第九十五話
目が覚めると、獣油のランプに照らされた天幕が見えた。
ゆっくりと身体を起こそうとすると、何故か右肩が重かった。見ると、俺の脇に入り込み、肩から胸を枕にして寝転んでいるメイがいた。
ああ、これはまさか。
予感がやってくると、メイは俺にしがみついてくる。
「ごしゅじんさまぁ……」
やっぱり。幼児退行だ。
そう言えばメイは限界を超えてあの
こうなったメイは落ち着くまで俺から離れない。
裏を返せば、幼児退行しても大丈夫な状況ではあるのだろう。メイは我慢強いから、状況が許さなかったら必死で抑え込むはずだ。
俺は仕方なく起き上がるのを諦めて、周囲を見て状況把握を始めた。天幕と、吊るされた獣油のランプ。
どうやら一時的な簡易テントの中っぽいな。一応寝袋に枕を敷いてくれているが、どちらも簡素なものでしかない。
ってことは、避難エリアか。
どうやらハインリッヒは無事に転移させてくれたらしい。すっかり消費した魔力も戻っていた。魔力水を摂取させてくれたのだろう。
微妙な寝心地の悪さも感じつつ、俺はそっと《アクティブ・ソナー》を打った。周囲には気配が大量にあって、そこら中にテントがあるようだ。
さらに探ると、強い魔力が幾つか感じられるテントがあった。
たぶん、そこに皆がいる。
俺はメイの頭を撫でてしっかりとあやして寝かしつけてからテントをそっと出た。
テントの中にいた時も思っていたが、あれだけの騒ぎの割りには全然静かだ。方角が分からないが、周囲を見渡しても赤くなっている部分がない。
テントにも人の気配がしっかりあるので、出払っている様子もなかった。
ってことは、よっぽど遠くに転移したか、エキドナが立ち去ったか……──。
どれだけ寝ていたのかが分からない以上、推測もそこまでだ。
メイ以外の姿がまだ確認できていないのが少し不安だ。情報収集するしかないな。
俺は早速魔力の集まるテントへ向かう。
ここなら確実に情報が集まるだろう。
そのテントの中では、魔法が使われているようで、無声音でのやり取りがなされているようだ。かなり緊迫した雰囲気が漂っていて、迂闊に近寄れない。
「あっ……」
思わず戸惑っていると、テントから少女──アリアスが出てきた。俺の姿を認めた瞬間、くしゃっと顔を崩す。
おお、っと思った次には、俺の胸に飛び込んできていた。
反射的に抱きすくめると、アリアスは俺の胸に顔を埋め、静かに嗚咽を始めた。
「に、にいさま、にいさまがぁぁぁ…………」
「ハインリッヒさん?」
訝しんで訊ねると、アリアスは何度も頷く。かなり動揺していて、話が掴めない。
「どういうことだ。何があったんだ?」
『集団時空間転移なんて行った代償だよ』
答えたのはテレパシーで、ポチだった。
気配に振り返ると、白い枝のようなものを咥えたポチがいた。何故だか、ポチの口周りが赤い。あれは、血だ。
その白い枝みたいなのは──まさか、骨か?
『今は見ない方がいい。人としての原型を辛うじて取り戻したような状態だ』
どういう状態だよ、それ。
だがロクな状態ではないことは分かった。アリアスが動揺しているのもそのせいなのだろう。
状況を把握したかったが、これでは無理だ。
『主よ、蔑ろにして申し訳ないが、少し時間をくれ。まだエキドナや街の問題が終わっていないが、しばらくは大丈夫になったからな』
「今はハインリッヒさんなんだな? 分かった」
『理解が早くて助かる』
そう言ったきり、ポチはテントの中へ潜り込んだ。
「う、うう、うぇぇぇぇ…………」
とにかく俺はアリアスを落ち着かせよう。
しがみついてくるアリアスの頭をぽんぽんと撫でながら、俺はアリアスの嗚咽を受け止める。
「あ、グラナダ君」
声をかけてきたのは、ぱたぱたと走ってきたウルムガルトだ。近くまでやってきたところで、俺はぎょっとした。
ウルムガルトがその両腕と服を鮮血に染め上げていたからだ。
「ウルムガルト、お前まさかケガしたのか?」
「まさか。これは返り血だよ。ちょっと卒倒しそうになったけどね。色々と手伝いしてたから」
「手伝い?」
「霊薬の類の提供とか、清潔な道具の手配とか。たまたま行商で取り扱ってたからね。全部お買い上げいただいたってのもあるけど、とにかくそんなこと言ってられなかったんだよ」
俺が気絶している間に、とんでもないことが起きてたらしい。
「とりあえず、こう、ぐちゃー、どばーって、こう、爆裂? あまりに凄いから逆に素になっちゃった」
顔を微妙に青くさせつつも、ウルムガルトは指を顎に当てながら言った。
よく伝わってこないが、ハインリッヒは相当スプラッタな状況ではあるようだ。それが代償ってやつなんだろう。
「君も魔力枯渇で結構大変だったんだけどね、無事みたいで良かった。薬飲ませるまではしたんだけど、その直後にハインリッヒさんがとんでもないことになって。ごめんね、ついてあげられなくて」
「いや、当然だろ。重傷者の方を見るのはな」
苦笑すると、ウルムガルトも苦笑した。
「君がここにいるってことは、メイちゃんも落ち着いた?」
「ああ。ぐっすり寝てる」
「びっくりしちゃったよ。いきなり幼児退行するんだもん。それから君にべったりでさ。薬飲ませるのも一苦労だったよ」
なんとなく時系列が見えてきて、俺は更に苦笑した。
俺がテントに寝かされて、意識がないから心配のリミッターをぶち抜いたのか。加えて安全な場所に逃げられたって安堵感もあったんだろう。
「悪かった。迷惑かけたな。護衛する側だったのに」
「気にしないで良いよ。恩人なんだから」
頬をぽりぽりかきながら言うと、ウルムガルトは微笑んだ。
「俺に何か出来ることは?」
「あー、ハインリッヒさんの治療は専門知識がいるんだけど」
「すまん、戦力外」
俺は素直に言った。
水属性への適性が低いので、回復魔法の類いは一切使えないのである。
「そっか。じゃあとにかく、今はその子を落ち着かせてあげて。一番キツいはずだから。あ、そうだった。えっと──……どっかにフィリオ? って子もいるはずだから、捕まえていて欲しいって」
「ハインリッヒからか?」
「うん。グラナダ君が寝覚めたらお願い、って。多少手荒でも構わないからって。そこが分水嶺になる、だって」
ってことは、《神託》か。
アリアス絡みなのか、新しいものなのか、判断は付きづらいが、俺がやるしかないのだろう。
というか、ハインリッヒがダメな以上、戦力的に俺しかアイツを黙らせられないのか。
「分かった」
「お願いね。それじゃあ」
ウルムガルトはウィンクしてから、テントの中へ入っていった。
それを見送ってから、俺はずっと泣くじゃくるアリアスの頭を撫でてあやしてやる。これで落ち着くのかどうか分からないが、やらないよりかはマシだろう。
「うっぐ……ひっぐ、にいさま、にいさまぁぁ……」
「アリアス」
うわ言のように声を出し続けるアリアスに、俺は語りかける。
「ハインリッヒさんは大丈夫だ」
「そんなっ……だって、あんなにヒドい……」
「魔力が定着してる」
嗚咽を強くさせたアリアスの耳元で俺は囁いた。出来るだけ強く相手へ届くように。
「魂が肉体から離散したら、魔力も散っていく。けど、あのテントからそんな様子はない。それはしっかりと生きてるってことだ」
中の様子が分からないから何とも言えないが、ポチやウルムガルトの証言からして相当えげつないことになっているのだろう。
そんな状態で生きてるっていうことが、幸か不幸かは別の問題だ。
「だから、大丈夫。治療のエキスパートがいるんだろ?」
「ええ……イベルタさんが……」
「ああ、あの人の回復魔法スゲェよな。だったらもっと大丈夫だろ。大丈夫。ハインリッヒさんが死ぬとこなんて、そもそも想像出来るか?」
俺の胸に顔を埋めながら、アリアスは頭を振った。
「だったら信じよう」
「グラナダぁ……」
「お前が泣いてたらダメなんじゃね? 妹だろ、家族だろ。だったら誰よりも何よりも信じてやれよ。ハインリッヒさんの無事を」
我ながらクサイ台詞だとは思う。だが、これで力になるなら構わない。いくらでも吐いてやる所存だ。
「……俺は信じる。ハインリッヒさんの無事を。アリアス。お前は信じられねぇの?」
「……信じる、信じるわよ……」
「じゃあ、もう泣き止め」
そう言うと、アリアスはゆっくりと俺から離れた。
もう泣き過ぎたのだろう、目元が真っ赤だ。
「……うん。分かった」
目尻に浮かぶ涙をごしごしと拭いてから、アリアスは俯きながらも言った。
うん、これなら大丈夫だろう。
「まだハインリッヒさんの姿見るのが辛いなら、テントに戻らなくても良いと思う。けど、祈ってはやってくれ」
「……うん、うん」
「じゃあ、俺はいくとこあるから」
「……うん」
アリアスは何度も頷いては、零れそうになる涙を拭いていた。だが、もうその顔は強い表情になっていて、しばらくしたら泣き止むだろう。
俺はアリアスに背中を向けて走り出す。
すでにフィリオの居場所は分かっているのだ。