第百六十二話
沈黙が落ちる。
アリアスも言葉を失っていて、ただ、口を手で覆っていた。
「解放する手立てとか、ないのか?」
一応訊いてみるが、ネェルはゆっくりと頭を振った。
『ないわ。あそこまで魂がグチャグチャになってしまうと、もうどうしようもないの。特にカトラスは、元々一つの魂として成立していた部分に合成してしまっているから余計なのよ』
「そんな……」
悲痛の声に、アリアスが沈痛の声をかぶせる。
言うまでもないが、カトラスが助からないってことはアザゼルのヤツ、絶対分かっていたはずだ。そして喜々とやっているのだろう。何もかもが魔族らしい。
「ネェルさん。本当に、それで良いんだな?」
『構わないわ。あの子が死ぬ間際、あの子の魂だけを連れて召されるつもりだから。それが安寧の休息の救済に繋がるわ』
ネェルは顔を引き締めながら言う。
覚悟はもう出来ている、ということだろう。だったら俺たちが邪推してあーだこーだ言うのは筋違いだ。
俺は肯定の意味を含めて首肯く。
「分かった。俺たちもガルヴァルニアから、アザゼルからアリアスの命が狙われてたり、ハインリッヒさんが狙われてたり、大変な状況にある。それなのに相手の状況は一切つかめなくて、四苦八苦してるとこだったんだ」
今、ハインリッヒとラテアがタッグを組んで遺跡を調べているところでもある。成果が出るかどうかは際どいところだろう。
『それならば、協力できるわ。相手の行動は私に筒抜けだし、私の行動はカトラスの《神託》に引っかからないから』
「そうなのか?」
『ええ。カトラスの《完全神託》は自分の身にまつわることに限られているの。だから、戦闘時においては特化できるけれど、通常の《神託》としての機能は期待できないわ。まぁ、そこを応用して、ハインリッヒの《神託》を妨害しているのも事実だけど』
おお。思わぬ弱点だな。というか、これはかなり大きいアドバンテージでは?
これで今まで一切目に見えなかった相手の動きが分かるようになる。そればかりか、先手を打つことだって可能だ。これなら、勝ちが見える。
残る問題は、信用だな。
「分かった。協力は有難い。けど、ネェルさん、あんたは俺たちの素性も知らないはずだけど、本当に構わないのか?」
ぶっちゃけて、俺たちはまだ自己紹介さえしていないのだ。
ハインリッヒに殺された、という過去をちらつかせ、事情を何となく知っていると思わせているだけに過ぎない。それでグランゴを倒したからってだけで、カトラスを殺せと頼んでくるのは少し変だ。
もしかしたら、アザゼルの刺客という可能性だってある。
『構わないわ。ハインリッヒの知り合いなら、それだけで信頼できるもの』
ネェルは微笑みながら言う。とてもハインリッヒを妬み、攻撃した人とは思えないな。
俺の懐疑的な視線を感じたのか、ネェルは少しだけ苦笑した。
『どう話を聞いているか分からないけれど、私は少なくともハインリッヒに妬みを持っていなかったわ。ただ状況的にそうせざるを得なかっただけで……だから、貴方たちがハインリッヒの知り合いで味方なら、私は何も心配しないの』
無条件で無慈悲な信頼だな。
俺はそう評しつつ、安堵した。ハインリッヒの言葉を出した時点で、この人はもう俺たちを信頼してくれているのだ。ハインリッヒのネームバリューを利用してるみたいで、心苦しいけど。
「それなら安心した。俺はグラナダ。こっちは――」
『アリアスちゃんね? フフフ、小さい頃を知っているわ。大きくなったわね』
俺が紹介するよりも早く、ネェルはアリアスに笑いかけた。対するアリアスは少し戸惑っている。
「え、えっと、ごめんなさい、私……」
『覚えてなくて当然ね。何度も会っているわけじゃあなかったし。気にしないで』
「ごめんなさい」
うわ。アリアスが素直に頭を下げた!
内心で動揺しつつも、俺は話の腰を折るわけにはいかないので押し黙る。
頭を切り替えよう。これでかなり強力な支援が得られる。
「じゃあ、早速で悪いんだけど、色々と教えて欲しい。まずは組織の拠点かな」
『組織の拠点は、バラバラね。カトラスも常に動いているわ。常に時空をいったりきたりしてるから。常に時空の裏へはいられないから、古代遺跡で、まだ人の手が入っていない所にいたりするわね』
「なるほど……」
それなら、こっちから仕掛けるのは無理がありそうだな。
『ただ、近いうちに王都へ攻め入る計画はあるようよ。魔物をひた集めてるわ』
「王都へ?」
『ええ。どういう目的かは知らないけれど、カトラスを連れていくつもりね』
険しい表情をしながらネェルは声を低くさせた。
なるほど。王都でハインリッヒを倒し、秩序の崩壊と混乱を狙うつもりか。それならば有り得るな。王都が崩壊すれば、人間の世界はかなり混乱もする。魔族が狙いそうなことだ。
もちろん王都にはハインリッヒ以外の優秀な冒険者だっているが、ハインリッヒより強い冒険者は同時にいないのだ。もしハインリッヒが倒されることになれば、とんでもないことになるだろう。
「戦力は?」
『分からないけれど、万は下らないと思うわ。上位の魔物も多数いるわね』
「ま、万っ……!?」
その数にアリアスが驚愕し、俺は目を細めた。
そんな魔物の群れにいきなり襲われたら、いくら王都でも危険だ。これは事前に手を打っておく必要性があるな。
『王都を陥落させた後は、ヴァータだって言ってるようね。その勢いで攻めるつもりよ。だからアザゼル……それとアズラエル。その二人もやってくるわ』
神獣にまで手を出すか。
あのヴァータが、とも思うが、ポチの例がある。もしヴァータまで汚染されたらシャレにならん。相手は上級魔族で、一匹はハインリッヒの攻撃に耐え、もう一匹はそれを見ても動揺しない。
その可能性は潰すべきだ。
「……分かった。その攻めてくる時期は?」
『一週間と少し……カトラスが復活するのを待つつもりね』
じゃあ時間も少しあるか。
俺は作戦を練りつつ、魔力を高めた。
「じゃあ俺の魔力を渡すから、俺たちに付いてきて欲しい」
『魔力はありがたいけど、定期的にアザゼルが私の様子を見に来るわ。今すぐ動くのは危険ね』
「そっか……分かった。じゃあポチと繋がりを持っててくれ。テレパシーでのやり取りだ。出来るか?」
確認すると、まずポチが頷く。この巨大な形態なら可能のようだ。ネェルは、少し考える素振りを見せてから口を開く。
『私は魂だから、受け取ることに問題はないわ。ただ、送るとなると難しいわね。一言、二言なら返せると思うけど』
「十分だ。アザゼルがいない時を狙ってこっちにくるから、それだけ分かれば良い。これからも相談と情報の提供が必要だから」
『分かったわ。それで良いなら』
「じゃあそういう手筈で」
ポチが鼻をすんすん鳴らし、ネェルとの繋がりを作るのを待ってから、俺は魔力を渡し、その場を後にした。
「とりあえずセリナだな。んで王に取次して、あーもう、ハインリッヒさんがいたら軍略的に楽なのに。いやでも大丈夫か……」
「何を独り言くっちゃべってるの?」
「逆襲の狼煙だ。ストライクバックってやつ」
「ストライクバック? 兄さまもだけど、転生者って時々良く分からない言葉を使うわね」
人差し指を立てながら言うと、アリアスは怪訝そうに言った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
──ネェル(カトラス側)──
そして、一週間と数日。二日後には学園の授業が始まるという日の夜、それはやってきたわ。
なるべく静かに、と命令して行軍しているのだろうけれど、所詮は魔物。古い甲冑の擦れる音や、荒い鼻息、唸り声なんかは殺せず、それが万ともなれば中々に喧しい。
「……くさい」
カトラスは鼻をつまみながら不満を表明した。分からないでもないわ。何せあれだけの魔物、入浴の習慣なんてない大群なのだから相当に臭いはず。
しかし、カトラスの眉根を寄せた抗議は誰も聞かない。
カトラスは群れの最前列よりも前にいて、隣には名前も知らない白装束の研究者。少し上にはアザゼルとアズラエルしかいないから。
こいつらは、カトラスそのものに興味はないの。
あるのはその能力と魂のキャパシティ。そして御しやすい復讐心。カトラスを道具としか思っていない彼等に、カトラスの心の悲鳴はきっと聞こえない。
たすけて、たすけて。と。
それを聞けるのは私だけ。でも助けてあげられない。この無力感はどうしようもなくて、そして沸き上がってくるものが私を切り裂いていく。
ああ、この怒りを何と呼べばいいの?
けどこの身を焼き払う感情も今日まで。
……お願い。ハインリッヒ、グラナダ。
──カトラスを、殺して、救って。