでシェレラの手にあったサンドイッチがしっかりと握られていた。現実世界でこういうことをする鳥がいることは知っているけど、仮想世界でも変わらないようだ。
「…………あっ」
 突然のことで誰もが言葉を失っていた中、シェレラが声を漏らした。
「こらーーっ!」
 積んであったクムズムを一個掴み、投げつけた。当然だけど全然届かない。
「シェレラ、やめなって。まだまだいっぱいあるじゃないか」
 食べきれないほどのサンドイッチの中の一つが取られただけだというのに、シェレラは執念深い。クムズムをたくさん抱えて走り出すと、もう点にしか見えない鳥に向かってクムズムを投げつけた。もちろん、絶対に届くはずがない。
「お兄ちゃん、シェレラが食べ物のことで怒り出したら止めても無駄だって」
「う、うん、そうだな。やっぱりそうだよな」
 アイリーが言っている「シェレラが」の部分を「智保が」に置き換えると、いろいろと思い出すことがある。お店に行ったらメニューの写真より小さい料理が出てきただとか、十四枚入りだったはずのクッキーがいつの間にか値段そのままで十二枚入りにリニューアルされていただとか、ぷっくりしているほっぺたをさらに膨らませてあれやこれやと不満を言っていたことを……。
 きっと、僕が今ここでなんと言おうと、効果はないだろう。本人の不満が治まるまで待つしかない。アイリーも諦めるしかないといった表情だ。
 そんなことを思っている間にも、シェレラは鳥を追いかけて走りながらクムズムを投げつけている。
 止められないだろうとは思いつつも、シェレラが一人でクムズムを投げる背中が寂しすぎて、僕はシェレラのそばに行こうと走り出した。シェレラの足は遅い。追いつくのは簡単だった。
「えーいっ!」
 シェレラが最後のクムズムを投げるのを、隣で見守った。これで気が済んでくれただろうか。
 最後のクムズムは赤い弧を描いて、プーミュで覆われた地面に……は、落ちなかった。
 辺りにいくつも転がっている、苔むした岩。
 そのうちの一つに落ちたクムズムが、岩を砕いた。

 クムズムがそんなに硬いはずがない。
 岩がそんなに脆いはずもない。
 飛び散る岩の破片を遠くに見ながら、何かがおかしいということは理解しつつも、思考の整理が追いつかない。
 壊れた岩の中から、煙のようなものが噴き出してきた。
 かすかに聞こえる、ブゥーンという音。
 音と煙が、だんだんこっちに迫ってくる。
 いや……違う! 煙じゃない!
「きゃあーーっ」
「は、蜂だあぁーーっ!」
 煙のように見えたものは、密集した蜂の大群だった。あの苔むした岩は、岩のように見せかけて実は蜂の巣だったんだ!
 僕とシェレラは反転し、全速力で駆け出した。しかし、シェレラは走るのが苦手だ。僕はシェレラの手を引き、振り返りながら走る。
 アイリーとアミカが立ち上がって、僕たちを、いやその向こうの蜂の大群を見据えている。
「アーピ! 逃げて!」
 アイリーが叫ぶ。
 しかし、突然の出来事についていけないのか、アーピはシートの上に座ったまま動かない。
 アイリーは杖を手に取り、羽音を響かせ迫り来る蜂の群れに向かって走り出した。
「お兄ちゃん! シェレラ! アーピを守って!」
 すれ違いざまに言い放つ。
「僕に任せて!」
 アイリーが前にいるのなら、とりあえず大丈夫だ。
 僕は握っていたシェレラの手を離し、アーピの元へ駆け寄った。
 アーピは足がすくんで立てない。僕はアーピを抱きかかえた。
 振り返ると、アイリーが杖を振りかざしては炎を撒き散らし、蜂の群れを焼き払っている。
「アミカも行ってくる」
 アーピのそばにいたアミカが、前線へと赴く。走っていくアミカの右手の指輪が赤く輝いた。空から火の雨が降り注ぎ、蜂たちを焼き殺す。
 そして、シェレラも戻ってきた。
 シェレラは振り返って戦場を見ると、右手を顔の前にかざし、振り下ろした。<分析>のスキルを使う動作だ。
「リッキ、この蜂、モンスターよ」
「うん。わかってる」
 岩に見せかけた蜂の巣自体がトラップだ。それに、モンスターではないただの生物なら攻撃なんてしてこないし、こっちから攻撃しようとしても戦闘が成立しない。
「それに、この蜂は下級のモンスターみたい。だから、これから上級のモンスターが出てくるかも」
 そうシェレラが言っているうちに、蜂の巣の真上の空が明滅し始めた。光の輪郭が出現し、内側の空間に徐々に色がついていく。
 色が完全に現れ、光の輪郭が消えた。現れたモンスターが、翅を震わせ飛び始めた。蜂と言うにはずいぶんと大きく見える。人間と同じくらいの大きさだろうか?
 新しく現れたそいつは、爆炎を眼下に見ながらアイリーとアミカのはるか頭上を飛び越え、どんどんこっちに迫ってくる。アイリーもアミカも、振り返りすらしない。もちろん気づいているだろう。でも蜂の群れを焼き払うことに集中しているし、それに――。
 僕ならこいつを倒せると、信じてくれているんだ。
 小さな虫が相手なら、剣士の出番はない。
 でも、こいつと戦うなら、僕の出番だ。
 こいつの相手ができるのは、僕しかいない。
「シェレラはアーピと一緒に下がってて」
 僕は抱きかかえていたアーピを地面に下ろした。
「アーピ、歩ける?」
「うん、大丈夫」
 シェレラの声にアーピがしっかりと答えた。
 少し時間が経って落ち着いたのだろうか、さっきまでとは違ってアーピはちゃんと立てている。これなら僕は戦闘に専念できる。
 僕は剣を抜き、空を見上げた。
 人間と同じ大きさのそのモンスターは、頭は蜂だけど、その下は少し蜂とは違う。黒い楕円の胴体からは四本の黒く細い昆虫の腕が伸びていて、その先には人間と同じ五本指の黄色い手袋。それぞれの手に槍が握られている。紡錘形の尻は黒と黄色の横縞で、そこから伸びる黒く細い二本の脚の先には、黄色い靴。 
 蜂の兵士は四本の腕に持った四本の槍を僕に向け、急降下してきた。ギリギリまで引きつけてから、右に跳んだ。蜂の兵士の槍が地面をかすめ、プーミュの葉や花がちぎれて宙に舞い上がる。蜂の兵士は着地せず飛んだまま通り過ぎ、空中で反転してまた僕に襲いかかってきた。今度は槍を四本同時ではなく一本ずつ繰り出してきた。剣で槍を払って攻撃を防いでも、次の槍が突いてくるまでの間隔が短すぎる。防ぎきれなかった槍が体をかすめ、傷を負う。僕はどんどん後退していく。蜂の兵士は僕を逃すまいと、角度を変えて攻撃してきた。いくら後退しても、また元の位置に戻ってきてしまい、逃げきれない。
「リッキ、また来た!」
 遠ざかっていたシェレラが叫んだ。
 蜂の兵士は一匹だけではなかった。
 なんとか槍を振り払いながら、空を見上げた。新たに蜂の兵士が二匹生まれていた。二匹はアイリーとアミカに向かって飛んで行く。蜂の群れと蜂の兵士の両方を相手にするのはさすがに厳しい。二人は魔法で攻撃しながらこっちに逃げてきた。
「お兄ちゃん、ちょっと無理!」
「アミカも!」
 このままでは全滅だ!
「僕が盾になる。みんなは街の中に逃げるんだ!」
 攻撃を続ける一匹目の蜂の兵士の槍を払いながら叫んだ。
 街の中に入ってしまえば、モンスターは追って来られない。悔しいけれど、それしか思いつかない。
 いくらなんでも三匹の蜂の兵士の十二本の槍を同時に防ぐことは不可能だ。
 間違いなく、死んでしまうだろう。
 まだ死んだ経験はないけど、死んだからって別に痛くもなんともない。ただ強制ログアウトされるだけだ。このまま無敗を続けていけばちょっとは自慢になるかもしれないけど、こうなってしまった以上、仕方がない。全滅するよりはマシだ。
 その時。

 ――ラララ~♪ ララ~♪

 後ろから、あの歌声が聞こえてきた。

 ――ルル、ルララ~♪ ルー、ララー♪

「アーピ?」
 なぜこんな時にアーピは歌っているのだろうか、そんな疑問を思うより早く蜂の兵士が槍を繰り出してきた。
 剣を合わせ、振り払う。
 軽い。
 体が軽いし、槍も軽い。
 蜂の兵士は四本の腕で四本の槍を次々と繰り出してきた。
 僕は左手一本の剣で、楽々と振り払う。
 一体どうなっているんだ?
 攻撃が通じないと見たのか、蜂の兵士が空中に逃れた。
 その隙に振り返る。
 僕の目に入ってきたのは、体中が仄かな白い光に包まれたアーピ。
 歌声だけではなく、姿までもが天使のようだ。
 アーピは歌い続ける。
 空を見つめ、両腕を広げた。
 アーピの体から光が広がり、僕たちに降り注ぐ。
 僕だけでなく、パーティ全員の体が白い光に包まれた。
 力が湧いてくる。
 蜂の兵士から受けた傷が回復し、破れた服も元通りに直っていく。
 アーピの歌の力だろうか。蜂の群れは僕たちにたどり着くことなく勢いを失い、落下しながら一瞬だけ光の粒子となり消えていく。大量の蜂の群れが瞬きながら消えていく光景はなかなか綺麗だったけど、見とれている場合ではない。
 上空では三匹の蜂の兵士が合流していた。
 それぞれの手に持つ十二本の槍が、僕たち目がけて襲ってくる。
 ただ、勢いがない。
 僕の後ろからアイリーの杖が炎の玉を放ち、アミカの弓が光の矢を放った。
 いつもより大きい炎の玉といつもより速い光の矢が一撃で蜂の兵士を仕留め、二匹が光の粒子と化す。その中を突っ切って、残る一匹の蜂の兵士が僕に向かってきた。
 蜂の兵士の動きが遅いのか、僕の動きが速いのか。
 おそらく、両方なのだろう。
 突き出された四本の槍をやすやすと見切り、僕は剣を振った。胴体と尻の細い繋ぎ目を斬られた蜂の兵士は、二つに分かれながら光の粒子となり消えていった。
 アーピの歌が終わり、僕たちの体を包んでいた光が消えた。
 僕は後ろにいたアーピの元へ駆け寄った。
「アーピ、その歌は」
 しかし、アーピの隣で、シェレラが前方を見据えていた。
「まだ油断しないで! 次が来る!」
 シェレラが指差した先の空には、また大きな蜂のモンスターが一匹出現していた。
「もう巣は空っぽみたい」
 冷静にシェレラが告げる。
 ということは、こいつがラスボスか。
 翅を震わせ近づいてきた蜂のモンスターは……蜂というより、ほとんど蜂のコスプレをした人間だ。肌に吸い付くような薄く黒い服は、内側から爆乳に押し出されて大きく膨らんでいる。服には黄色い線が描かれ、胸の膨らみをさらに強調している。コルセットで絞られた腰の下にはミニスカート。膝下の長さのブーツ。やはり黄色と黒で統一されている。
「女王蜂、っていうか女王様?」
 アイリーが呟く。
 飛んできた女王様、いや女王蜂が僕たちの前方に降りた。
 それを見てアイリーがまた呟く。
「せっかくスタイルいいのに、頭だけ子供っぽいよね」
 黒髪の頭には、黄色いカチューシャが装着されている。
「でもさ、あれがないと触覚生やせないだろ」
「そこ! うるさい!」
 女王蜂が僕たちを指差して叫んだ。カチューシャから伸びた二本の触覚が揺れている。
「よくも巣を壊してくれたわね」
「ごめんなさい。わざとじゃないの」
 後ろからシェレラが駆け足で前に出ようとした。
「黙れ!」
 女王蜂が腕を前にかざした。掌が光り、針が出現した。何十、何百もの針が僕たちを襲う。すぐさまシェレラが防護壁(シールド)を出現させて攻撃を防いだ。
 女王蜂が攻撃を止め、シェレラも防護壁を解除した。
「シェレラ、前に出ちゃダメだ」
「でも」
「あいつはモンスターだ。話し合いは必要ない」
「そうだよシェレラ」
 隣でアイリーが杖を構えた。
「モンスターのくせにあんなお色気たっぷりな体型だなんて、羨ましくて許せない」
 そこかよ!
 アイリーが炎の玉を飛ばした。女王蜂は上空へと逃げる。続いてアミカが光の矢を放ったが、それも躱された。
 空にいるモンスターには、剣士は手出しできない。僕はただ見上げ、女王蜂を睨みつけるだけだ。
「おまえたちには死んでもらうからね!」
 女王蜂が放った針が豪雨のように降り注ぐ。シェレラは防護壁をドーム状に張って僕たち全員を包み込んだ。針は防護壁に当たり、跳ね返されて地面に落ち、消えていく。しかし、針の攻撃は防げても、防護壁を張っているうちはこっちから攻撃することもできない。
「シェレラ、防護壁を解除して」
 アイリーの杖の先が赤く輝いている。
「このままじゃキリがないから。解除した瞬間にぶっ放す」
 アミカも頷き、弓を引き絞った。
「お兄ちゃんはアーピを守って」
「わかった」
 守るって言ったって、体を張って盾となり針を浴びるくらいしか方法がない。でも今の僕ができるのはそんなものだ。
「アーピ、怖いだろうけど大丈夫。必ず僕たちがアーピを守るよ」
 僕はアーピを抱き上げ、女王蜂に背を向けた。
「じゃあ、いくよ!」
 シェレラは防護壁を解除した。
 針の豪雨が降り注ぐ中を、僕は一気に駆け出した。背中が針を浴び、HPが減っていく。ただ、遠ざかるにつれて針の量が減っていったから、死ぬほどではない。
 後ろを振り返る。上空には女王蜂の変わらぬ姿。その後方に、過ぎ去っていく炎の玉と光の矢。
 躱されたのか!
 針を全身に浴びながら、アイリーとアミカは攻撃を続けていた。しかし女王蜂の動きは素早く、なかなか当たらない。針はダメージを与えた後は役目を終えて消滅していく。そして新しい針がまた突き刺さる。二人のすぐ後ろでシェレラは必死に回復魔法をかけているけど、失うHPが多くて回復が追いついていない。
 僕はなんとか針が降る範囲から抜け出した。
 アーピを地面に下ろす。
「リッキ、ありがとう」
 アーピは戦場を見やった。
「わたしも戦うから」
 アーピは呼吸を整え始めた。体が仄白く光り出す。
 そして、その小さな口を開いた。
 澄んだ歌声が、戦場の空気を静かに震わす。
 針の豪雨が、勢いを弱めた。
 炎の玉と光の矢が女王蜂の体をかすめた。動揺したのだろうか、女王蜂は攻撃を止め、さらに高く飛び様子をうかがっている。
 アーピはさらに歌い続ける。アーピだけでなく、全員の体が再び光に包まれた。
 威力を増したアイリーとアミカの攻撃が女王蜂を襲う。炎の玉が右の翅を焦がし、光の矢が左の翅を貫いた。女王蜂は必死に翅を震わせているけど、飛行能力が削がれ、徐々に高度が下がってきている。
「アーピはここにいて」
 僕は走り出した。戦うために。
 女王蜂は高度を下げながらもまた針の雨を降らせてきた。しかしもう勢いはない。戦場の中心へと走りながらポーションを飲む。これだけで十分だ。
 針の攻撃が通用しないと悟ったのか、女王蜂は攻撃を止めた。アイリーとアミカの攻撃を掻い潜りながら、高度を下げつつ巣があった方向へと遠ざかっていく。
「あっ、お兄ちゃ――」
「後は任せて」
 僕はそれだけ言うと、アイリーたちの横をそのまま走り抜けて先へと向かった。
 女王蜂が降りてくる。
 着地した女王蜂に、僕は即座に斬りかかった。
 女王蜂は両手に持ったナイフを交差させ、剣を受け止めた。スカートに隠れて見えていなかったけど、太ももにナイフを忍ばせていたのだ。
 お互いに後方へ飛び退く。
「パンツ、見たでしょ」
「……答える必要はない」
 黄色と黒の縞パンだったとか、紐パンだったとか、女王蜂がナイフを取り出す時に見えたことは見えたけど、答える必要はない。
「つれないのね」
「あいにく、そこは遺伝しなかったみたいでね」
 僕はまた斬りかかった。女王蜂はナイフを合わせて防戦する。女王蜂には焦りの色が見える。アーピの歌のおかげで僕の剣は威力を増し、女王蜂の体は弱まっている。僕は剣を振り続けた。際どく受け続けていた女王蜂が、ついに受け損ねた。右手首を斬り落とされた女王蜂が、顔を顰める。
 僕は攻撃を畳み掛けた。左手のナイフだけでは防御しきれない。
 女王蜂は、剣に押されて仰向けに倒れた。
 僕は女王蜂の左手を踏みつけた。ナイフが手から離れる。
 女王蜂は、文字通り虫の息だ。
「男は女を優しく扱うものだと思っていたんだけど?」
「まあ、そうなんだけどね。お前もきっと、オスの蜂たちの羨望を集めていたんだろうね」
 僕は剣先を突きつけた。
「でも、お前はただのモンスターだ。それだけだ」
 僕は最後の攻撃をした。
 女王蜂の頭と胴体が分かれた。直後、光の粒子となり消えていった。

   ◇ ◇ ◇

「ごめんなさい、あたしのせいで」
「違うよ、シェレラのせいじゃない。だれもあの岩が蜂の巣だったなんて知らなかったんだから。不可抗力だったんだ。それに、こっちだって一時は殺されそうになったんだ。あの女王蜂を殺したって、誰からも恨まれたりはしないさ」
 アイリーもアミカも、気にすることはないとシェレラに言っている。今回のことは、あくまでも偶発的な事故だ。
 シェレラの背中には、ぐっすり眠ってしまったアーピがおんぶされている。あれだけの力を使ったんだ。眠くなってしまうのも仕方がない。
 戦闘のせいで、食べかけだった料理が辺りに散乱してしまっている。
「せっかくのランチをこんなにめちゃくちゃにしちゃうなんて。こんなことするモンスターなんかやっつけられて当然ね!」
 女王蜂に謝ろうとしていたシェレラだったけど、一方ではこんなことを言っている。あいかわらずシェレラはよくわからない。
「まあ、料理はしょうがないよ。また買ってくればいいさ。それよりさ、ちょっと一緒に来てくれないか。いい物見つけたんだ」
 僕は歩き出した。
「ほら、見てよ」
 誰もが岩だと思っていた、壊れた蜂の巣の跡。
 そこにあったものは。
「蜂蜜だ~」
 アイリーが巣の残骸の中から蜂蜜を取り出した。実際に蜂の巣にあるような蜂蜜ではなく、アイテム化された瓶詰めの蜂蜜がたくさん埋もれていた。
「アイリー、ちょっとちょうだい」
 シェレラはアーピをおんぶしていて、両手が塞がっている。蜂蜜の瓶を手に取ることができない。
「もーしょうがないなー」
 アイリーは瓶の蓋を開けると、指ですくった。
 はい、とアイリーが指を差し出すと、シェレラはアイリーの指先を口に含んだ。
「ひゃっ、くすぐったい」
 アイリーは指を引っ込めた。二人とも何やってんだよ。
「あま~~~い」
 シェレラはとろけそうな笑顔で蜂蜜の味を堪能している。
「あ、そうだ。ねえリッキ」
「ん? 何?」
「あたし、リッキからも蜂蜜をなめたい」
「しないよ!」
「しないよ!!」
 なぜかアミカも同時に答えた。それもけっこう強めに。
 アミカは蜂蜜と同じ色のブロックを手にしている。蜂蜜と同じく、巣の残骸の中から見つけたアイテムだ。それをアイリーが不思議そうに見ている。
「アミカ、何それ? おいしそうだけど」
「たべものじゃないよ。みつろうだよ」
「ミツロウ?」
「蜂が出す蝋のことよ。キャンドルにするのもいいかも」
 シェレラならキャンドル作りくらいは簡単にできそうだ。
「おー、いいねー。今度イベントで使おうかな。アミカはミツロウいる? もし使わないならシェレラにあげてもいい?」
「うん、いいよ。シェレラにあげる。どーぞ」
 アミカは蜜蝋をシェレラに差し出した。しかし、シェレラは両手が塞がっていて受け取れない。
「アミカ、それ、わざとやってる?」
「えーなんのことかなー?」
 ちょっとキレそうなシェレラと、白々しくすっとぼけているアミカ。
 まただよこの二人。
「僕が預かっておくね。二人とも仲良くね。あはは」
 僕は軽く笑いながらアミカの手から蜜蝋を取り上げると、さっさとアイテムリストに入れてしまった。

   ◇ ◇ ◇

「? あれ?」
「あ、起きた?」
 アーピが目を覚ました。小さな手で目をこすり、体を起こす。
「……わたし、寝ちゃってた? そうだ、たいへん! 戦ってたのに」
「もう終わったよ。アーピのおかげで勝てたんだ。本当にありがとう」
 眠りから覚めた神秘の歌姫に、僕は心からのお礼を言った。
 僕だけではなく、他のみんなも一斉にアーピに感謝の言葉を浴びせかけた。

 僕たちはピレックルの噴水の広場に戻ってきていた。
 ベンチで横になって眠っていたアーピは、戦闘が終わったことを知ると、辺りを見て現状を確認した。
「……もうお花を見に行かないの?」
「うん、今日はもうおしまい」
 アイリーが答えた。
「今日は大変なことがあったし、時間も経っちゃったから、また今度一緒に遊ぼうね」
「うん! また遊ぼうね!」
 不思議な一日だった。
 いろいろあったけど、最終的には楽しかった……かな?
 僕たちは一斉にログアウトした。

   ◇ ◇ ◇

 現実世界に戻ってきた僕は、ゴーグルを外すとすぐに隣の愛里の部屋に駆け込んだ。愛里もお母さんも、ちょうど目が覚めてゴーグルを外したところだった。
「お母さん! あの子は、アーピは本当にお母さんなの?」
 アーピとしてログアウトしたからこそこのタイミングで目が覚めたのだろうけど、それでも僕は訊かずにはいられなかった。
「そうよ? 当たり前じゃない? ……りっくんったら、そんなに慌てちゃってどうしたの?」
 きょとんとした顔のお母さんが、僕を見ている。
「え、いや、その……、うん、そうだよね」
「そうだよお兄ちゃん。アーピがお母さんじゃないわけないじゃない」
 外したゴーグルを手にしたまま、愛里が僕に詰め寄った。
「愛里……愛里はアーピの中身が誰なのか、全然気にしてなかっただろ。『お母さんでも誰でも、アーピはアーピだ』って」
「えっ、い、言ってたっけ……そんなの……」
 愛里はバツが悪そうに、少し目を逸らした。
 それにしても。
 アーピはちゃんとお母さんだったんだ。
「でも、不思議ねー。思っただけで勝手に体が動くなんて」
 え?
「ゲームの中に入ったらお母さんがお母さんじゃなくなってて、びっくりしちゃった。女の子になっちゃったっていうのはすぐにわかったわ。それで『この子ならきっとこんなことしそうだな』とか『こんなお話になったらいいな』とか想像したのよ。そうしたら勝手に歩いたり話したりしてくれるのね! こういうのなんて言うんだっけ? オートなんとか? そういう機能があるなんて知らなかったわ! 面白いのね! りっくんとあいちゃんは昨日と同じだったけど、他の子にはならないの?」
 一体何を言っているんだ、お母さんは。
「えっと……お母さん、そんな機能は……」
「だってほら、ハルナさんはアミカちゃんになってたじゃない」
 えっ?
 伝えていないのに。
 玻瑠南はアミカとしての自分をお母さんに明かすつもりでいたけど、現れたのがセキアではなくアーピだったせいで、そのことは結局言わないままになってしまっていた。
 それなのに、お母さんはアミカの中身が玻瑠南だとわかっているみたいだ。
 お母さんはパチンと手を合わせた。
「そうだお母さん晩ご飯買ってこなきゃ! ヤスコに行ってくるわね!」
 お母さんは突然話を終了させると、勢いよく部屋を飛び出してバタバタと階段を駆け下り、慌ただしく玄関を出て行った。

「愛里はお母さんの話、どう思う?」
「どう思うって……。バグでしょ」
「いや、それはわかってるけどさ」
 僕はそのまま愛里の部屋に残って、愛里と話を続けていた。愛里は学習机の椅子の背もたれを抱えるように逆向きに座り、スマートフォンの画面を見ている。僕は立ったままだ。
「お兄ちゃんは難しいこと考えなくていいから」
 愛里は無表情でスマートフォンをいじっている。
「考えなくっていいって、どういうことだよ!? だって気になるだろ? こんなわけわかんないバグばっかりで」
「いいじゃん、楽しかったんだし。私からお父さんにメッセージ送っておくから。今のお母さんの話もちゃんと伝えておくし。だからお兄ちゃん晩ご飯お願いね」
 愛里の声にはまるで感情がこもっていない。それに、ずっとスマートフォンを見てばっかりで、全く僕を見ようとしない。
「愛里!」
「私、メッセージ送るのに忙しいから」
「…………」
 僕は何も言わず愛里の部屋を出て階段を下り、台所へ向かった。

   ◇ ◇ ◇

 アーピとしての一日がよほど楽しかったのだろう。
 夕食の間、お母さんはずっとしゃべりっぱなしだった。
 お父さんも、お母さんの話を楽しそうに聞いていた。お母さんが『リュンタル・ワールド』を楽しんだということが、お父さんにとっては何よりうれしいのだ。
 僕としては、どうしてお母さんがアーピという少女になってしまったのか聞きたかったんだけど、二人とも本当に楽しそうで、とても会話に割って入れるような雰囲気じゃなかった。愛里もバグのことは一切言わず、アーピと一緒に遊んで楽しかったとか、アーピの歌がすごかったとかの話に終始していたし。
 びっくりしたのは、お母さんが完全にアーピの声を再現していたことだ。話の中で時折、「リッキがね、お花がいっぱいあるところに連れて行ってくれて、うれしかったよ」とか、「アイリーの歌がとても素敵だったの。もっと聞きたかった」とか、お母さんはアーピの声でお父さんに話していた。
 でも、本当はきっと逆なんだ。アーピの声がお母さんの声だったんだ。
 よく考えたら、それは当たり前のことだ。アミカだって普段の玻瑠南の声からは想像がつかないけど、玻瑠南はリアルでもアミカの声を出すことができる。つまり、アーピがお母さんだったってことは、完全に疑いようがなくなったってことだ。
 とはいえ、結局僕はほとんど会話に加わることはできなくて、バグについてお父さんから聞き出すこともできなかった。お母さんがどうしてアーピになってしまったのかは、謎のままだ。

 ところが。
 夕食が終わり部屋にいると、
「立樹、ちょっといいか? アーピについて話したいことがある」
 お父さんがドアの向こうから声をかけてきた。お父さんのほうから話してくれるなら、それに越したことはない。
「うん、入って」
 お父さんは愛里も呼んで、僕の部屋にお父さんと愛里が入ってきた。六畳間くらいの広さの部屋にベッドと学習机と本棚があって、空きスペースはそんなにない。僕は学習机の椅子に、お父さんと愛里はベッドに座った。
 お父さんが口を開いた。
「アーピはNPCだ」
 えっ? NPC?
「ちょっと待ってよお父さん! アーピはお母さんでしょ? オートで動いたとか、ちょっと変なところはあったけど」
「最初は他のプレイヤーのアバターが紛れ込んでしまったのかと思って、削除済みのアバターのデータも含めて調べたけど、そうではなかった。
 それで、次にNPCを調べたんだ。『リュンタル・ワールド』にはまだ登場していない膨大な数のNPCのデータがあるからね。父さんもさすがにNPC全員のデータは把握していなくて、報告を受けた時にはわからなかったんだけど、調べているうちに未公開のNPCの中にアーピがいたことがわかったんだ。
 今日は本来のアバターであるセキアではなくて、バグによってNPCのアーピがせいちゃんのアバターとして現れてしまったと考えられる。アーピにはもちろん他のNPC同様プロフィールやステータスが設定されているし、AIも積まれている。ただ、本来は全てAIが判断して行動するんだけど、そこにせいちゃんの思考が加わってしまった。それでアーピのAIは自分で全て判断する本来の行動ではなくて、せいちゃんの思考を読み取って、それに沿うような行動を導き出した――。
 というのが、せいちゃんの言う『オートなんとか』が起きた理由だと、父さんは考えている」
「……つまり、どういうこと? NPCがお母さんのアカウントを乗っ取ったってこと?」
「そうじゃない。むしろせいちゃんがアーピの中に入ったんだ。昨日せいちゃんが『若くなった』とか『アイリーくらいの若い子にもなれる』とか言ってただろ? その思いがゴーグルを通った時にバグを起こして、コンピューターがセキアのアバターはせいちゃんのものではないと判断して、よりせいちゃんの思いに適合したアーピを呼び出してしまったのかもしれない。そこへ、ログインしたせいちゃんの脳波が流れ込んだってことなんだ」
 僕はコンピューターのことはあまり詳しくない。こんなことって本当に起こりうることなのか? 僕には難しすぎる。
「愛里は、お父さんの言ってること、わかった?」
「うん。だいたい想像してたのと同じだった。でも、そんなのどうでもいい」
 愛里はぶっきらぼうに言い放った。
「どうでもいいってなんだよ! お母さんがこんな変なことになっちゃってるっていうのに」
「だってお父さん公認なんだよ? お父さんが止めないうちは大丈夫だって。そうでしょ?」
 愛里は隣に座っているお父さんの顔色を窺う。
「うん、まあそうだな。どんなバグが起こるのかっていう調査でもあるしな。でも、本当はせいちゃんが楽しく遊んでくれていることが一番なんだ。せっかくせいちゃんが楽しんでくれているんだから、止めることなんてできないさ」
「そうだよ、お兄ちゃんだって余計なこと気にしないで楽しめばいいんだからね!」
「だからって、こんなのまともじゃないって」
「いーの!」
 愛里は僕を睨みつけた。
「NPCであろうがPCであろうが、私にとってはみんなリュンタルの人間なの! お兄ちゃんPCの中身がどんな人かとか全然気にしないくせに、NPCには冷たいよね。人間じゃないから? ただのプログラムだから? でも私はそんなこと考えてないから。明日もアーピと一緒に遊ぶから。お兄ちゃん嫌なら無理に来なくていいよ」
「そんな言い方しなくったっていいだろ!」
 僕は立ち上がって、愛里を見下ろした。
「僕はただ、お母さんが心配なんだよ」
 ベッドに座ったまま、愛里は僕を見上げた。睨んでいるのもそのままだ。
「だからそれは、お父さんが大丈夫だって言ってるん――」
「お父さん!」
 愛里が言い終わる前に、僕はこの混乱した感情のはけ口をお父さんに変えた。
「なあ立樹」
 お父さんも立ち上がった。
 いくら僕がクラスで身長が一番高くても、お父さんと比べればさすがに低い。
 僕はお父さんを見上げた。
 愛里が僕を睨みつけていたように、僕もお父さんを下から睨みつける。
 お父さんは、睨んでいる僕の目をじっと見つめ、僕の両肩に手を乗せて、諭すように優しく言った。
「――いくら妹でも、女の子とケンカしちゃいけないぞ」
「…………は?」
 呆気にとられている僕を尻目に、お父さんはそのままドアに向かった。
「父さんからの話は終わりだ。明日もせいちゃんを頼むよ」
 そう言ってお父さんは部屋を出て、階段を下りて行った。
「ま、そういうことだから」
 ずっとベッドに座っていた愛里も、立ち上がった。
「ブログ書きかけだったから、続き書かなきゃ」
 まるで何事もなかったかのように、愛里は隣の部屋に戻って行った。

 自分の部屋だというのに、取り残された気分になった。
 僕が間違っているのだろうか?
 お母さん自身は『リュンタル・ワールド』をとても楽しんでいる。
 僕よりはるかにコンピューターに詳しいお父さんや愛里が、大丈夫だと言っている。
 そして、ゲームが壊れてしまうような悪影響も、出ていない。
 でも、本当にこれでいいのだろうか……。

   ■ ■ ■

 まだ小さいわね。
 もっと待たなきゃ。

 でも、きっとこの先には……。

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