avant-title:動き出す《ラウンディア》
「面倒なことになったな」
エッドフォード伯爵領シルヴァーナ地方シグソアーラ駐屯城塞――その執務室に陰鬱な声が響いた。
バサリ、と。声の主である金髪
執務室に駆け込み、第一報をリチャードに渡した黒髪の青年――アンドレ・エスタンマークも「ええ」と顔を
「まさか、公女が魔獣を返り討ちにするとは」
「――アンドレ。お前なら『
アレ、とは帝国が開発した魔獣ティーゲルのことだ。アンドレはその場面を想像するように視線を少し上に飛ばし、やがて「『ミョルニア』が有れば、あるいは」と答えた。
「ですが、バラスタインの公女は『
「持っていたところで、騎士としての訓練も受けていない小娘が魔獣相手に戦えるものか。――誰かが、小娘を手助けしたのだ。それしかない」
考えられるのは、かつてバラスタイン家と交流があったガラン大公か、シュラクシアーナ家の者が護衛として付いていた可能性。しかし一年に亘る調査でそれは否定されている。
仮に公女から救援要請があったとしても、ガラン大公が治めるマクドニージャはガルバディア山脈の向こう側、シュラクシアーナ領はそこから更に海を越えた半島にある。騎士や魔導士を
つまりそれ以外の、一年に及ぶ内外からの調査網を
そいつは今も、チェルノート城で公女を守っているのだろう。
「……作戦の中止は、」
「出来んさ。
アンドレの不安げな声に、リチャードは諦観混じりの否定を返した。
そしてチラリと執務机に積まれた書類の山を見やり、それを顎で指し示す。
「金だよ。すべては金なのだ」
リチャードの言葉に、アンドレは「はい」と同意のため息を返す。
執務机に山と積まれた書類は、債権を持つ者からの督促状、そして借財を返すために手放した領地とそれに伴う家臣団の再編に関する報告書だった。
つまりエッドフォード家の窮状がそこにはあった。
元々、エッドフォード家の領地運営は余裕があるものではなかった。特産物もなく、領主に商才があるわけでもない。強いて言えば、騎士団の強さが売りという平和な時代には何の役にも立たない伯爵家だったのだ。
ジリジリと領地の財政破綻が近づく中で、エッドフォード家はある
それは帝国の
そのために貴族だけでなく教会からも借金をして魔導武具を集め、農民たちを徴兵して占領軍に仕立て上げ、帝国軍がガルバディア山脈を越えるのを待ったのだ。
――が、その直前に王国と帝国は停戦協定を結んでしまった。
エッドフォード家からしてみれば、全財産を賭けた
そして気づけば、エッドフォード家の借金は天文学的な数字になっていたのである。
王政府に泣きつけば財政難だけは乗り越えられるかもしれない。だが、それは宮廷での立場を捨てるということ。武闘派として名を売ってきたエッドフォード家は、保守系派閥の最大勢力でもある。くわえて王国の勢力拡大はエッドフォード家無しには語れない。王族すらも、エッドフォード家の顔色を
その立場を捨てるなど、到底考えられない。
では、どうするか?
エッドフォード伯爵家が選んだのは『戦争の再開』だった。
なにしろ準備だけは整っている。後は攻め込む大義名分があればいい。
だからこそバラスタイン家唯一の生き残りである公女エリザベートを、チェルノートに押し込め帝国の餌にしたのだ。帝国がそれに食いつけば良し。そうでなければ公女を殺し、それを『帝国による暗殺』として戦争をふっかけるつもりだった。
その実行役に選ばれたのが、エッドフォード家の次男坊であるリチャードである。
「なんとしても戦争を始めて、バラスタイン平原を手に入れねばならぬ」
「……では、第二案を?」
「仕方あるまい」
リチャードはつまらなさそうに口の端を
「公女様には
と、そこで執務室のドアをノックする音が響いた。
その向こうからは「ガブストール及びニコライ、参りました」との声。リチャードが「入れ」と応えると、二人の騎士が姿を現す。二人とも『
「出撃準備、整いました」
「ご苦労」
騎士二人の報告にリチャードは笑顔で応える。アンドレ及び、ガブストールとニコライはリチャード直属の家臣であり、腹を割って話せる信頼できる友人でもあった。
彼ら――リチャード率いる『
騎士4名、随伴魔導士20名という戦力は、帝国軍に換算すれば一個旅団に相当する。特に
だが、状況は変わってしまった。
「諸君、私は悲しい命令を下さねばならない」
「はっ」
「これより我ら炎
その一言で、公女の暗殺が失敗したと気づいたのだろう。ガブストールとニコライの顔に驚きの色が浮かぶ。しかし、すぐにその表情が引き締まった。
二人とも作戦の当初から関わっている。暗殺が失敗した場合の『第二案』のことは既に聞き及んでいた。
「では……」
「公女エリザベートは帝国とつながり、かの美しき辺境たるチェルノートは王国を脅かす
肩をすくめるリチャードに、他の三人は苦笑を返す。
第二案というのは『帝国へ寝返ったエリザベートを討伐。貴族を
つまり戦争を再開させるため、無実の罪を着せて殺すという事だった。
執務室に集まった四人の顔が、苦渋に
エリザベートという少女がただの民草ならば、無実の罪を着せようとも心は痛まない。民衆は所詮、貴族や騎士という『力』に
同じ貴族に不名誉な罪を
だが既に、偽造した
ふと、アンドレが「現地住人はどうします?」とリチャードへ振る。執務室の重い空気を変えようとしたのだろう。リチャードの腹心であり、
「言っただろう? チェルノートは帝国と
「ということはつまり……」
「ああ。
リチャードの言葉に、ガブストールとニコライが「おお」と笑みを
それも当然だろう。民草を無闇に殺すことは十数年前に王が禁じてしまったからだ。当然、
これで二人は、公女を無実の罪で殺さねばならない罪悪感を一瞬とはいえ忘れられるだろう。
「久々のマンハントだ。おおいに楽しみたまえ」