第一章 日曜日のバグ
銀色の全身鎧を纏った剣士。
剣を振り、体を躍らせるたびに、長い黒髪が揺れ、漂う。
剣を向けられた相手――クークーが翼をばたつかせ、羽毛を散らす。
「クェエエーッ」「クェエエーッ」
ニワトリをそのまま二倍に大きくしたようなモンスターのクークーが四羽、前後左右から全身鎧の剣士を襲う。
しっかりと両手に握りしめられた銀色の剣が、空を斬った。
「リッキ、どうしよう! 全然当たらない!」
自らの剣の勢いに体勢を崩しながら、離れて見守っている僕に助けを求めてきた。
「落ち着いてハルナ。クークーじゃその鎧にダメージを与えられないから、防御の必要はないよ。焦らないで攻撃に集中すれば大丈夫」
それを聞いて、全身鎧に身を包んだハルナが、また剣を振る。
「やーーっ!」
気合いを込めて振った剣を、クークーが素早く歩いて躱す。
剣は……クークーの背後に立っていたザサンノの木の太い幹に食い込んだ。
剣を引き抜こうとするハルナ。取り囲むクークー。
嘴でついばんだり爪を立てたりして、クークーたちがハルナを襲う。クークーの攻撃は全身鎧が完全にガードし、HPに動きはない。でもけたたましく鳴きながら翼をバサバサと派手にばたつかせる行動に恐怖を感じたのか、ハルナの表情は引き攣っている。
「いやっ、だめ、あーっ、きゃーっ」
木に食い込んだ剣を握りしめたまま、ハルナはへたり込んでしまった。
パニックになっちゃったのかな。仕方がない。
僕は右の腰に下げた細身の長剣の柄を左手で掴んだ。
軽い駆け足で近づき、剣を抜きざまにクークーの首を刎ねた。頭と体が分離したクークーが、光の粒子となって消えていく。
残りの三羽のクークーが、僕に気づいて振り向いた。
でももう遅い。
僕はクークーに逃げる間を与えず、次々と左腕を振った。光の粒子の輪郭が新たに三体生まれ、消えた。
僕は剣を収めた。
「ハルナ、大丈夫?」
呆然と僕を見上げるハルナ。両手はまだ剣を握りしめたままだ。
僕はハルナの手を解き、代わりに剣を握ると、剣を木から引き抜いた。
引き抜いた剣を右手に持ち、左手をハルナに差し出す。
「立てる?」
ハルナは僕の手を掴み、立ち上がった。続けて剣を受け取り、鞘に戻す。
「まあ、最初はうまくいかないかもしれないけど、だんだん慣れるよ。レベルが上がれば剣のブレもなくなってくるし、今みたいなことには」
「そうね。なかなか思ったようにはいかないみたい」
ハルナはクークーが残していった『クークーの肉』と『クークーの卵』を拾い集め、アイテムリストに加えた。ちゃっかりしてるな。
「本当はね」
ハルナは僕に背中を寄せた。押された僕は、ザサンノの木と全身鎧のハルナの背中との間に挟まれる。
「こういうのを、期待してたんだけど」
ハルナは左手で僕の右手を掴むと、ハルナの右手の甲に重ねた。
「しっかり握って」
「う、うん」
促されるままに、ハルナの手を握る。
左手を左側に戻したハルナは、
「ほら、こっちも」
軽く振り向きながら、左手を差し出す。
僕がその手を握ると、ハルナは再び剣を抜き、振った。その動作に、僕の手も後ろから抱きかかえるようについていく。
「リッキ先生には、こんな感じで手取り足取り指導をしてほしかったんだけど?」
「いやいや、さすがに……それはないだろ」
ピレックルの西に広がる、ヒョウスの森。
ハルナから「夏休みになったら剣を教えてほしい」と頼まれた僕は、強いモンスターがいないこの森で戦闘の経験を積むことを考えた。
今日は夏休み初日。さっそく二人で森に来て、剣士としての練習を始めることにした。
クークーは鳥とはいえ飛べないし、装備をしっかりしていれば嘴や爪での攻撃でダメージを負うことはない。まず一対一での戦闘から始めて、なんとか倒せるようになったから、次のステップとして複数のクークーを相手にする戦闘をやってみたんだけど……。
結果は、うまくいかなかった。一気に四羽に増やしたのは僕の失敗だったかもしれない。
それはともかく。
「そうよね。私もこれはないと思った」
僕に手の甲を握られたままのハルナの右手が、空間をなぞった。
ハルナの体を包んでいた全身鎧が消えた。装備を解除したんだ。
「鎧なんか着てたら、リッキが腕を回しにくくなるし」
軽装になったハルナの背中が、僕に密着する。
「いや、その、そういう意味じゃなくて」
「私はそういう意味なんだけど?」
ハルナとザサンノの木に挟まれ、僕は身動きがとれない。
僕はハルナから手を離した。できることといったらこれくらいだ。
「と、とにかく、これじゃ僕が動けないから、教えるも何も」
「だったら」
ハルナは僕に押し付けていた背中を離し、振り向いて僕と向き合った。
「リッキ、私、剣の練習以外のこともしたいんだけど……」
ハルナはぐいっと体を寄せてきた。ハルナの顔が、僕の目の前に迫る。
「ハルナ、そ、その」
「何? 今さら慌てることじゃないでしょ?」
確かに、このシチュエーションは、これで三回目だ。一回目は学校の司書室で。二回目は、アイリーがコンサートをしているステージの袖で。
「いや、ついさっきまでモンスターと戦ってたのに、ずいぶんいきなりだなと……」
「そう? 二人っきりになった時って、いつもこんなじゃなかった?」
ハルナの顔がさらに近づく。
唇が触れる寸前まで、近づく。
前にこうなった時……僕は、このままキスするのもありだと思った。
ハルナは僕のことを好きだと言ってくれている。
だったら今も、流れに任せてしまったって、別に構わないだろう……。
「クェエエエエーッ!」
静かな森に響き渡った、鳥の鳴き声。
バタバタと飛べない翼をばたつかせながら、新たに現れたクークーが走り寄ってきた。
「クェエエーッ」
その後ろから、さらにもう一羽のクークー。
「なんなのこいつ! いいとこだったのに!」
ハルナは振り向き、近づいてきたクークーを迎え討とうと剣を抜いた。
「ハルナ、鎧! 鎧を着て!」
ハルナはすっかり頭に血が上ってしまったみたいで、僕の声が届かない。装備を整えないままただひたすら剣を振り回し続けている。しかも、ほとんどが空振りだ。
もっと冷静になれないと、戦闘はうまくいかないんだけど……。
二羽しかいないぶん、さっきみたいなことにはならないと思うけど、上達するにはまだまだ時間がかかりそうだ。
僕たちも――まだまだ、時間がかかるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
夏休みになって最初の日曜日の朝。
僕はいつものように、リビングで食パンとサラダを食べている。夏休みであろうと、日曜日であろうと、変わることのないいつもの朝食だ。一枚目を食べ終わった僕は、二枚目のトーストにマーガリンを塗り、大皿に盛られたサラダを少し取って乗せ、二つに折った。カリッとしたトーストの表面の食感とうっすら焦げた味、内側のもっちりとした食感に続いて、レタスやきゅうりのシャキッとした食感が続く。いつもと変わらない味だ。
テーブルの向かい側では、
「お兄ちゃん、ハルナとは上手くいってるの?」
口の中の食パンを飲み込んだ愛里は、サラダにフレンチドレッシングをかけながら、爽やかな朝のなにげない日常会話に見せかけた攻撃を放ってきた。
思わずまだ噛みかけの口の中のものを飲み込んでしまった。レタスが喉に引っ掛かった気がして、慌ててコップを掴んでオレンジジュースを飲み干した。
一息ついてから、僕は話した。
「上手くいってるのって……そりゃあ、最初の頃と比べれば、上手くいってるさ。クークー一羽倒すのも大変だったのに、今では四羽くらいで囲まれてもなんとか戦えるようになったし」
「そうじゃなくって」
愛里はジト目で僕を見据えたまま、口にサラダを運んだ。目は全く動いていないけど、口の中は激しく動いてサラダを噛んでいる。
「そうじゃない……ですよね。あはは……」
つい丁寧語になってしまった。
笑ってごまかそうとしたけど、愛里のジト目は微動だにしない。
「い、いや、でもさ、別に愛里が気にしなくってもいいだろ」
「お兄ちゃんとハルナが二人っきりでいられるように、一緒に遊びたいのにわざわざ別行動とってるんだよ? それで何も成果がなかったら私がバカみたいじゃん」
「そ、それはどうも、ご心配をお掛けしています……」
ますます敬語になってしまった。
「今日だってこれからハルナと一緒なんでしょ? ハルナの剣のレベル上げもいいけどさ、お兄ちゃんが上げなきゃならないのは別のレベルなんじゃないの?」
愛里の話を聞きながら、僕はオレンジジュースが入った一リットルの紙パックを持って、空になったコップに注いだ。
「別のレベル、ってなんだよ」
オレンジジュースが入ったコップに口をつけながら、ステータスを思い出してみる。特にレベルが足りないのなんてあったっけ……。
「わざわざ言わせないでよ。ハルナの気持ちに応えるための、恋のレベルじゃん」
「げ、げほっ、ごほっっ」
飲みかけたオレンジジュースでむせてしまった。
「あ、あのなあ。……ごほ、げほっ」
時間をかけて呼吸を整えて、落ち着いてからまたオレンジジュースを一口飲んだ。
「ハルナのほうから剣を教えてほしいって言ってきてるんだぞ。ハルナの剣が上達すればそれでいいじゃないか」
それだけでいい、と本気で思っているわけではない。でも、どうしても恋愛感情ってものに実感が持てない。今の僕にできることは、ハルナが剣の腕を磨くのに協力してあげることだ。だから愛里の言うことを理解しつつも、はぐらかして言葉を返している。
僕は食べかけのトーストを一口食べた。
愛里もちょっとふてくされながら、白いままの食パンとサラダを交互に口に運んだ。
無言の間ができた。
お父さんは日曜日だというのに朝早くから会社に行っている。相変わらず忙しいみたいだ。
お母さんは……そういえばお母さんはどこに行ったんだ? いつも一緒に朝食を食べているのに。
「りっくん! あいちゃん!」
そう思っていたら、お母さんが僕たちの名前を呼びながらリビングに入ってきた。両手を後ろに回している。何かを隠し持っているんだろう。その何かを見せないように体を僕たちの正面に向けたまま歩こうと意識しているのか、動きがぎこちなくなっている。とにかく、何かを隠しているのがバレバレだ。
「実はね、お母さんもこうちゃんのゲームやってみようと思うのよ」
そう言うと、お母さんは両手を前に突き出した。
「じゃーん!」
隠し持っていた何かが、お母さんの両手の手のひらに乗って僕たちの前に現れた。
ゴーグル、のはずだ。仮想現実用の。
でも、僕や愛里が使っているものとは、だいぶデザインが違う。
「こないだヴェンくんが来た時に、物置になってた部屋を片付けたでしょ? その時にこれ、見つけちゃったのよねー」
お父さんが二十年前に経験した、異世界『リュンタル』での冒険の旅。
それを元にしてお父さんが作ったのが、仮想現実型のロールプレイングゲーム『リュンタル・ワールド』だ。
一ヶ月くらい前、なぜか『リュンタル・ワールド』でバグが発生して、本物のリュンタルの少年ヴェンクーが仮想世界を通じて僕の家に来てしまった。その時お母さんはヴェンクーを家に泊めようとして、まるで物置のようになって散らかっていた奥の部屋を頑張って片付けたのだ。結局ヴェンクーは泊まらずにリュンタルに帰ることになったけど、いつからか物置部屋で埋もれていたゴーグルが、その時に発掘されて今ここにある、というわけだ。
「お母さん、それちょっと貸して」
愛里がひったくるようにお母さんの手からゴーグルを奪い取った。顔に近づけたり光にかざしたり、回したり傾けたりしていろんな角度から見たり、小さな文字に目を凝らしたりしている。
「かなり古い型だね、これ。私とお兄ちゃんが初めてテストプレイをした時に使ったのより古いんじゃないかな?」
埋もれていたくらいだから古いのだろうとは思ったけど、そんなに古いものなのか。たぶん、お父さんが『リュンタル・ワールド』を作り始める前に使っていたのが紛れ込んでしまっていたのだろう。
お母さんは愛里がゴーグルを調べているのをそわそわしながら見ている。
「りっくんやあいちゃんにやり方を教えてもらおうと思ったから、夏休みになるまで待ってたのよ。りっくんもあいちゃんも、今日このゲーム、やるんでしょ?」
だったらなんで日曜日になるまで待っていたんだろう。夏休みになってすぐでもよかったのに。
そして、僕には心配なことがあった。
「こんなこと言うのはなんだけどさ……お母さん、ゲームするのすごい苦手でしょ? あんまり面白くないかもしれないよ?」
お母さんはゲームが極端に苦手だ。キャラクターを右に動かせようとすると自分の体も右に動いてしまう、なんてのは当たり前。敵の攻撃を食らって死んでしまったのに気がつかずに動かそうとしたり、ひどい時には原因不明のフリーズを起こしてしまうことだってある。
ゲームの知識もほとんどない。今だって、ゴーグル自体がゲームソフトだと思い込んでいるみたいだし。
「ゲームの中の登場人物になって遊ぶんでしょ? 大丈夫よ。お母さん高校の時演劇部だったんだから!」
うーん、やっぱりちょっと勘違いしているような気がする。
「それにね、こうちゃんが行った世界がどんな所なのか、お母さんもずっと行ってみたかったのよ! 全部そっくりに作ってあるんでしょ? やっぱりお話しを聞いただけじゃ物足りないのよねー」
そうか。ゲームで遊びたいっていうより、こっちがお母さんの本音なのか。そう言われてしまうと、お母さんの願いを叶えてあげたくなってしまう。
「愛里、そのゴーグル、ちゃんと動きそう?」
「わかんない。とりあえずやってみるよ。私、お母さんと二人でアバター作ってるから、お兄ちゃん先に行っててよ。後でメッセージ送るから」
「わかった。じゃあまた後で」
ちょうど朝食を食べ終わった僕は、一足先にログインすることにした。
◇ ◇ ◇
「やーーーっ!」
「クェエエーッ」「クェエエーッ」
今日もヒョウスの森に鳴り響く声。
飛べない翼をばたつかせながら、ハルナを取り囲む四羽のクークーがけたたましく鳴き声を上げる。その一羽めがけて剣を振るハルナ。
剣先がクークーの胸をかすめ、血と羽毛が飛び散る。致命傷ではなく、クークーはなおもハルナを嘴でつつき、爪で蹴ろうと向かってくる。
さらに剣を振り回すハルナ。ようやく手応えを感じた剣が、クークーの首を刎ねた。
「クェエ」
最後まで鳴くことなく、クークーは光の粒子となって飛び散った。
「いいぞー、その感じ」
「わかってるって!」
少し離れて見守る僕に、ハルナは少しイラついて返事をした。
ハルナがイラついているのも、わからなくはない。
思っていたよりも、上達が遅い。
スラリとした長身に全身鎧。激しく体を動かすたびに揺れる、しなやかな長髪。
どうしても思い出す。
「リノラナみたいになれるんじゃないか、って思ったんだけどな……」
そっと呟いた。
本物のリュンタルで会った、ヴェンクーの妹、リノラナ。
騎士団で日々鍛錬に明け暮れるリノラナの剣の実力は、はっきり言って僕より上だった。
ハルナとリノラナは、体つきがとても似ている。
ハルナだったらきっと、リノラナのようになれるはず……。
でも、それは僕が勝手に重ねてしまったイメージだったのかもしれない。
今僕が見ているハルナは、下級モンスター相手に苦戦している。
「大丈夫! 落ち着いて、相手をよく見るんだ」
剣が空を斬り続けるハルナに、アドバイスを送る。
ハルナは……たぶん、剣に自信を持てていないんだ。
リノラナの剣には、目には、迷いがなかった。それが強さにつながっていた。
でもハルナは下級モンスターであるクークーですらなかなか倒せないことが、悪循環になっているみたいだ。
それでも、振り回した剣がたまたまクークーに当たり、倒していく。
なんとか四羽のクークーを全滅させることができた。
これが自信につながってくれれば、いいんだけど。
「リッキ、やっぱり私って剣士に向いていないのかな」
僕のほうへ歩いてくるハルナから、弱気な言葉がこぼれる。
「大丈夫だって。最初はこんなもんだよ」
「でももう何日も経ってるじゃない。最初、って段階は過ぎたんじゃないの? それなのに」
「大丈夫、大丈夫だって!」
「……そうなのかな」
ハルナはいったん俯き、そして僕の顔を見上げた。
「だって私、本当は一日目でもう諦めようかと思った。でもリッキがつきっきりで私を見てくれているし、リッキをがっかりさせたくないし、私から言い出したことでリッキを無駄に振り回したことになんかしたくないし、だから頑張ろうって思った。でも私、全然上手くなってない。そうでしょ? やっぱり私ってそもそも剣士になんか」
「落ち着いて、落ち着いてハルナ」
僕は銀の鎧に覆われたハルナの両肩に手を乗せた。
「今日は休みにしようか。毎日根を詰めて訓練すればいいってものじゃないしさ」
今のハルナにはリフレッシュすることが必要なのかもしれない。
「それに……」
僕は近くにあった平べったい石の上に腰を下ろした。石はちょうど二人分が座れる大きさだ。
「話したいことがあるんだ。座ってよ」
僕が空けた石の右側に、ハルナも座った。
「実はさ、今日この後、お母さんが来るんだよ」
「お母さんが……来る?」
ハルナが怪訝な顔を見せた。
「うん。今朝いきなり『リュンタル・ワールド』を始めたいって言い出してさ。今愛里と一緒にアバター作ってるんだよ」
「リッキの……というか、
そう言いながら僕のほうに顔を向けたハルナと、ハルナが座るのを見ていた僕の目が至近距離で合ってしまって、僕は反射的に顔を正面に向き直した。
この間、
あの時は……うん、お母さんがいなくて助かったような気がする。
僕はまた右を向き、ハルナの顔を見て、目を合わせた。
「ドジっ子がそのまま大人になったらこうなります、っていう見本みたいな人かな」
「…………?」
「それにゲームとか機械とかすごく苦手だから、ちゃんとウィンドウを開けるかとか、そのあたりから心配だよ。すごく不器用だし」
「そっ、それは大変ね」
唖然とするハルナ。まあ、そりゃそうだよな。ウィンドウを開くことくらい、幼稚園児だってできるし。
「行動力はあるから張り切っていろいろやろうとするんだけど、頑張れば頑張るほどやらかしちゃうんだよ。今日も何かとんでもないことが起きそうな気がするんだけど……。でもね、お母さんはとても優しくて親切で、ちょっと子供みたいなところはあるけど、僕はお母さんのことがとても好きなん――」
「大丈夫。私も協力する」
僕の右手を、ハルナの両手が力強く握った。
「い、いや、ハルナはいいよ。僕とアイリーでなんとかするって。ハルナをドタバタに巻き込んで迷惑かけてしまいたくないし」
「何言ってるの。いずれご挨拶しなきゃならないんだし。それにご両親とはこれから一生お付き合いしていくことになるんだから。迷惑だなんてとんでもない」
ハルナが身を乗り出して、僕の目の前に顔をぐいっと近づけてきた。銀の鎧ががちゃりと音をたてる。
「ね? そうでしょリッキ? リッキもそう思うでしょ?」
「え、えっと、その……」
ハルナに迫られると、僕はどうしてもタジタジになって動けなくなってしまう。
もっとも、右手がしっかり握られたままなので、今は逃げようにも逃げられない。
「ハルナ、そ、そういうのは、まだ早いかなと……」
電子音が鳴った。メッセージの着信を知らせる音だ。
「あ、メッセージだ。きっとアイリーからだ」
身を乗り出していたハルナが、手を離して石の上に座り直した。僕は左手の人差し指で、視界の左下にある手紙の形をしたアイコンを二回つついた。出現した半透明のウィンドウの向こうに、ハルナの不満そうな表情が見える。ハルナにとってはバッドタイミングなメッセージの着信だったんだろうけど、僕としては助かった。
「やっぱりアイリーからだ。噴水の広場で待ってるって」
僕が立ち上がると、ハルナも立って腕を絡めてきた。
「私も行かなきゃ」
「……本当に一緒に行くの?」
「当然でしょ?」
◇ ◇ ◇
パーティを組んで戦う、というのはごく普通のことだ。というか基本だ。
以前の僕みたいに、ずっとソロで戦い続けるような人はこの世界にはあまりいない。僕だって、テストプレイを繰り返して得た非公開データを自分だけが知っているなんて不公平だ、なんて思うことがなければ、きっとパーティを組んでいたことだろう。
再確認すると、他のプレイヤーと組むのは、基本的なことなんだ。
だから、僕が他のプレイヤー、つまりハルナと一緒にいたって、何もおかしいことはない。
ヒョウスの森を出て、街道を歩いて、ピレックルの城下町に入ってきても、ハルナは組んだ腕を離そうとしないけど、これはパーティなんだ。二人組だってパーティはパーティだ。
銀色の全身鎧のハルナが軽装の僕に身を寄せて歩いているのは逆のような気もするけど、僕のほうがちょっとだけ背が高いし、そういうこともあるだろう。男女二人組とはいえ、これはあくまでもパーティなのであって、この世界ではパーティを組むのが基本だ、とお母さんに教えるためには――。
「ハ、ハルナ、ちょっとその、距離が近すぎるというか、その、そんな感じがするんだけど……」
「そう? あまり離れていると、攻撃された時に分断されて危険だと思うんだけど」
「それでも適度な位置関係を考えるとだいぶ近いような、というか、ここは街の中なんだから、攻撃されることはないんだけど……」
周囲を見回すと、僕たちだけでなくあちこちに男女のカップルはいる。手をつないで歩いていたり、楽しそうに話して笑っていたり、買い物をしていたり――。この世界で出会った恋人なのだろうか。それともリアルで恋人の二人が仲良くゲームを楽しんでいるのだろうか……。
いや、中にはただの戦闘目的のパーティの二人組だっているはずだ。きっといるはずだ。そうに違いない。お母さんに紹介するのはあくまでも「パーティを組んでいるハルナ」だ。
そう固く心に決めて歩いているうちに、噴水が見えてきた。
「お兄ちゃーん」
噴水の近くから、かすかに声が聞こえてきた。アイリーの声だ。腕を上げて大きく振っているピンクの姿が小さく見える。
その隣に、見慣れない姿の人がいるけど……。
僕のお母さん、
三十七歳という年齢のわりには若く見える。年の離れたお姉さん、と言っても通用するかもしれない。
そのお母さんが、仮想世界のアバターとなって、さらに若く見えている。もし二十歳と言ったとしても、疑われないかもしれない。
でも、だからって、だからって――。
「あ、りっくん、これどう? お母さんカッコいいでしょ」
噴水まで来た僕に、その見慣れない姿の人は、聞き慣れた声と口調で話しかけてきた。
顔と姿を確認して呆然としていた僕は、声を聞いてそれが間違いなくお母さんであることを認識して、さらに呆然とした。
肘から先を覆う、銀の装飾が入った赤い籠手。
膝から下も、すね当てと一体化した赤いブーツ。やはり銀の装飾がふんだんに使われている。防具としてしっかりしているだけではなく、見た目も鮮やかだ。
それに引きかえ。
赤地に銀の装飾ということは変わらないものの、大きな胸の半分以下しか覆えていない胸当て。
股の間を覆う防具も、最低減の役割を果たしているだけ。
つまり、どこからどう見ても――正真正銘のビキニアーマーの女戦士だ。
さすがお母さんだ。登場から油断ならない。
「ハルナも来てくれたんだ。紹介するね。私のお母さんだよ」
アイリーの声に、僕に腕を絡めたまま同じく呆然としていたハルナが、我に返った。
「は、初めまして。ハルナです。リッキとは、えっと、沢野君とは中学のクラスメイトで」
「あら、りっくんったらいつの間に彼女作ってたのかしら。お母さん全然わからなかったわ」
お母さんとは対照的に装飾を省いた銀一色の全身鎧のハルナが、腕を解いて上ずった声で話し出したのを最後まで聞くことなく、お母さんがさらなる爆弾を投げ込んできた。
黄緑色の髪に乗った、ティアラのような兜。その下にある笑顔が全くの無意識のうちに投げつける爆弾は、防ぎようがない。
「お母さん、ハルナは彼女とかじゃなくて、その」
「はいっ! 彼女ですっ!」
「ちょ、ちょっとハルナ!」
「ハルナさんって言うのね。りっくんをよろしくね」
「こっこちらこそよろしくお願いしますっ」
顔を真っ赤にしたハルナが、深々と頭を下げた。一瞬ふわりと漂った長い黒髪が、下げた頭に遅れてついて行く。
「お母さん、勝手に話を進めないでよ! それにハルナも」
「いいじゃんお兄ちゃん。ハルナの何が不満なの?」
「ふ、不満?」
アイリーの責めの言葉に、僕は思わず右を見た。頭を上げたハルナが、くっつきそうな距離で僕をじっと見つめている。というか、睨んでいる。
「不満なんて、あ、あるわけないじゃないか」
冷や汗を流しながら答える。
心なしか、ハルナの表情がちょっと緩んだ気がした。
でも、この流れはまずい。話題を変えなきゃ。
「そ、そんなことよりなんでお母さんビキニアーマーなんだよ! アイリーも一緒にアバター作ったんだろ? なんで止めなかったんだよ。どうしてこんな格好なんかに」
「だって私がデザインしたんだもん」
「…………は?」
「いやー似合うとは思ったんだけどねー。まさかこんなにハマるとは想像できなかったねー」
アイリーはニヤニヤと笑いながら親指を立てて突き出した。何がグッジョブだよ。
「ねえねえりっくん、お母さんどう? ハルナさんは? ハルナさん的にはどう?」
お母さんは体をちょっと斜めに構えて、腰に手を当てて少し背中を反らせた。いわゆるモデル立ちだ。
「すごく似合ってます!」
即答!?
「……まあとにかくさ、ずっとここでしゃべっているのもなんだから、ちょっとその辺を歩こうか」
少しでも場の空気を変えたくて、僕は街の中を散策することを提案した。
「そうだお母さん、フレンド登録しようよ」
歩きながら、アイリーが右手の人差し指で空間をなぞり始めた。
「あれ?」
少し首を傾げるアイリー。
「お母さん、名前間違ってるよ? これじゃセイカじゃなくてセキアだよ」
僕もフレンドリストを開いて<フレンドの追加>を選び、お母さんの顔に焦点を合わせた。認識されて名前が表示される。
本当だ。お母さんの名前、SeikaじゃなくてSekiaになってる。いくら操作が苦手だからって、自分の名前の入力を間違ってしまうなんて。
「あら、お母さん間違っちゃったのかしら?」
「でも登録した時、私もちゃんと見たよ? ちゃんとSeikaになってたと思うんだけどな……」
アイリーは納得いってないみたいだ。ゲームやパソコンが得意な自分が、名前の入力ミスごときを見逃すはずがない、という自信があるのだろう。
でも、お母さん本人はあまり深く考えていないみたいだ。
「やっちゃったものはしょうがないじゃない。りっくんやあいちゃんだってちょっと名前を変えているんでしょ? だったらお母さんもこれでいいわ」
僕としても、そのほうが好都合だ。
「お母さんさ、その、自分のことをお母さんって言うのやめようよ。お母さん若く見えすぎて全然親子っぽくないしさ。だから今は現実世界のことは忘れて、リュンタルの戦士セキアとして行動するんだ。僕ももうお母さんとは呼ばずに、セキアって呼ぶから」
いくら仮想世界でも、さすがにこのビキニアーマーの女戦士をお母さんとは呼びづらい。それに、お母さんの名前を呼び捨てにもできない。でも、名前がリュンタルのオリジナルのものならば、それほど抵抗はない。
「だから、おか……セキアも、僕のことは」
「わかったわ、りっくん」
わかってない。
「だからその『りっくん』っていうのを」
「りっくん、あいちゃん、お母さん頑張るからね! どんどん悪者をやっつけちゃうわ! さあかかってきなさい!」
腰に下げたレイピアを抜き、高々と天に掲げたお母さん、いやセキア。たぶん「リュンタルのセキアとして行動する」って部分だけしか頭に入っていないのだろう。いくら初心者でも、いきなり街の中で敵の姿もないのに戦闘を始めようとする人はさすがにレアだ。
「セキア、ここは街の中だから、戦闘は起こらないんだよ」
僕はつとめて冷静に説明した。
「あらそうなの? お母さんまた間違えちゃった?」
まだお母さんって言ってるし。
本当に大丈夫なのだろうか、こんな調子で。
◇ ◇ ◇
「やあアイリー……ところで、そちらの素敵なお姉さんはどちら様で?」
アイリーはとにかく知り合いが多い。街を歩いていると、いつも誰かから名前を呼ばれる。ちょうど今も、アイテムを売っている露店の男から声を掛けられたところだ。でも、この男の目線の先にいるのはアイリーではない。セキアだ。
「あいちゃん、この人もお友達なの?」
「うん、友達っていうか……ただの知ってる人」
アイリーは女性に対して下心がある男への対応がやたらと冷たい。
「今はアイテム足りてるから。また来るね」
アイリーは露店の前で立ち止まることなく、セキアと一緒にどんどん先へと歩いて行ってしまった。
一瞬、露店の男の表情がぽかんと口を開けたまま固まった。しかしすぐに立ち直ったようで、
「お兄さん! お兄さん、あの美女、誰なの一体」
アイリーとセキアの背中が小さくなっていくのを見ながら、露店の男が小声で囁いた。
露店の男は見たところ二十代だから、「お兄さん」というのは露店の男から見てということではなく、「アイリーのお兄さん」という意味だ。ソロプレイをやっていた頃と違ってアイリーと一緒にいることも増えたし、アイリーのブログにも何度も登場しているから、僕のことを知っている人が増えてきているみたいだ。
「お兄さんの彼女……じゃないってことは、はっきりしてるみたいだけど」
僕の右腕を、ハルナがしっかり左腕に絡めている。露店の男の判断は、常識的だ。
「うん……初心者の人で、いろいろと教えてあげているところなんだけど」
「おーい、お兄ちゃーん。早くー」
遠くでアイリーが振り向いて手を振っている。
「じゃ、アイリーが呼んでるから、また今度」
「あーっ、お兄さん!」
セキアのことはあまり詳しく訊かれたくないし、なるべくならこっちからも言いたくない。あのビキニアーマーの女戦士が僕のお母さんだと知られてしまうのは、さすがにちょっと恥ずかしい。
僕は露店の男が呼び止めるのを無視して、腕を組んだままのハルナと一緒にさっさと立ち去った。
「アイリー、これからクエストなの? すごい強そうな人と一緒じゃない」
合流すると、また知り合いから話しかけられていた。今度はアイリーと同じ年頃の女の子だ。
「うん、クエストじゃないんだけどね。それとこの人は私のお母さん」
「へーっ、お母さんか……、え、お、お母さん!?」
驚いた女の子は、セキアの頭の先から足の先まで、口を開けたまま何度も首を上下させて見ている。
「アイリー! なんで言っちゃうんだよ!」
「いいじゃん別に。お母さんキレイだし」
「それは……」
それは、そうなんだけど。
セキアがこうやって街の人から注目されるのは、決してビキニアーマーという露出度の高さだけではなくて、美しさにもあるはずなんだ。この女の子だって、セキアの強さなんて全然わかっていなくて、「美しい女戦士=強い」というよくある図式に当てはめているだけだ。
僕はお母さんが大好きだし、お母さんが周りから良く思われることはうれしいんだけど、やっぱりこのビキニアーマーの女戦士がお母さんだというのはちょっと……。
「アイリー、そういう問題じゃ、なくてさ」
「リッキ、こんな素敵な人がお母さんだなんて、私はリッキが羨ましい。もっと誇らしくするべき」
「ハルナまで?」
「あらハルナさん、嬉しいこと言ってくれるわねー。さすがりっくんのお嫁さんね」
「お嫁さんじゃないって!」
「リッキ、私はその……今すぐお嫁さんになってもいいんだけど」
絡めている腕に、ハルナはさらに身を寄り添うように体重をかけてきた。
「ハルナ!? ちょ、ちょっと?」
全身鎧を着ているだけあって、けっこう重い。
「セキアさん、わ、私もお
「ちょっと!? ちょっと待ってハルナ!?」
「アイリーのお兄さん、結婚おめでとう!」
「ち、違うって!」
ハルナの腕を強引に振り解き、僕は一目散に逃げ出した。
◇ ◇ ◇
「ところであいちゃん、クエストって何?」
僕を追いかけてきたみんなとまた合流し、適当に街を歩きながら案内していると、セキアが疑問を口にした。さっきの女の子がクエストって言っていたから、気になったのだろう。
「クエストっていうのはね、用事を頼まれたり、ちっちゃい冒険をしたりして――」
「冒険? いいわね! クエストしましょうよ!」
「クエストする? じゃあ、そうしよっか! お兄ちゃんもハルナも、いいよね?」
ずいぶん気まぐれで決めるんだな。
でも、街の中を歩いていてもやたらと声を掛けられるだけだし、それだったら街の外で戦闘を経験してみるのもいいかもしれない。
結局僕も賛成して、簡単そうなクエストを選び、街の外に出ることにした。
◇ ◇ ◇
『ホワイトワームを倒す』
まず最初にやるクエストの定番といえばこれだ。クエストとはどんなものなのか、戦闘とはどんなものなのかを実際に経験してみる、というのが主な目的だ。その姿形から一般にイモムシと呼ばれているホワイトワームは、一メートルくらいの大きさをしているため現実世界の常識から考えるとものすごく巨大で不気味だけど、『リュンタル・ワールド』においては最弱モンスターの一種でしかなく、どんな初心者でもこのイモムシに負けるということはあり得ない。
僕たちは街の南側を出て街道を離れ、雑草だらけの平原に来た。丈の長い草の陰に、白く大きなイモムシがゆっくりと体をうねらせている。いくら陰に潜んでいるつもりでも、体が大きいから隠れることは不可能で、遠くからでも簡単に発見できる。
一匹のイモムシが、草の陰から這い出てきた。ただでさえ隠せていなかった体が、完全に無防備になる。
「お母さん、あいつを倒すんだよ」
「わかったわ。お母さん頑張るから!」
アイリーに促され、セキアは腰に下げたレイピアを抜き、両手で掴んで真上に振り上げたまま走っていく。そして、
「えーーいっ!」
大きな掛け声と共に、レイピアを振り下ろした。
細い銀の刃が、イモムシの横っ腹に吸い込まれる。
イモムシの白い胴体は真っ二つに分かれ、断面から緑色の体液を噴出させた。直後、頭側も尻側も同時に光の粒子となって消えていった。
ちょっと不格好だったけど、デビュー戦としてはまずまずだ。僕からは見えないけど、セキアの視界にはクエスト完了を知らせるウィンドウが開き、祝福の音楽と共に少額のシルが振り込まれているはずだ。
「あっけないわね」
セキアは不満そうだ。
イモムシは非力な魔法使いが杖で殴っても倒せるくらいの弱いモンスターだ。剣士が剣で斬れば当然、一撃で倒せてしまう。
でもセキアはそういうところまでは知らない。
「あいちゃん、もっと強い悪者はいないの? お母さん物足りないわ」
「じゃあもうちょっと強めのモンスターを倒しに行ってみよっか。ここから近い所がいいよね……イワツノガニでいいかな」
ここからさらに街道を離れて奥に進むと、小さな池がある。その周辺に生息しているモンスターが、イワツノガニだ。
「イワツノガニって魔法使い向きのモンスターだろ? セキアには合わないんじゃないかな」
イワツノガニはイモムシと比べれば大きさは半分くらい。でも五十センチくらいの大きさの甲羅はその名の通り大きな突起が生えていて、現実世界のカニにはない威圧感を与える。防御力も高い。甲羅同様にゴツゴツした両腕は一方がハサミ、一方がハンマーとなっていて、カニだというのに飛び跳ねながらその両腕で二種類の異なる攻撃を仕掛けてくる。
ただし、魔法攻撃には弱い。打撃が効きにくい固いモンスターには魔法攻撃が有効、というよくあるパターンに則っているあたりはやはりザコモンスターだ。
「大丈夫だって。いざとなったら私が魔法でサポートするし。それに、お兄ちゃんだったら簡単に倒せるでしょ? ハルナは……まだ一撃は無理かもしれないけど」
いくらイワツノガニの防御力が高いといっても、あくまでもザコモンスターレベルでの話だ。アイリーの言う通り、僕なら剣を一度軽く振っただけで倒すことができる。ハルナでも繰り返し攻撃すれば倒せるはずだ。
「じゃあ、私とセキアさんで協力して倒せばちょうどいい感じ?」
「あー、そうかもしれないね。セキアも連携の練習になるからいいんじゃないかな」
「わかったわ、りっくん。ハルナさんも一緒に頑張りましょう!」
「はいっ! 頑張りますっ!」
ハルナはセキアに話しかけられると、どうしても緊張してしまうみたいだ。話している言葉に妙に力が入ってしまっている。
「ハルナ、もっとリラックスして」
「だって、リッキのお母さんにダメな女だと思われちゃったら、将来に影響するし」
「将来とか考えなくていいから!」
◇ ◇ ◇
歩き進むにつれ、雑草だらけだった風景に岩が混じっていく。
「セキア、レイピアは刺突に向いた武器なんだ。さっきはイモムシだったからよかったけど、イワツノガニにレイピアを振り下ろしたら折れてしまうかもしれない」
「わかったわ。もうちょっと優しくすればいいのかしら?」
「いや、だから刺突で」
歩きながらセキアと戦闘について話しているんだけど、どうしても噛み合わない。
「それと、イモムシと違ってイワツノガニは向こうから襲ってくることもあるから、ちゃんと防御も考えて」
「殺られる前に殺る、ってことね!」
急に険しい顔になるセキア。
「……いや、あのねセキア」
「大丈夫だってお兄ちゃん。お母さんはお母さんなりに楽しめばいいんだから」
「うん、まあ……そうだけど」
たぶん、セキアに細かいことを教えても無理だろう。アイリーが言っていることも、暗にそれを意味している。
「お兄ちゃんは黙って見守ってればいいから……あ、ほらお母さん、あの池だよ」
アイリーが指差した先に、岩に囲まれた池が見えてきた。
セキアは池を眺めている。
「あいちゃん、悪者はいないみたいだけど?」
「お母さん、ここにいるイワツノガニっていうモンスターは、保護色になっていて見つけにくいの。だから近くまで行って見ないと」
「わかったわ。行くわよ!」
セキアはアイリーのアドバイスを聞いていたのかいなかったのか、いきなり走って突撃していった。それに、またレイピアを両手で握って頭上に振りかざしている。僕のアドバイスもまるっきり無視だ。
「私も行かなきゃ!」
ハルナも剣の柄に手を掛け走って行き……立ち止まった。
セキアが振り下ろしたレイピアが、ハサミを振り上げたイワツノガニの甲羅を真っ二つに割った。その直後、セキアは左手を離し右手だけでレイピアを握り直す。右から飛び跳ねてきたイワツノガニを、右腕を水平に振って横から薙ぎ払う。その後方から続けて襲ってきたイワツノガニの腹を串刺しにし、そのまま左を向いてレイピアを振った。串刺しにされたイワツノガニがその勢いで飛んで行き、左で待ち構えていたイワツノガニに命中。甲羅が砕け散る。振り下ろしたレイピアを池の正面を向きながら振り上げると、ちょうど池の中から飛び跳ねたばかりのイワツノガニが両腕を失った。落下したイワツノガニを、セキアは踵で踏みつけた。命を失ったイワツノガニたちは光の粒子となり、セキアの周囲を彩った。
様子を窺っていた残りのイワツノガニは、周囲の岩に体を同化させ、姿を隠した。
「だらしない奴らね」
セキアはレイピアを鞘に収めた。
戦闘は終わった。
ハルナだけではない。僕もアイリーも、その一瞬の光景にただ立ち尽くすしかなかった。
セキアが戻ってくる。
「あいちゃん、もっと強い悪者はいないの?」
後ろ髪をサラリと掻き上げながら、イモムシを倒した時と同じことをセキアはまた言った。言葉は同じだけど、今のほうが語気が強い。ちょっとイライラしている感じがはっきりと伝わってくる。
「うん……ちょっと探してみるね。ハルナとおしゃべりでもして待ってて」
アイリーは僕の腕を掴んだ。そのまま僕を引っ張って行って、少し離れた場所で止まった。
「お兄ちゃん、もっと強いモンスター探して」
「お、おい、アイリー、なんかおかしいだろこれ」
初心者がイワツノガニを一撃で斬り捨てることなんて、ありえない。
それに、あの身のこなし。プレイヤー自身に剣術の心得があるなら、現実世界で会得した動きをアバターに反映させることは可能だ。でもセキアのプレイヤーは普通の人間、僕のお母さんだ。
「おかしいのはわかってる。お父さんに相談してみる。でもお母さんにはリュンタルを楽しんでもらいたいから、このことは黙ってて」
「おかしいってわかってるんだったら、ひとまずログアウトするべきなんじゃないのか? ちゃんと問題が解決してからまたログインすれば」
「せっかくお母さんが楽しんでるのに、中断なんかできないって。それに、お母さんにどうやって説明するの? 『お母さんがモンスターを倒したのは間違いでした』とか、私言えないよ」
「それはまあ……僕だって、言えないさ。そんなの」
「だったらお兄ちゃんは次のモンスター探してね。ちょっと高いレベルとかじゃなくて、うんと高いやつ」
「おい! アイリー!」
アイリーは僕から体を背けて、お父さんに送るメッセージを打ち始めた。
僕は離れた場所にいるセキアに目をやった。笑って楽しそうに話している。
それに引きかえハルナはやっぱり緊張しているみたいだ。見た目は背が高くて全身鎧のハルナのほうが存在感があっていいはずなのに、実際は逆に感じる。
このままで、いいのだろうか……。
「あー、やっぱりね」
アイリーが呟いた。
「やっぱり、あのゴーグルの影響みたい。ゴーグルがきちんと対応しきれてなくて、バグが出てるんじゃないかって」
「だったら簡単じゃないか。新しいゴーグルにすればいいんだから」
「でも、お父さんはやめるようにとは言ってないし、とりあえずこのまま行こうよ。私、お母さんが活躍するの、もっと見たいし。お兄ちゃんはどう? 剣士の目から見たお母さんは」
「うん……完璧だったとしか言いようがない」
さっきのイワツノガニとの戦闘は、まるで熟練の剣士のように無駄のない美しい動きだった。あんな剣士とパーティを組んで一緒に戦えるなら最高だ。
バグのせいじゃなければ、だけど。
でも、実際にあれだけの動きができる剣士なんてそう簡単にはいない。一緒に戦う機会があるとしたら、それが今なのだろう。
どうしたらいいんだろう。悩むなあ……。
「あいちゃん、次の悪者は決まった?」
いつの間にかセキアとハルナがこっちに来ていた。
「うん。大丈夫」
アイリーが肘で僕を横から突っつく。
僕は膝を曲げて、アイリーに耳打ちした。
「ごめん、考えてなかった」
「いーからなんとかして!」
アイリーも小声で囁く。
この近くとなると、あそこしかないけど……。
「ここから先にダンジョンがあるんだ。そこに行こう」
僕は不安を取り繕うように笑いながら言った。
◇ ◇ ◇
平原を埋め尽くしていた雑草は、もうここには生えていない。土と小石の地面に、体を隠せるくらいの大きさの岩がところどころに転がっている。さらに進めば岩の数もどんどん増えて、そこを棲み家としている身長一メートルくらいの醜い魔人の群れに出くわすことになる。本物のリュンタルから帰ってきた数日後に、
でも、今目指している場所はそこではない。
僕たちは、転がっている大きな岩の中でも特に大きな岩の前に来た。僕だけではなく、四人全員が身を隠せるくらいの大きさだ。
自然な形をしたでこぼこの岩だけど、一部分が磨いたように綺麗な平面になっている。掌くらいの大きさの、正方形の平面だ。
軽く指先で触れると、平面にくぼみが現れた。黄色く縁取られた、三角形のくぼみだ。
僕はアイテムリストを開いて黄色い三角形の希石を取り出すと、そこに嵌め込んだ。
すると、この大きな岩が、ゴゴゴゴという大きな音と振動と共に少しずつ真横に動いていった。それと同時に、岩があった地面に穴が姿を現し、徐々に大きくなっていく。岩の動きが止まった時、穴は人が通るには十分な広さになっていた。
穴に掛かっているはしごをひたすら降りる。底に到着すると、その先は横穴が伸びていた。横穴の幅は、四人が横一列になってもまだ余裕があるくらいの広さだ。周囲の岩壁は青白く光っていて、地上と比べれば少し薄暗いけど照明が必要なほどではなく、視界は悪くない。
「セキア、これまではセキアが一人で戦っていたけど、このダンジョンは危険だからパーティで戦おう」
「パーティ? なんだか楽しそうね! でもどうしてこんな薄暗いところでパーティをするの? もっと明るいところですればいいのに。それにテーブルとかお食事も用意しなきゃ」
「お母さん、そのパーティじゃなくて」
アイリーがパーティについて説明を始めた。
「一緒に戦う仲間のことをパーティって言うんだよ」
「あらそうだったのね。お母さん全然知らなかったわ。りっくん、あいちゃん、ハルナさん、みんなで仲良く悪者を倒しましょうね!」
パーティについての勘違いについてもさることながら、戦闘を「みんなで仲良く」って……。「しっかり連携して」という意味の、セキアなりの言い方なんだろうけど。
アイリーがパーティの設定をして、僕とハルナがそれに加わった。セキアは、視界に開いたウィンドウの
――パーティに参加しますか? <はい> <いいえ>
という表示の<はい>をタッチすればいいだけだというのになぜかアイリーの熱心な指導を受け、ようやく操作を終えてパーティに加わった。
僕たちはダンジョンの奥に向かって歩き出した。
「セキア、ダンジョンでは死角から突然モンスターが出現することがあるから、よく注意しながら進むんだ」
「わかったわ、りっくん」
セキアは僕のことをりっくんと呼ぶことをやめない。それに、モンスターの出現に気を配る様子もない。街の中を歩くのと同じ調子で、どんどん先へと歩いている。襲われることなんて全然頭にないみたいだ。どんなに「お母さんではない。セキアだ」と思っても、やっぱりお母さんはお母さんだ、と思わせられてしまう。
「ところでりっくん、さっきのタッチパネルみたいなのは何? なにか黄色いのをセットしていたけど」
「あー、あれは希石って言って、いろんな色と形の石があるんだ。今は黄色い三角形だったけど、このダンジョンはランダムで違う希石が入口のカギになっていて……セキア、注意して」
この先の道が十字に分かれている。モンスターが現れるポイントだ。僕はこのダンジョンにはテストプレイの時に来ているから、モンスターの特徴は把握済みだ。
僕は一旦立ち止まり、右腰に下げた剣の柄に左手を添えた。しかし、
「ちょっ、セキア?」
セキアはそのまま平然と歩いて行く。全くの無防備だ。
まずい。
十字路の右側から、四枚羽のコウモリが襲ってくるはずだ。
このままでは攻撃を食らってしまう!
「くそっ!」
僕は剣を抜き、走り出そうとした。
ヒュンッ!
僕の足を、銀のムチが奏でた空気を切り裂く音が止めた。
いや、ムチではなかった。
セキアが一瞬のうちに抜いたレイピアが、その姿を見せる間もないほどに素早く、襲ってきたコウモリを切り裂いていたのだ。銀のしなやかな軌跡が残像を残す中、セキアはレイピアを鞘に収めた。
ずっと前を見たまま、歩く足を止めることすらせず、ただ右腕だけを動かして一瞬の戦闘を終わらせたセキアはそのまま数歩歩き、ふと気がついたように、
「どうしたのみんな? 先へ行くわよ?」
振り返って、足が止まっていた僕たちを呼んだ。
「う……うん、行こうか」
僕はなんとか喉の奥から声を出した。歩きかけてから、ふと剣を抜いていたことを思い出し、鞘に収め、また歩き始めた。
その後も、セキアは無敵だった。
突然目の前の地面に穴が開いてモグラ型のモンスターが襲ってきても、巨大ムカデや巨大ミミズが襲ってきても、全て一瞬のうちに戦闘を終わらせた。テストプレイと違って僕が把握していないポイントでモンスターと遭遇した時もあったけど、全く問題なかった。セキアが先頭に立ってモンスターを瞬殺してしまうので、後ろに続く僕たちはどんなモンスターが出現したのかよくわからないまま光の粒子だけを見る、なんていうこともあった。
ついに僕たちはダンジョンの最奥部、ボスモンスターが待つ大広間に到着した。
大広間の奥の壁を背にして待っていたのは、身長十メートルの赤い巨人。
筋骨隆々の肉体。腕一本が僕の体よりはるかに太い。右手に斧、左手に盾。
頭には牛のような二本の白い角が生えた兜。首や肩の周りもしっかり防具で覆われている。逆に、手足や胴体はむき出しだ。
僕たちに気づいた巨人が、一歩踏み出す。地面が響き、岩壁も揺れる。巨人の赤さが、岩壁の青白い光に完全に勝っている。
「お兄ちゃん、ここ来たことあるんでしょ? あいつどうやって倒すの?」
「なんだよ。ネタバレを知りたがるなんて、アイリーらしくないな」
攻略よりも楽しむことを優先するのがアイリーのスタイルだ。一緒に遊ぶようになってまだそんなに経っていないとはいえ、僕に攻略情報を訊いてきたのはこれが初めてだ。
「だってしょうがないでしょ! 普通に戦ったら死んじゃうよ!」
「アイリーがうんと強いモンスターを教えろって言うから、ここに来たんじゃないか」
「それはそうだけど……さすがにこれはやりすぎだよ」
「二人とも、何をこそこそしているの?」
セキアは冷たく言い放つと、レイピアを抜いた。
「行くわよ!」
巨人に向かって突撃していく。
「ダメ、お母さん、待って!」
アイリーの叫びは耳に届いているはずだけど、セキアは止まらない。
僕は巨人の頭を見上げた。
「弱点は角だ。あの兜の角を二本とも折れば兜が壊れて頭がむき出しになる。額に宝石があって、それを砕けば死ぬ」
「あんな高いところ? どうやって攻撃するの!」
アイリーは苛立ちを隠せない。
「……前にテストプレイで来た時は、スタッフの人たちとパーティ組んでたんだよ。六人で」
僕はハルナを横目でちらりと見た。
ここから先は未公開の情報だ。言っていいものか。
でも、今のハルナなら聞いても大丈夫かな。
「その中に一人、翼がついた靴を履いている人がいたんだ。他の五人が注意を引きつけている隙に、空中を飛び跳ねて頭の上まで行って、雷撃を纏った剣で角を斬った」
「そんなの無理じゃん!」
ドオン!
巨人がまた一歩踏み出す。
巨大な右腕を振り上げ、一人で突撃してきたセキアを頭から真っ二つにすべく、斧を振り下ろす。
セキアは直前に左にジャンプ。空を斬った斧が地面を抉る。
「ああもう私見てらんない!」
アイリーも走り出す。杖の先が炎の玉を発し、巨人の頭を目がけて飛んで行く。炎は巨人が掲げた盾に当たり、消滅した。
「リッキ」
アイリーと違い、ハルナは意外と落ち着いている。
「私、絶対あんなのと戦えない。無理」
無表情な顔から、抑揚のない声が出た。
やけに冷静だと思ったら、最初から諦めていたのか。
とはいえ、それで正解だ。ハルナの攻撃力では傷一つ与えることもできない。
「でも、囮になるくらいはできる。あいつの目を私に向けさせるから、その間にリッキが攻撃して」
「そんな危険な役目なんてさせられないって! ハルナは攻撃食らわないように後ろにいてくれればそれでいいから」
「じゃあどうしろって言うの! 私それくらいしかできない! 私も役に立ちたい!」
さっきまでの冷静さはどこへ行ったのか、ハルナは急に感情を昂ぶらせた。
「ハルナ、落ち着いて。とにかく今は後ろにいて自分の――」
自分の身を大事にして、と言葉を続けることを忘れてしまった。
僕の目は、セキアに釘付けになっていた。
横から薙ぎ払う斧を後方にジャンプして回避。斧が通りすぎた瞬間、巨人の足元へ飛び込んで右足を斬りつけた。巨人が反応して右足を振り上げる。セキアは飛び退いて回避するも巨人の爪先がかすり、空中で体勢を崩し背中から落ちた。巨人は振り上げた右足でセキアを踏み潰そうとした。しかしアイリーが飛ばした炎の玉を盾で防ごうとして一瞬足の動きが止まった。その隙にセキアは巨人と距離を取り、体勢を立て直した。
「僕も行ってくる! ハルナは絶対に来ちゃダメだ!」
「リッキ! 私も――」
僕は最後まで聞かずに駆け出した。今のハルナにできることは何もない。ハルナならわかってくれるはずだ。
「セキア!」
僕はセキアと並び、剣を構えた。
僕が隣に来ても、セキアは巨人から目を逸らさない。
「なかなか手ごわいわね」
低く押し殺した声。
「これまでのやつらとは違って、戦い甲斐があるわ」
巨人を見つめる、冷たい眼光。
いつものお母さんからは、全く想像できない。
なんだか背筋がゾクゾクする。
「セキア、弱点は角だ。あの兜の――」
巨人が斧を振り上げた。
僕は左に、セキアは右に分かれて跳んだ。その間を斧が切り裂き、地面に激突した。土煙が舞い上がり、振動で地面が揺らぐ。斧で何度も抉られた地面はでこぼこだ。うっかり足を取られないよう、足元に気を配る。
巨人が斧を引き抜き、土煙が晴れていく。その向こうで、セキアは十メートルの高さにある巨人の頭を見上げていた。
「リッキ! 次に今の攻撃が来たら、一人でやつの注意を引きつけてくれ! アイリーは引き続き後方から魔法攻撃を! その間に私があの角を斬る」
お母さんらしさがないとか、それどころの話じゃない。
僕が今見ているのは、完全にお母さんとは別人の、戦士セキアだ。
でも、これもひょっとして、バグのせい……?
興奮の中に不安がまじり、迷いが生じる。
「避けろ! 来る!」
セキアが僕を見て叫んだ。
反射的に後ろに飛び退く。
それと同時に、巨人の斧が目の前を左から右へ通り過ぎて行った。
血の気が引き、体が震える。
「気を抜くな!」
セキアが僕を怒鳴りつけた。
僕は心の中で自分をあざ笑った。
僕のほうから「リュンタルの戦士セキアになれ」なんて言っておいて、いざ実際にそうなったらそれに怯えている僕がいる。
僕が望んだことなのに。
「また来る!」
セキアが叫んだ。
巨人が斧を振り上げようとしている。
巨人の斧攻撃は真上から振り下ろすか、横から薙ぎ払うかの二通りしかない。
今度は――。
どうやら、余計なことを考えている場合ではないようだ。
「セキア、任せろ。主役はセキアだ。喜んで使われてやるさ」
セキアにどんな策があるかは知らない。でも信じる!
「こっちだ!」
僕はわざとらしく剣を振り上げた。
巨人が僕を睨む。
僕は右側に流れるように動いた。巨人の左足を狙うためだ。ちらりとアイリーに目配せして踏み込む。アイリーは炎の玉を巨人の頭に飛ばした。巨人は左手の盾を掲げて防いだ。これで僕の攻撃を盾で防ぐという選択肢がなくなった。僕はさらに踏み込み、巨人の左足を斬りつけると見せかけて退いた。攻撃してしまうと巨人は蹴りで反撃しようとする。僕はいつでもまた攻撃に行けるぞという微妙な距離で間合いを取った。
巨人は次の攻撃対象を僕に決めたようだ。
振り上げた斧が動き始めた。
巨人の動きはそんなに俊敏ではない。気をつけていれば、絶対に躱すことができる。
斧が真上から近づいてくる。僕は右に跳んで躱した。
斧は空を斬り、地面に突き刺さった。
その直後。
静かにこの時を待っていたセキアが、左側から駆け込んできた。
斧を握る巨人の右手を踏み、一気に右腕を駆け上がった。右肩まで到達すると、兜の右角の根元めがけてレイピアを振った。
キイイイィィィンッ!
甲高い音が鳴る。
角がレイピアを弾いた音だった。
セキアは角を見ている。これまで全ての戦いを一撃で終わらせてきたセキアだ。攻撃が弾かれるという初めてに経験に戸惑っているのかもしれない。
しかし、それも一瞬だった。
キイイイィィィンッ!
また甲高い音が鳴り響く。
二度、三度、何度も何度も、セキアはレイピアを振り続け、甲高い音が鳴り響く。
さすがに巨人も無反応ではない。地面に突き刺さったままの斧を手放し、肩の上に乗っているセキアを掴もうと手を向けた。
「はああああああっ!」
セキアの渾身の一振り。
角が、折れた。
直後、巨人の手が肩の上で空を掴んだ。セキアは寸前でジャンプして回避していた。
跳ね飛んだ角が、青白い岩壁を背景に白い弧を描きながら落下していく。
巨人の攻撃を回避したセキアは、そのまま地面に降りた。
「一本ではダメなのか」
巨人がダメージを負った素振りを見せないのを見て、セキアが呟きを漏らす。
「ああ。二本とも折れば兜が割れる。現れた額の宝石を砕けば、巨人は死ぬ」
「ちぃっ!」
セキアが舌打ちした。
少し安心した。早とちりはお母さんの得意技だ。セキアは僕の説明の最初だけを聞いてそれが全てだと思い込んでしまったのだろう。やっぱりセキアはお母さんだ。
ドオン!
巨人が一歩、前に出た。
それに合わせて、僕とセキアは数歩下がる。
ドオン! ドオン!
巨人がどんどん前に進む。その度に地面が揺れ、岩壁が響く。
僕とセキアもそれに合わせて下がり、後方にいたアイリーと合流した。
「お兄ちゃん! こいつ、こんなに動くやつなの?」
「いや、知らなかった。僕も初めて見る」
巨人が右腕を振り上げた。
斧は地面に突き刺さったままだ。巨人は拳で僕たちに殴りかかってきた。左から右に来た巨人の拳を、後ろに跳んで躱す。
巨人はそのまま右から左へ裏拳を放ってきた。素早い攻撃だったけど、さらに後方に下がって際どく躱す。
角が一本になってから、明らかに行動パターンが変わった。斧を手放した右腕も、かなりスピードアップしている。さっきと同じやり方でもう一本の角を折ることはできなさそうだ。
そして。
頭上からくる巨人の攻撃に、僕だけでなく、セキアもアイリーも、気を取られていた。
足元を這う物体が僕たちを通り過ぎていったことに、気がつかなかった。
「リッキ! 何か来る!」
大広間の入り口近くで待機していたハルナが叫んだ。
振り向くと。
まるで海面に突き出たサメの背びれのように地面を移動する、尖った白い物体。
あれは……さっきセキアが折った角だ!
角は音もなく、確実にハルナへと迫っていく。
ハルナは得体の知れない相手に向けて、ぎこちなく剣を向けた。
剣先が震えている。
いつもは僕が見守っていて、いつでも助けに入れる状況での、練習のような戦闘だった。本格的な実戦に、ハルナはまだ遭遇したことがない。ハルナはしっかりしているようで緊張すると意外と舞い上がってしまいがちだし、角の動きも不気味だ。助けに入ったほうがよさそうだ。
「ハルナ! 今行く」
「待てリッキ! 行くな!」
セキアが僕を止めた。
「どうして!」
巨人と戦わなければならないのはわかっているけど、ハルナだって放ってはおけない。
角はハルナに近づき――姿を変えた。
一メートルくらいの小さな人間――魔人だ。
ナイフを手にした魔人がハルナに襲いかかる。
「ハルナ!」
ハルナはナイフを剣で受け止めた。小さな体の魔人が押している。体は小さくても、魔人の強さはクークーよりはるかに上だ。ハルナは防御だけで精一杯だ。
「ハルナ、待ってろ」
「行くな!」
一歩駆け出した僕は、巨人を見据えたままのセキアに腕を掴まれた。
セキアは巨人から気を逸らすことなく、横目でハルナに目をやった。
「ハルナ、お前も戦えるな?」
セキアの大きな声が、大広間に響く。
ハルナはナイフを受け止めていた剣を大きく振った。その勢いで魔人が後方によろめいた。
「はい! 戦えます!」
ハルナはしっかりと魔人を見据え、剣を構えた。剣先はぴたりと魔人に向けられている。さっきとは違い、怯えや迷いは感じられない。
セキアは掴んでいた僕の腕を離した。
「リッキ、相手を間違えるな。自分がやるべきことを正しく認識しろ。そして、仲間を信じるんだ」
巨人はさらに一歩踏み込み、拳を振り下ろす。僕とセキアは左右に、アイリーは後ろに分かれて回避した。
参ったな。
セキアは一人の戦士としてだけではなく、指揮官としても優秀だ。
「……セキア、次はどうする?」
セキアは横目で僕を見た。
「歩き始めたのが運の尽きだ。そう思わないか?」
「同感だ」
大広間の奥にいた時と違い、巨人が歩き始めてから生まれた弱点。
セキアの考えも、僕と同じのようだ。
すでに巨人は大広間の中央まで来ている。もう僕たちの攻撃から逃げられない。
「リッキは巨人の攻撃がアイリーに届かないよう気をつけて。アイリーも無理せず早めの回避を心がけるように」
「了解!」
「うん。わかった」
二人の返事を聞いたセキアが、するすると離れていく。
僕はまた、わざと巨人の目につくように剣を振り上げた。
巨人は僕を殴ろうと右腕を振り回す。しかしアイリーが飛ばす炎の玉を左手の盾で防ぎながらなので、スムーズな動きができない。巨人はイライラしてきたようだ。右腕は素早く動いているものの、腕の振りはかなり雑になってきた。それに、もう僕と炎の玉しか見ていない。
逃げる僕を攻撃するために、巨人はさらに一歩踏み出そうとした。
しかし、その足が前に出ることはなかった。
「はああああああっ!」
巨人の背後に回ったセキアが、足首を斬りつけた。
「グオオオオオオオオオオオオオォッ」
巨人が吠える。
セキアはさらに斬りつける。
大木を斧で切り倒すように、足首の傷の上からさらに斬り、深くなった傷を更に深く抉る。傷から滲み出る血が斬りつけるたびに飛び散り、セキアの肌を赤い点で汚す。
そしてついに。
セキアはレイピアを振り抜いた。
巨人が大広間の奥にいた時は、背後が壁だったから、正面から攻撃するしかなかった。
しかし歩き始めたことにより、背後が空いてしまった。
巨人が行使した機動力は、致命的な防御の欠陥と隣合わせだった。
そのことに、僕とセキアは気づいたのだった。
巨人の右足首から先が切り離された。
当然、巨人は立っていられない。
右膝をつき、さらに右手をついた。
セキアは巨人の背中に飛び乗った。そのまま肩まで登り、兜の角に斬りつけた。
キイイィィ…………ン
レイピアは根本から折れてしまった。
剣身が回転しながら宙を舞い、落下していく。
本来刺突向きであるレイピアでさんざん斬りまくったせいで、剣身がダメージを負ってしまっていた。その影響が、肝心な時に出てしまったんだ。
だったら。
僕はアイテムリストから剣を一本取り出した。
<両利き>のスキルを活かすために持っている、もう一本の剣だ。
これをセキアに渡せばいい。
巨人の左肩に乗っているセキアに投げようとしたけど、巨人が盾で阻止しようとする。それを見たアイリーが左側に移動し、炎の玉を飛ばす。巨人は体をひねらせて左手の盾を掲げて防いだ。
巨人の左肩の裏側が、こっちに向いた。巨人が体勢を変えたせいで、セキアの体が少しぐらついている。
僕は鞘に収まったままの剣を投げた。
セキアが手を伸ばす。
届いた!
キイイイィィィンッ!
受け取った瞬間にはすでに、セキアは剣を鞘から抜き、角に打ちつけていた。
巨人は角を折られまいと、地面についていた右手を離して体を起こした。左肩に乗るセキアを右手で掴もうとする。セキアは右手の攻撃を迎え討つため、角への攻撃を中断せざるを得なかった。
このままではまずい!
「アイリー! 足元を狙うんだ!」
僕の指示に合わせ、アイリーが巨人の足元に炎の玉を放った。今の巨人は体勢が低いし、足を自由に動かすこともできない。巨人は盾を地面に置くように低く構えて炎の玉を防いだ。
それと同時に、僕は動いた。
盾を持つ巨人の左腕に飛び乗り、そのまま駆け上っていく。
「セキア! 巨人の相手は僕に任せろ!」
走ってきた勢いでセキアの前に出て、巨人の右手を斬りつけた。
キイイイィィィンッ!
僕の背中で、再び甲高い音が響き始めた。
巨人の五本の指が迫る。
絶対にセキアに触れさせるわけにはいかない。
僕は左手に持った剣を握りしめ、ひたすら振り続けた。
そして。
「ふんっっ!」
セキアは角を掴み、もぎ取ってしまった!
同時に兜にヒビが走り、木っ端微塵に砕け散る。
髪の毛がない頭が露になった。
「セキア、額の宝石を」
「わかっている!」
セキアは巨人の頭の上に乗ると、剣を放り投げた。そしてもぎ取った角を両手で掴み、頭上に掲げた。
「やああーーーーーーーーーっ!」
赤い巨人の額に光る、丸く青い宝石。
その中心に、掴んだ角を振り下ろした。
角が宝石を砕き、深く深く突き刺さった。
「グオオオオオオォォ……」
巨人の絶叫は、長くは続かなかった。
その途中で命を失った巨人が、光の粒子と化す。
足場を失った僕とセキアは、体勢を崩しながらも光の粒子に包まれて着地した。
そして、光の粒子が消えていくのと同時に、セキアが浴びた返り血も消えていった。
「やったね!」
アイリーが駆け寄ってくる。
一人だけで。
「そうだ! ハルナは?」
大広間の入り口付近で戦っているはずのハルナに目をやる。
ちょうどハルナが大きく剣を振り抜いたところだった。それによって魔人のHPはゼロになり、魔人もまた光の粒子となって消えた。
戦闘を終えたハルナが、こっちに走ってくる。
どんどん近づいてきているのに、減速する気配がない。
なんだか嫌な予感がする!
僕は危機に備えて身構えた。
「セキアさーん!」
ええっ!?
ハルナは走る速度を全く緩めることなく、そのままセキアに飛びついた。
僕のところに来ると思っていたのに!
セキアは体を揺るがすこともなく、自分より背が高いハルナをしっかりと受け止めた。
「私、セキアさんに励まされて初めてちゃんと戦うことができた! セキアさんのおかげで初めて一人前の、えっと本当はまだ未熟だけど、でも戦士として、その、とにかく自信が持てた! 全部セキアさんのおかげです!」
「よく頑張ったな」
抱きしめ合う、ハルナとセキア。
「それに引き換え!」
ハルナは腕を解くと、その腕を僕に向けてビシッと指差した。
「リッキは教えるのがヘタ! 説明がヘタ! 指導がヘタ! とにかくヘタ!」
「ええっ、なんだよそれ」
いきなりそりゃないだろ!
そもそもセキアがハルナに何を教えたって言うんだよ!
さすがに黙っちゃいられない。
「ハルナのほうから教えてくれって迫ってきたんじゃないか! 確かに説明は下手だったかもしれないけど、でも僕なりに頑張って」
「リッキはもういい! これから私はセキアさんについて行く!」
「いや、ちょ、ちょっと待って」
もともと剣の先生なんてやりたくてやっていたことじゃないけど、さすがにこう断罪されると堪える。
「あっはははははははははははははは」
アイリーがおなかを抱えて爆笑している。
「お、お兄ちゃん、かわいそうすぎる」
「アイリーまで!」
「お兄ちゃん、悲しいことはもう忘れて、大事なことを思い出し……あははは」
「まだ笑ってるし!」
でも、次にやることは、アイリーが言った通りだ。
僕たちは大広間の奥、巨人が最初にいた場所に進んだ。
巨人を倒したことで、ただの壁だった場所に両開きのドアが出現している。
僕はドアを開いた。
ドアの向こうの小部屋。
埋め尽くしているのは、白く輝く大量の銀貨。
「すごーーい!」
聞き慣れた声が聞こえた。
「りっくん、あいちゃん、これみんなお金なの? みんなもらっていいの?」
「セ……セキア?」
「こんなにたくさんあるんだから……そうね、今日の晩ご飯、どこかレストランでも行きましょうよ!」
「……………………」
さっきまでのカッコいいセキアは、すっかり消え失せてしまった。
今僕の目の前にいるのは、戦士セキアなんかじゃない。
ただのビキニアーマー姿のお母さんだ。
「お母さん、これ、ゲームのお金だから」
「えっ?」
アイリーの冷静すぎるツッコミに、きょとんとするセキア。
直後、銀貨が姿を消した。
視界の右上に表示されているシルの数字が回っている。
「大変! お金が消えちゃった!」
「セキア、この世界ではお金はデータなんだ。データの数字をやり取りするだけ。さっき見た銀貨の姿は視覚効果として存在しているだけなんだよ」
「……………………?」
僕の説明を聞いて、またセキアはきょとんとしている。
「お母さん、どんどん増えている数字が見える? さっきのお金は貯金したの。その金額を、通帳みたいな場所に今書いているとこだから。でもゲームの中での貯金だから、ゲームの中でしか下ろせないの」
「なるほど! そういうことなのね!」
なんでアイリーが言ったことならわかるんだ!?
「リッキ、リッキ」
ハルナが小声で囁いた。そして僕の腕を掴むと、
「その……さっきはごめんなさい。やっぱり私、セキアさんにはついて行けない」
「うん、まあ……やっぱりそうなるよね」
僕だってセキアの指揮の下での戦闘は楽しかったけど、すっかり元のお母さんに戻ってしまったセキアと一緒に戦うのは、さすがに大変そうだ。
「やっぱりリッキについて行く。ずっとついて行く。もちろんリュンタルだけじゃなくてリアルでも、一生ついて行くから」
「なんでそうなるの!?」
「だってセキアさん公認だし!」
「僕は? 僕の意思はどうなるの?」
「今さら確認しなければならないような仲だったっけ?」
「確認しようよ!」
「りっくん、ハルナさん、仲良くおしゃべりしているのにごめんなさい」
セキアがなんだか深刻な顔でこっちを見ている。
まさか、僕とハルナとの仲をやっぱり認められないとか?
いや、別に認めてもらいたいとかもらいたくないとか、そういう関係じゃないけど。
でもなんか……認められないとか言われたら、やっぱり寂しい。
僕の腕を掴むハルナの手に、力がこもる。
セキアの……いや、お母さんの口が、開いた。
「そろそろ晩ご飯を買いに行かなきゃならないから、今日はこれで終わりにしていいかしら?」
「「…………はい?」」
「だってレストランには行けないんでしょ? だったらお買い物に行かなきゃ」
「うん……そうだね」
時刻表示に目をやる。
もうそんな時間になっていたのか。
バグは気になるけど、結局は楽しすぎた。時間が経っていたことに気がつかなかった。
「ハルナさんも、今度うちにいらっしゃいよ! 泊まっていってもいいのよ! ちゃんとお部屋用意してあるから」
「と、泊まって、って、いえいえそんな」
「ごめんなさいね、本当はりっくんと一緒のお部屋がいいんだろうけど、あんまり広くなくて」
「お母さん! もういいから!」
これ以上お母さんをしゃべらせるわけにはいかない。
僕は強い口調でお母さんを咎めた。
「い、い、一緒の部屋で……泊まる……」
ハルナは顔を真っ赤にして、口をパクパクさせているけど言葉が出てこないでいる。
「ハルナ、だ、大丈夫? なんか、余計なこととか、考えなくていいから」
「お兄ちゃんこそ何を考えてるの? お兄ちゃんの部屋でハルナと二人っきりで――」
「考えてないって!」
「あははは、お兄ちゃんも顔真っ赤だし」
「アイリーがくだらないこと言ってるからだろ!」
そうは言っても、本当はちょっと、考えなかったこともなかった、けど。
◇ ◇ ◇
帰りが遅くなることが多いお父さんだけど、今日は普通に帰ってきた。さすがに今日の出来事は見過ごすわけにはいかなかったようで、詳しい話を直接僕たちから聞きたかったからだ。
「それにしても、よくこんな古いの残ってたな。これ、『リュンタル・ワールド』を作り始める前に使っていたやつだよ」
夕食を囲んでの話題は、当然今日の『リュンタル・ワールド』でのお母さんについてだ。お父さんは時折箸を置いてはゴーグルを手に取って眺めている。
古いゴーグルだろう、というのは愛里の見立てから予想していたことだったけど、実際にお父さんがそう言ったことで、本当だったことがこれではっきりした。
僕は肉じゃがやきんぴらごぼうを食べながら、今日のお母さん、いやセキアのことを詳しく話した。愛里も大皿のトマトオムレツを切って取り分け、おかかのふりかけご飯と交互に食べながらセキアの活躍を熱く語っている。もちろん、バグのことはお母さんには内緒だ。僕も愛里も、純粋に戦士セキアの奮闘ぶりがいかにすごかったかを話している。
「りっくん、あいちゃん、ちゃんと唐揚げも食べてよ」
でも、今日の主役だったはずのお母さんは、そんなことより料理の減り具合が気になっているみたいだ。
お母さんはサラダ以外の料理ができない。夕食を作るのは僕の役目だ。テーブルの上にある料理は、僕が作ったものばかりだ。
そんな料理が苦手なお母さんがよく利用するのが、近所の唐揚げ専門店『からあげ皇帝』だ。スーパーマーケット『ヤスコ』の惣菜と並んで、唐揚げは沢野家の食卓に登場することがとても多い。僕は料理をするのは全然苦にはならないんだけど、お母さんはちょっと引け目を感じているみたいで、僕に負担がかからないようにとちょくちょく惣菜や唐揚げを買ってくる。
「今日行ったらね、新発売のトムヤムクン味っていうのがあって、いつものしょうゆ味とどっちがいいか迷っちゃって、決められなかったから両方買ってきたのよ。だからいっぱい食べてね!」
まるで自分で作った料理を振る舞うかのように、お母さんは唐揚げを勧めてきた。今日に限ったことではなく、いつもの光景だ。
でも、からあげ皇帝の唐揚げはとてもおいしい上に種類も豊富だから、毎日食べても飽きることはない。僕はさっそく新発売だというトムヤムクン味を一個、口に放り込んだ。
うん……?
「これおいしいね! 私これ好きだよ!」
愛里は絶賛しているけど、これはたぶん、好き嫌いがはっきり分かれる味だ。僕は……どちらかというと、しょうゆ味のほうが好きかな。
僕は豆腐とわかめの味噌汁を口につけた。もちろん味噌汁も僕が作っている。火を止める直前に溶き卵を流しこむのが僕のやり方だ。淡白な味の中に濃厚さが加わって、家族みんなが「卵があったほうがいい」と言ってくれている。今日の味噌汁も、いつもどおりおいしくできている。
「そうそう! こうちゃん聞いて聞いて! りっくんね、彼女ができたのよ!」
味噌汁を飲み込むタイミングとぴったり重なった、お母さんの暴露。
「げほっ、ごほっっ」
おもいっきり空気を飲み込み、盛大にむせてしまった。
そういえば今日は朝食でもこんなことがあったな。
「げほっ、お母さ、げほ、ごほっ」
「あらあら、りっくん、どうしたの? 大丈夫?」
自分が言ったことが原因なのに、お母さんは全く自覚していない。
「立樹、どんな子なんだ? かわいい? クール? 出会いはどこで」
「お父さん!」
僕に質問をを畳み掛けるお父さんに、愛里がきつい口調で割り込んだ。そのままお父さんを睨みつけている。
「お、う、うん」
たじろいだお父さんは、そのまま黙ってしまった。しょうゆ味の唐揚げを口に放り込み、ご飯をかき込んだ。
玻瑠南との関係を迷惑なくらい後押ししていた愛里が、会話を止めてしまうとは意外だった。むしろ愛里のほうから玻瑠南について話してもいいくらいなのに。
「愛里、ありがとう、助かったよ」
僕の右に座っている愛里の耳元で囁く。
「だって、今のお父さん、『
愛里も僕のほうを向いて囁いた。
確かに……。
本物のリュンタルで、女の人に見境なく声を掛けまくっていたあのプレイボーイなお父さんを、お母さんの前で見せるわけにはいかない。
「ところでさ、僕のことなんかより、お母さんはどうだったの? 初めて遊んでみた感想は」
肝心なのはお母さんの話だ。お母さん自身から話を聞くことで、何かバグ対策の参考になるかもしれない。
「うーん、そうねえー」
右手の人差し指を顎に当て、少しだけ視線を上に向けて考えている。
「ちょっと若くなった感じね!」
「いやいやお母さん今のままでも若いって」
「あいちゃん、そう言っていられるのも今のうちよ? 年を取るのなんてあっという間なんだからね!」
「うーん、私にはよくわかんないなー」
若さがどうとか年を取る早さとか、愛里と同じで僕もよくわからない。大人はそう感じるのかもしれないけど。
そう考えながら、僕はしょうゆ味の唐揚げを口に入れた。お母さんは話を続ける。
「だってお母さん、二十代だったら実際にあの服着れたと思うのよね。今着ようと思っても、やっぱり無理だと思うの」
「着れ、着れるわけないれふぉ……ないでしょ。あんな格好」
僕は口の中の唐揚げが邪魔で上手く言えなかった。
若いからといって現実のこの世界でビキニアーマーなんて着るものじゃない。そもそもビキニアーマーはいちおう鎧なのであって服じゃない。
「せいちゃんどんな服着てたの? ちょっと気になるんだけど」
服じゃないんだけどね。
「あー、こんな感じ」
愛里がスマートフォンを操作している。ブログに載せるために、愛里はスクリーンショットをこまめに撮っているから、今日のセキアの画像も保存してあるのだろう。
「はいこれ」
「うわっ」
お父さんは愛里からスマートフォンを奪い取ると、画面に顔を近づけ目を見開いて食い入るように画像を見ている。
「愛里、ほ、他の画像も見ていいか?」
「うん、いいよ」
お父さんの指が画面を擦る。少し間を置いてまた指が動く。同じ動作を、お父さんは何度も何度も繰り返す。
「せいちゃんマジカッコいい。カッコよすぎだろこれ」
「やだこうちゃん、カッコいいのはわかるけど褒めすぎよ」
うわあ。
新婚カップルも真っ青な、いや真っ赤になるくらいのラブラブっぷりだ。見ていてちょっと恥ずかしい。
「大丈夫だって! せいちゃんならリアルでもいけるって」
「えーっ、そうかしらー」
「お母さんならこれくらい全然問題ないって! むしろ似合うって!」
「あいちゃんもそう思う? それじゃあ今度着てみようかしら……あ、でも、こういう服ってどこで売ってるのかしら? 買うことができないんじゃ、やっぱり着るのは無理ね」
そういう問題じゃないだろ。
「……やっぱダメだ」
「え? こうちゃん、どうしてダメなの?」
「だって、こんな綺麗でカッコいいせいちゃんを他の男に見せたくない」
「こうちゃん……」
見つめ合う二人。なんだか背景がキラキラして見える。
「でも、家の中だけでならせいちゃんに着てほしい」
「そうよね、さすがにあの服でお買い物とかは行けないわね」
「そうだ、
「それだ愛里!」
「それだじゃないよお父さん!」
僕はちょっとイライラしてきた。
「お母さんも! 愛里も! 調子に乗りすぎだよ! 現実のお母さんは普通の人間なんだから」
「そうなのよねー。現実は厳しいのよねー。若いっていいわねー」
お母さんはトムヤムクン味の唐揚げを一口食べた。
「ゲームの中って若くなれるからいいわね。お母さんね、ゲームの中だったらもっと若くなってあいちゃんくらいの子にだってなれると思うのよ……あ、これ、ちょっとお母さんの口に合わないかも」
「えー私この味大好きだよ」
「そう? でもお母さん辛いのダメなのよね」
辛い味だってわかってるんだから、最初から食べなきゃいいのに……。
「この間のクリームシチュー味のほうが甘くておいしかったわ」
「クリームシチュー味もおいしかったよね! あとほら、コンソメ味もあったでしょ? 私あれもおいしかった」
「そうね! 今度コンソメ味があったら買ってくるわ! それと――」
とりあえず現実世界でビキニアーマーを着る話からは逸れたようだ。
それにしても。
お父さんだ。
本物のリュンタルに行ってから、お父さんの態度や言葉遣いがちょっと変わったように思える。『白銀のコーヤ』としての自分を隠す必要がなくなったからかもしれない。それは別に構わないんだけど、プレイボーイとしての一面は、正直なところ、隠したままでいてほしい。
◇ ◇ ◇
夕食が終わって、僕と愛里はお父さんの部屋に行った。今日起こったバグについての話をするためだ。夕食の間はお母さんがいるから、さすがにこの話をすることはできなかった。
お父さんの部屋は……僕の部屋と大して変わりない。机にパソコンが置いてあって、本棚には本があることはあるけれど、隙間だらけ。違うのはベッドじゃなくてソファが置いてあることくらいだ。寝室が別にあってお父さんはお母さんと一緒に寝ているから、このソファは仮眠をしたり、ちょっとリラックスしたい時とかに使うためのものだ。一九〇センチ近いお父さんが横になってもゆったりできるサイズで、ふんわり柔らかいクッション性のあるソファはなかなか探すのが大変だったらしい。
そのソファに、お父さんを挟んで僕と愛里が座っている。
「お父さん、やっぱり新しいゴーグルじゃないとダメだよね? しょうがないから明日買いに行くよ」
セキアは本当に強い戦士だった。剣の腕だけではなく、統率力や勇敢さも魅せつけたあの赤い巨人との戦いを思い出すだけで、興奮して胸の鼓動が高鳴る。
でも、それはバグのせいだ。
バグはあっちゃいけない。
あっちゃいけないからこそ、テストプレイから今までずっと、バグを見つけるたびにお父さんに報告してきたんだ。これからだってきっと報告し続けるだろう。
ところが、お父さんの反応は意外なものだった。
「いや、このままでいいんじゃないかな」
「え、いいの? 大丈夫なの?」
「これまでにない事例だし、どんなバグが出るのかもっと知りたいんだ。不正があるなら問題だけど、せいちゃんならそんなことはないし。それにせいちゃん大活躍だったんだろ? 父さんそれがうれしくってさ。バグとはいえせっかく手に入れた力を手放すなんて、もったいないじゃないか」
本当にうれしいんだろう。運営としてはあるまじきことなのに、お父さんは笑顔を隠そうともせずに話している。
「その代わり、どんなバグが出たか、逐一報告してくれないか。今日の様子からすると致命的なバグは出ないとは思うんだけど、もし何かあったらすぐ対処しなければならないから」
僕も愛里も、首を縦に振った。
「ところで、バグといえばさ……」
どうしても気になることがあった。
お父さんの向こう側にいる愛里に話しかける。
「巨人と戦っていた時のお母さん、別人みたいだっただろ? あれもやっぱりバグだったのかな?」
あの時のセキアは、お母さん本人じゃなくて、まるで他の誰かが乗り移ったかのようだった。あれは本当にお母さんだったのか、気になって仕方がない。
「あの時のお母さん、本当にカッコよかったよねー。あーもう私もビキニアーマーになろうかなー」
そうじゃないだろ。
そもそもその胸のサイズに合った平坦なビキニアーマーなんて存在しないし、仮に存在していたとしてもそんなの着ていたら笑われるだけだ。
「それに、あの時のお兄ちゃん、すっごいノリノリだったよね」
イヒヒヒ、とからかいの笑いがこぼれている。
「そ……それは、そんなことはないだろ。そりゃあ、ちょっとは雰囲気出してたかもしれないけど」
冷静にあの時のことを振り返ってみると……まあ、多少は、愛里が言っていることは当たっている。とにかく楽しかったから、その楽しい気分に任せたんだ。
もしかしたら、お母さんも気持ちが入りすぎてああなっちゃったのだろうか。高校で演劇部だったって言ってたし、戦闘力はともかく口調や振る舞いはバグではなく演技だったのかもしれない。
「おっ、立樹にしては意外だな。もっと淡々とプレイしているのかと思っていたけど」
「いやいや、お兄ちゃんけっこうノリがいいほうだから」
「そうなのか?」
「そんなことないって!」
「本物のリュンタルで戦った時もけっこうノリノリだったし」
「あの時は戦わなきゃって気持ちが強かっただけだって!」
「やる気が漲っているのはいいことだぞ」
「お父さんまで愛里に乗っからないで!」
「あとはハルナとの仲もノリノリにならないとねー」
「それはいいから! 愛里とは関係ないだろ!」
「ハルナ? って、ひょっとしてせいちゃんが言ってた彼女のことか? そのハルナって子は」
「お父さんは黙ってて」
楽しそうに話していた愛里が突然冷たい目でお父さんを見た。怒りもせず、睨みもせず、冷たい無表情な顔で冷たい視線を横目で送っている。
だったらなんでハルナの話を持ち出したんだよ。理解できない。
「ハルナは私のコンサートでピアノ弾いてくれたし、テスト前に勉強も教えてくれたし、もしお兄ちゃんと破局しちゃったらもう私のところにだって来てくれないかもしれないじゃん」
「あー、あのピアノの子か。ブログで見たことあるよ」
「お父さんは黙っててって言ったでしょ」
また愛里の冷たい視線がお父さんに突き刺さる。
「いや、その父さんはだな、父親として息子の彼女がどんな人か知りたいと、そう思っているだけだから」
愛里はまだ氷の刃でお父さんを貫いたままだ。
「本当に! 本当だって!」
「……お母さんがハルナに家に遊びに来てほしいって言ってたし、また家に来ることがあるかもしれないけど」
愛里は立ち上がって、お父さんを見下ろすと、
「絶対に手を出しちゃダメだからね」
そう言って部屋を出て行った。
バタンッ、と激しく叩きつけられ閉まるドア。
その様子を座ったまま呆然と見ていた、僕とお父さん。
はああっ、とお父さんは大きく息を吐いた。
「し、死ぬかと思った。凍え死ぬのか刺し殺されるのか、どっちなのかわからないけど」
そしてもう一度大きく息をついたお父さんは、ソファに背を預けて天井を見上げた。
「なあ立樹、そのハルナって子は、一回家に来たことがあるのか?」
「うん。あるけど」
愛里が勉強を教えてもらったとかまた来るかもとか言っていたから、そこから判断したのだろう。
お父さんは身を乗り出してきた。
「……で、どこまでいったんだ?」
「ど、どこまでって」
「そりゃあ、キスしたりとか」
「してないって!」
愛里じゃなくてもさすがに怒る。
ここは現実世界だってのに、完全にプレイボーイの『白銀のコーヤ』丸出しだ。
「だいたい、その時は智保もいたんだから! お父さんが考えてるようなのじゃないから!」
「そっか、智保ちゃんもいたのか」
お父さんはまた背もたれに体を預けた。
「そりゃあ大変だったな」
大変だった……のは、確かだ。
でも、どうしてお父さんがそれをわかったのかは、わからないけど。
◇ ◇ ◇
自分の部屋に戻ると、机の上に置いてあったスマートフォンに着信が入っていた。『リュンタル・ワールド』のメッセージではなく、普通の電話の着信だ。
玻瑠南からだった。どうしたんだろう。
こっちから電話してみた。
「あ、立樹? 私、自信失くしちゃった」
声に元気がない。
「私、剣士になって何日も経っているのに、まだクークーなんかに苦戦しているくらいの腕前でしょ? それなのに、今日始めたばかりの立樹のお母さんにあんなパフォーマンスされて」
「あー、それはね――」
僕は玻瑠南に、お母さんが使っていた古いゴーグルのことを話した。
「――というわけで、バグのせいであんなチート級の強さになっていたんだよ。あれは絶対にお母さんの実力じゃないから、玻瑠南が落ち込むことはないよ」
「……私、明日はアミカで行く」
「えっ!? でも……」
芸術の街ギズパスで人気のロリっ
その正体が玻瑠南だということは、僕と愛里、智保しか知らない。決して他人にバレてはいけない、トップシークレットだ。
「ハルナの代わりにアミカで、ってこと? それって、アミカの正体が玻瑠南だって、バラしちゃうことになるじゃないか」
「いいの。立樹のお母さんになら、知られてもいい」
「でも……」
「言ったでしょ? 立樹のご両親とは一生のお付き合いになるんだから。どうせ立樹のお父さんは私がいくら隠そうが知ることができる立場なんだし、お母さんにだって隠しておく必要がない」
「玻瑠南、ちょっと考えが先走りすぎな気がするんだけど……」
玻瑠南が僕のことを好きだというのは、素直にうれしい。
でも、人を好きになるっていう感覚がどんなものなのか、僕にはよくわからない。決して玻瑠南が魅力的ではないということではなくて、たぶん……、僕がまだ、成長していないだけなんだ。
それだというのに、玻瑠南は僕が好きだという気持ちをどんどんエスカレートさせてきている。間違いなく、将来は僕とけっ……、け、結婚するつもりだ。玻瑠南の態度を見ていれば、いくら僕でもさすがにそれはわかる。『リュンタル・ワールド』でアミカとしてプレイしているのも、歌って踊れる魔法少女になりたいという夢を追い求めた結果だし、どうやら玻瑠南は思い始めたら止まらないタイプのようだ。
「……あのね立樹、冷静に、パーティとして考えてみて。リッキがいて、セキアさんがいて、さらに剣士が必要? それも大した実力のない、未熟な剣士が」
「あー……それは言えるね」
確かに、パーティとして考えれば、剣士のハルナではなく、強力な攻撃魔法も回復魔法も使えて、さらに弓使いでもあるアミカのほうがバランスが取れているし、戦力にもなる。
「でも、本当にアミカのこと、お母さんに知られてもいいの?」
「いいの! 私もう決めたから! それに……」
「それに……何?」
「…………」
黙り込んでしまった。どうしたんだろう?
と思ったら。
「……たまには、リッキに甘えたいし」
丸っこい、幼い女の子の声。アミカの声だ。
仮想世界の小さい体のアミカではなく、この現実世界で、クラスでは一番背が高い僕に次いで二番目に背が高い玻瑠南からこの声が出ているんだと思うと、なんだか不思議な感じがする。
「う……うん、とにかく、明日もたぶん朝から大丈夫だと思うから。じゃあまた明日」
どう対応していいかわからず、逃げるように電話を切ってしまった。
スマートフォンを、机の上に置いた。
そういえば、久しぶりにアミカの声を聞いたな。
期末テストが終わった日、僕とアミカ、アイリー、シェレラの四人でパーティを組んでクエストに挑んだ。それっきり、アミカとは会っていない。
アミカ……かわいいよなー。
アミカの頭をなでていると、薄紫色の髪の毛がふわふわで気持ちいいし……。なでている間、アミカもずっと笑顔でいてくれるし。
あの感触を思い出して、僕はじっと左手の掌を見つめた。
やっぱり、急に電話を切ってしまったのはまずかったな。
僕はまたスマートフォンを手に取り、アミカにメッセージを送った。玻瑠南の電話番号のメッセージではなくて、『リュンタル・ワールド』のアプリの、アミカのアカウントに。
Rikki: 明日会ったら、またなでさせて!
送信して、スマートフォンを机の上に置いた瞬間に電子音。
もう返信が来た! 早い!
Amica: えへへ~。 いっぱいなでなでしてね!
玻瑠南の機嫌を損ねてしまったかもと思ったけど、大丈夫みたいだ。アミカの笑顔が脳裏に浮かぶ。
僕はほっと胸をなで下ろした。
■ ■ ■
何かしら。
昨日まで、何もなかったのに。