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ごめんね

 ――ん。

 ゆっくりと、私は目を開ける。どうやらいつの間にかうとうとしていたらしい。
 薄暗い室内。目の前にはテレビがあって、深夜番組がはしゃいでいる。音量は小さいけど、賑やかしい。
 ソファの上にちょこんと体育座りしていたせいか、少し身体が固くなってる。

「あ、起こしちゃった?」

 もぞ、と動くと、隣で一緒に毛布にくるまっていた司が小声で話しかけてきてくれた。

「ううん、大丈夫」

 私は微笑みかけながら、司にあたまをもたれかける。
 うん、安心する。
 こんな時間にまで司が起きているのは珍しい。明日は休みだから問題ないんだけど、真面目な生活スタイルをあまり崩さないタイプなのだ。
 ふと見ると、司はカップを持っていて、中身がもう半分くらいしかない。

「ミルクでも入れてこようか?」
「ん、でも出たら寒くない? 暖房もう切っちゃってるから」
「まぁそうなんだけど」
「それに、一緒にくっついていたいしさ」

 う、それ、殺し文句。
 顔が赤くなるのが分かった。思わず俯いていると、司は私の頭を撫でてくれた。

「んー、幸せ」
「だね」

 私は撫でられるがまま、司にまた身体を預ける。

「でも珍しいね。寝たらほとんど起きないのに」
「うん、なんかね」

 私は早くも薄くなりだした記憶を手繰り寄せつつ、ちょっと乾いた声を出す。

「パパの夢、見てたんだと思う。たぶん、昔のこと。パパが出ていった時のこと」

 たったそれだけで、司は察してくれたのか、カップを私にくれた。
 凄いなぁと思う。
 私は遠慮なく、カップの中身を口に入れて、喉を潤す。割と乾いてたのだ。

 司とは就職後、割とすぐに籍を入れた。

 お互い、不思議なくらい心地好くて、本当に抵抗感なく結婚した。
 貯蓄もなくて、結婚式なんて派手なことは出来なかったけど、私は幸せだった。
 落ち着けるから。

「私ね、パパと離れてから……あの時から、一度も連絡してないんだ。だから、今、こうして幸せなんだってことも知らない」

 というか、教えるつもりもない。
 別に黒い感情が出てくるとか、そういうのはない。ただ、単にそう思うだけ。

「こう言うとアレだけど、パパのこと、嫌いじゃないと思う。でも、あの日、電話が繋がらなかったコトで、私とパパの何かが切れちゃった気がする」

 そう、あの日。
 ママが初めて倒れた日、心細くて受話器を握った日、呼び出し音の鳴りやまなない廊下。
 どれだけ暗くて、どれだけ心が潰れそうだったか。
 同時に、司が初めて私を傍に寄り添って、慰めてくれた日。

「ずっとね、一緒にいたかった。でも、パパはでていった。自分の夢のために」
「うん」
「だから、夢を追いかけてばかりの人、夢だけを語る人、イヤなの。だって、そのために誰かを犠牲にするとか、そういうのだったら。あんな思い、もうしたくないもん」
「……うん」
「でもね、司が語ってくれた夢は、とっても温かった。嬉しかった」

 忘れもしない、あの日。
 あの時、私はようやく前に進めるようになれたのだ。

「それは良かった。まぁ、平凡な夢だけど。どっちかっていうと、望みというか願望というか」
「でも、立派な夢だと思うな。だからなのかな、私ね、パパのこと――」

 ――ガタ、ガタタッ!

 ゆっくりと、しっとりとした時間には似つかわしくない、けたたましい物音。
 何かが全身を貫くように駆け抜けて、司が勢いよく立ち上がった。

 そうだ。物音がしたところ。そこは――。

「ママッ!?」

 世界が、裏返った気がした。

 ◇◇◇◇◇

 救急車の音。あの日と同じ、耳が、意識が遠い。それでも状況は目まぐるしく動いて、司も、私も必死だった。
 ただ、ママに助かって欲しくて。でも、お医者さんから出てくる言葉は、とても辛いもので、愕然とするしかなかった。
 ママは、どんどんと薄くなっていった。

「――司くん、今までありがとう」

 そんな中、それでも、一縷の、僅かな望みに縋っていると、ママは薄く目を開けて、ぽろりと涙を一粒、零した。
 私と司はベッドに突っ伏すようにしてママに近寄る。

「これからも、サキのことを、よろしくね?」
「お母さん? いきなり何を言い出すんですか」

 司が動揺した声で言う。
 けど、ママは微笑むばかりだ。

「――サキ。ごめんね」

 そして、ママは私に謝って来た。
 なんで。どうして。

「いっぱい、がまんさせて、ごめんね」
「ママ? ママ!? 何を言ってるの?」
「――ごめんね、ごめんね」

 ママはほとんど動かせないはずの手を動かして、私の手に触れた。

「ママっ!」

 ――そして、ママは静かに息を引き取った。
 しんしんと、寒さが染み込んでくるような日だった。

「いや、ママ、ママ、私を置いていかないで、そんな、急に置いていかないでっ!」

 動かなくなったママ。まだ温かいママ。
 私は必死に手繰り寄せるように、ママに縋りつく。でも、ママは動かない。
 後ろから、司が抱きしめてくる。

「サキ……!」
「司、司ぁぁぁああああっ!」

 私は、ただ涙を流した。
 そんなバカな。ありえないよ。
 ずっと強かったママ。
 父兄参観だって当たり前のように来てくれたママ。
 毎日、私のために美味しいお弁当を作ってくれたママ。
 ずっと笑顔で、私を見てくれていたママ。

 どうして、そんな。

 なんで、私を、置いていくの。

 大好きなママ。

 どうして、どうして?

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