第七十五話
――来る。
そう思って身構えた刹那、水の壁が堰を切ったように濁流となって俺たちに襲いかかる。
「《エアロ》!」
俺は反射的に近い動きで魔法を発動し、水をせき止めた。目の前で水が凄まじい勢いで叩きつけてくる。周囲も巻き添えにしているのだろう、へし折られた木々や、魔物の死体も迫ってきていた。
それらは、凄まじい圧力となり、展開した風が負けそうになる。
これは、マズいか!?
みんなを守るための壁を意識し過ぎたか、思ったよりも風が薄い。
ミスったな、と思っていると、俺の両隣にアマンダとエッジが立った。
「「風王壁っ!」」
展開したのは風の壁で、俺の風に合わせていく。
「風神壁っ!」
さらにメイが術を掛け合わせ、風が一気に水を押し戻していく。
これなら、耐えられるか。
「くそっ、セリナ、セリナァァァァァァアッ!」
その後ろで、シーナが喉を潰す勢いで叫び、俺も我に返る。
そうだ、セリナとポチは!?
探ると、気配はどんどんと遠ざかっていた。方角的に、湖の方だ。まずい、連れていかれてる!
俺だけならば脱出は出来る。だが、さすがにここでみんなを見捨てることも出来ない。かといって、このままセリナとポチを放っておくことも無理な話だ。
「なんなんだ、貴様、セリナになんの目的があって!」
シーナがシルエットに向かって吼える。
「ほほほほ、随分と愉しい声を上げる娘だな。思わず身体が悶えてしまいそうになった」
返事はいかにも悪趣味なものだった。
「特別に答えてやろう。我が目的は覇道を突き進むこと。良い加減湖で隠遁としているのは飽きたんでね。何一つとして進歩のない空間で過ごすのはもうゴメンってことだ。我ら程の力があれば、国の一つや二つ、自由に操れて当然だというのに」
う、虫唾が走る喋り方だな。
「あの耄碌したジジイは少しも動こうとしない。だから我が代わりにやってやるのさ。まずは手始めに王都を滅ぼし、我が手中に収める。そして王国を支配し、楽園とする」
まるで戯曲の語りのような、否、どこか演技臭い言い方だ。
気持悪さに吐き気までしそうだ。
今すぐにぶっ飛ばしてやりたいが、届いてくる声の感じからして、本人はここにはいない。恐らく、湖の奥にいるのだろう。そこから魔法を飛ばしてきている。
「その楽園に妻は必要不可欠だろう? まぁこの場合は見せしめの性奴隷だがな?」
「な、なんだとっ……!?」
「神に近しい存在に辱められるのだ、むしろ感謝してもらいたいぐらいだな? まぁその後は我が僕どもに提供してくれてやろう。その上で幸せを感じるように調教してやれば、あの娘も報われるだろう」
シーナが怒りで絶句する。
まぁ、同感だな。こんなクズが《神獣》として存在していたとは驚きだ。
いや、違うか。おそらくこいつのジジイが《神獣》だろう。大方コイツはその血縁――眷属だ。
日頃から大人しく過ごしていたが、その生活に飽きて跳ね返ったってところか?
だとしたら、随分と大掛かりなことをしてくれる。
そんなのに巻き込まれたこっちはたまったもんじゃない。
「何がどう報われるか知らんが……くそったれだな」
「ほほほほ、劣等種どもがどうほざいたところで、響きもせん。せめて我のところへ辿り着いてから申し立てするのだな?」
ようやく水の勢いが弱まり始めていた。
解放されたら一気に追い詰めてやる。
「分かった」
俺は煮えたぎる怒りを抑え込みながら、静かにそう宣言してやる。
「直接テメェんトコいってやるから、覚悟して待ってろよ」
「っ! ほほほほ! 人間風情がそう言うか! だったら辿り着いてみせよ! 我は湖の底、神湖底神殿に鎮座しているぞ!」
よっぽど自信があるのか、場所まで丁寧に言ってくれやがった。まぁ、そもそもポチの反応が感知出来ればどこにいるか分かるんだけど。
で、なるほど? 湖の底ならそもそも辿り着くことさえ出来ないと思っているのか。
上等だ。そんな腐った甘い考え、払拭してやる。
水が引いていく。まるで洪水にでも晒されたように周囲は水浸しになり、地面は泥まみれ、木々はへし折られて横たわっていて、ちょっとした惨状となっていた。
そんな破壊の痕跡のど真ん中で、俺はようやく魔法を解放する。
「セリナっ……! グラナダ殿、どうする?」
「どうするもこうするも、すぐに向かう」
通常であれば、学園の防衛を維持している上層部に報告し、然るべき対処の判断を仰ぐべきなのだろう。
だが、この状況下でどれだけの人員が割けるのか。
戦いは至る所で行われていて、ギリギリもいいところだ。
もちろん学園を通り越して王へ直接報告する手段もあるが、それをしたところで俺にやれと言われるのがオチである。結果が分かっているのに、そんな手間を挟む理由が分からない。
「セリナは仲間だ。このまま指をくわえて誰かが助けてくれるのを待つなんてゴメンだ」
もしその力が無いのであればそうするしかないのだろうが、今の俺にはある。
それに、今回は俺の不始末でもある。
咄嗟に《真・神威》を放ったが、他にも防ぐ手立てはあったはずだ。それをしなかったのは単に俺の驕りがあったからに過ぎない。
だったら、俺が助けるのが道理である。
俺はちらりとセリナがテイムした魔物たちを見る。主人がいなくなって狼狽している様子だ。
コイツらはセリナの言う事しか聞かない。この状況では戦うことさえ厳しいだろう。
「とはいえ、森からやってくる魔物の間引きもあるし、コイツらも放ってはおけないだろう。セリナは俺とメイで助けに行く。シーナ、悪いけどアマンダとエッジと残ってくれ」
「グラナダ殿!?」
「助けにいきたいって気持ちは分かるけど、敵のいる場所が場所だ」
抗議を上げるシーナに、俺は苦い顔をぶつけた。
「相手は湖の底だ。かなり強引に突っ込むことになる。だから連れていけるのは二人までだ。でも、帰りのことも考えないといけないだろ?」
帰りはセリナとポチを連れて戻るのである。ポチは抱きかかえれば構わないが、セリナの席を確保しておかなければならない。
「ぐっ……!」
「それにセリナが戻ってきて、コイツらがいなかったらセリナはどう思う?」
畳みかけるように言うと、シーナは唇をかみしめながら、拳を強く握った。理性で衝動を必死に抑え込む様に俯く。
そして、シーナかメイか、どっちをパートナーにするかと言われれば、俺は迷いなくメイを選ぶ。強さもそうだが、メイとはもう息をするように連携が取れるのだ。
「……分かった。セリナを……頼む」
「任せろ」
俺は力強く頷いた。
それからアマンダとエッジを見る。言うまでもなく、自分のやるべきことは理解しているようだ。ただ視線を交わしただけで頷き返してくる。
これなら脅してハッパかける必要はないな。
「よし、じゃあメイ、行くぞ」
「はい。ご主人様。メイはどこまでも」
しっかりと頷くメイも分かっている様子だ。
よーし。じゃあ行くとしますか。とっととぶっ飛ばさないとな。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――ポチ――
これは困ったことになった。
私は思わずため息をついてしまう。私はセリナと一緒にレスタとかいうヴァータの眷属に捕縛されていた。
私たちを包む泡の膜は非常に頑強で、口惜しいが今の私では貫通させることは出来ない。
全盛の身体であれば、紙切れのように引き裂いてくれるものを。
とはいえ、ないものねだりは思考を停滞させて狂わせる。
泡は高速で移動している。魔力で誘導されているのだ。向かうのは湖の底だ。
私は落ち着かせるようにセリナへすり寄った。
見た目通り、私はもふもふだ。抱き心地は最高、誰もが癒される存在である。自分で言っていて悲しくなるが、私に異常なまでな固執を見せつけてくる輩も二人ほどいるのだからそうなのだろう。
「ポチ、私を励ましてくれるんですねぇ」
言いながらセリナは私を優しく抱き上げる。
この娘は、さっきの主とレスタのやり取りを耳にしている。口にしたくもないような汚い言葉で、汚い行為をされようとしているのだ。怖がって当然なのだが――。
まったく怖がってないな、この娘は。
否、心の底では恐怖に駆られているのだろうが、表に一切出してこないのか。
随分と強い、というか、信頼しているのか?
「大丈夫ですねぇ。あんなバカみたいなこと言われてますけど」
いつものように微笑みながら、セリナは私をゆっくりと撫でる。
「ちゃんとグラナダ様は助けてくれますねぇ」
「ほう、随分と信頼しているようだな、あんな劣等種に」
声が反響して届いてくる。
「ええ。大丈夫ですよ。それよりも、覚悟しておいた方がいいですねぇ?」
セリナはにこやかに言う。
「あなたはグラナダ様を怒らせました。どんな目にあっても知りませんねぇ」
「ほほほほ! この神に近しい我に、あんなものが勝てるはずがなかろう?」
「そう言ってられるのが華というものですねぇ」
セリナはそうころころと笑った。そこには、主への絶対的な信頼があった。