由縁
タクトは走って逃げた。家に帰るや否や服を脱ぎ捨てシャワーを浴びた。体中を入念に洗って、きれいにした後はしばらく頭からシャワーを受け続けた。ほとんど水に近いぬるま湯で体はすっきりしたけれども、しかし心にまだくすぶるものがあった。体の中に残る気持ちの悪さを振り払うためゲームに没頭した。格闘ゲーム、アクションゲーム、レースゲーム、シューティングゲーム、自分が持っているソフトは全部やってみた。それでも心の中がすっきりするけはいすらなかった。やはりゲームは解決できない。タクトはため息をついて、眠りに体を預けようと考えた。
いざベッドに横たわってまぶたが閉じられるのを待ってはみたが、兆しさえ訪れなかった。無理やり目を閉じて眠気を引っ張りだそうにも、引っ張るひもが見当たらない。あるのは血の色だけだった。これからタクトが行わなければならない行為の結末に見るだろう色だ。実に想像にたやすい色である。簡単に頭で思い描けるがために、眠るよりも先に頭がその色に舵を切ってしまうのだ。
タクトは必死に目をつぶって、今度は心を無にするのに努めた。ヨシワラがつぶやいた激しい言葉には無力だったのと同じように今回も無理だと思っていながらも力を尽くすのは、もはや逃れる手が考えられないからだった。
自分の体がなにもない真っ暗な空間に落ちてゆくイメージでほかの雑念を振り払おうとしていたら、ふいに肩に触れるものがあった。漆黒の世界から意識を引っ張り上げて目を開ければ、見下ろすアヤメの顔があった。
「眠りに身を預けるのはよきことであります」
「ですが、眠れそうにもありません。どちらにせよだれかを殺さなきゃいけないと考えたら、全然」
「殺すのではありませぬ、願いをなすのだとお考えになれば多少は気も和らぐものです」
「それでも、殺さなければいけないんでしょう?」
「少なくとも、タクト様が考えているようなやり方ではありませぬ」
アヤメは胸の上に容器を突き立てた。表面に複雑な文様のあるガラス瓶で、ラベルにテキーラとアルファベットで記されていて、パーセンテージの表示があるところ、これも酒らしかった。中には透明の液体が半分ほど残っていて、タクトの呼吸に合わせてかすかに揺れていた。
「この中に入っているのは穢れた水であります」
「穢れた水、ですか」
「わたくしがあの者の呪詛をこの水にこめたのです。この水を呪詛の相手に飲ませれば、呪詛通りとなるでしょう」
「毒殺ってことじゃないですか」
「いいえ、この水に入っているのは呪詛であり、毒ではありませぬ。事実、わたくしやタクト様が飲んだとしても、なんら問題は起きませぬ」
アヤメは瓶のふたを開けると、そのまま自身の口へと運んで、瓶を傾けた。アヤメの頬が膨らんで、瓶を離してから引っこめた。喉がかすかに動いて、アヤメがそれを飲みこんだのを知った。
タクトは毒を口にしたアヤメをじっと見つめた。平然と瓶のふたを閉めて、それをタクトの胸ではなくて座卓の上に置いて、タクトの方へ顔を戻してほほえみをたたえても、毒が効いた様子は一切なかった。毒ではない、アヤメの言葉が正しかった。
「確か、水を清めるのは難しいとか、話してませんでしたっけ」
「清めるのは難しいのですが、穢すのはわたくしにとってはたやすいものであります。わたくしが司るのは呪詛であり、穢れでありますゆえ」
「ああ、それはもっともですね」
さようでございます、アヤメの言葉でやり取りが止まった。人の注意をひくような中断ではなくて、ごく自然な流れの途切れだった。なんら奇妙さはないのだから、不意に訪れた静けさに違和感を覚える必要はない。けれども、アヤメは違うようだった。ほほ笑んでタクトを見下ろしてはいる一方で、口がかすかに開いたり閉じたりで、なにか口の中に吐き出したいものを入れているかのようだった。
別段気にせず天井に目を向けていたタクトだって、横でもぐもぐされていては気になって仕方がない。顔こそは向けなかったけれども、目だけは自身の好奇心に従った。なにか言いたそうな口は口を開いて言葉をうみだそうとするけれども、途端になにかが邪魔をして口をふさいでしまう。アヤメの内なるところでの押し問答を三回ほど垣間見たところでアヤメが視線に気づいたようで、開きかけていた口があっという間に閉ざされて、横に顔を向けてしまった。
ごく自然だった沈黙がいよいよぎくしゃくした、気持ちの悪いものとなってしまった。なにか地雷でも踏んでしまったかもしれない、タクトは慌てて目を逸らして、それでも足りなさそうだから体をよじってアヤメに背を向けてみたけれども、はたしてそれが意味ある行動なのかといえば、全くの無駄だった。アヤメを視界から消したところで余計にアヤメの存在を意識してしまって、カルメ焼きのように頭の中で膨らんだ。
このままなにも聞かずに終わってしまうのに耐えかねて、タクトは寝返りでアヤメに向いた。なにか話したそうな顔をしている、と言葉にしてみれば、あの、その、と短い言葉を連発して、あからさまに戸惑っている様子だった。またもやタクトのいない方へ顔を向けてしばらく、顔を戻さずに言葉を返してきた。こういうことを、申し上げてよいのか分からぬのですが。ここでまた言葉が途切れて、口のあたりで押し問答が繰り広げられた。アヤメは問答を『あの』との声で破って、タクトを見据えた。ほほ笑みはどこかへ消え去ってしまっていた。
「もしよければ、わたくしがここにおります。これで安心して眠れるかどうかは分かりませぬが、おそばにいさせてくださいまし」
「それは構いませんが、まさかそれを言うのにもじもじさせてたんですか」
「その、わたくし、こういったことをしたことがありませんで、気分を害されるのではと思って怯えていたのであります」
「今までだれかが仕えていたのだから、ひとりかふたりくらい俺と同じようなザマになる人だっているでしょうに」
「いいえ、タクト様のような方ははじめてなのです。わたくしに仕えてきた者どもはみな、呪詛の成就を喜んでおりました」
「物騒な神官たちですね。自分たちが人を不幸にしているのを分かってないのではありませんか」
「神官たちの働きによって喜ぶ者もおります」
「それでも、呪詛を実行しているのだから、多少の呵責はあるでしょう」
「いいえ、むしろ、神官たちは熱心でした。呪詛を成し遂げなければならぬという強い意志がありましたゆえ」
タクトにはおかしく感じられた。かつての神官たちは、どうして人を貶めるのを是としてやる気に燃えたというのだろう。昔の日本人はそんなに人を不幸にするのを楽しんでいたというのだろうか。そして人を不幸にするような――アヤメには悪い言い回しではあるが――神様に仕えようとする人がいた時代とはどれだけ殺伐としているのであろう。タクトの価値観やら考え方とは全く違う人々であるのは間違いなさそうではあるけれど、恐ろしく思えるのは、異民族にも思える人たちが、かつてこの界隈に生活していた点だった。
実はですね、とアヤメが打ち明け話を始めるのはなんだか新鮮だった。アヤメと出会ってからはいくつか人間の尺度では理解しようのない出来事がいくつかあったけれども、どれも説明はなくて、半ば置いてけぼりの感が否めなかった。でもここではじめて、アヤメはタクトを置いてはいかなかった。アヤメがタクトに歩幅を合わせて語ったのは、小さい社の成立についてで、アヤメが明かすには、急ごしらえのものだという。
「だからあんなに神様を祭っているとは思えないような有様なわけですね」
「恥ずかしながら、さようであります」
「ですが、急ごしらえって、そんなに急いで祠をつくることがありますか」
「簡単なこと、戦であります。敵が攻めこんで来ようというとき、敵には到底かなわないと知っていたとき、者どもは人智を超えたものに頼らざるを得ないのです」
「で、呪詛を扱う場所がなかったからあわててつくったと」
「場所だけではありません。神もつくったのであります」
「それはいまいちピンときません。神はつくれるものなのですか」
「わたくしは存じませんが、事実、わたくしが呪詛を司っている以上、存在しているのでしょう。わたくしはこの界隈に住む神社の娘でした。先祖代々、五穀豊穣を司る神に仕えておりました」
人が神になる。タクトには全く想像できなかったし、理解もできなかった。まず、人が神になれるとは想像できなかった。そもそも、人と神が別の存在であって、ちょっとしたなにかで変化できるような存在であるとは考えられなかった。最も分からないのがアヤメ自身についてだった。どうしてそんな恐ろしい力のために人間ではなく神になろうとしたのだろうか。
タクトの口から自然と出てきたのは、アヤメの神になったいきさつの質問だった。
「わたくしがまだ人であったころ、女とあればその務めは子を産み育てることでありました。わたくしの母のように、家庭では主導権を握っていた者はいましたでしょうが、人前で女が強く出るということがなかったのです。わたくしは、それが、嫌だったのです」
「だからって、呪詛を司る神にならなくても、別の道を模索できたはずでしょう」
「ちょうど道を探っていた矢先に、この話がありました。だれか敵勢を撃ち滅ぼすために、社に坐するものはおらぬか、という言葉は、わたくしを突き動かしたのです」
「じゃあ、そのときは呪詛を扱うだなんて思ってもいなかった」
「さようであります。ですが、わたくしが戦のために力をふるっていると考えれば、それはやる気も奮い立つのです。なにせ、戦は女の関われる場所ではないのですから」
「じゃあ、戦が終わった後はどうだったのですか」
「はじめは称賛と感謝が続いておりましたが」
アヤメの言葉が止まった。視線を外すしぐさをしないところ、話すのに後ろめたさはなさそうではあったが、言いづらそうであるのは確かだった。言葉を選んでいるような、あるいは、しっくりくる言葉を探しているような感じだった。タクトをじっと見据えているのが見慣れなくて、タクトの方が目を逸らしてしまうほどだった。
ついに言葉を見つけたのか、はじめは、と同じ言葉を口にした。
「続いておりましたが、次第に大義を失ったのです。戦に勝利をもたらすという大義がなくなってのち、わたくしに預けられる呪詛はどれも、私欲にまみれるようになったのです」
「呪詛というか、呪いなんてどれも私欲の塊だと思いますが」
「いいえ、戦の呪詛は、勝利のため、守るために必要だったのです。ですが事後の呪詛は、恨みを晴らすため、つまりはだれも守りはせぬのです」
「そもそも呪詛を戦で勝つために使うことが間違っていたとは」
「今ではそのように考えられはしますが、当時は呪詛に頼るしかなかったのであります」
アヤメは言葉に窮してタクトの顔を見据えたまま固まった。またの熱い視線にタクトは自分の手を見ようと顔を動かすも、その手を握りしめられてしまった。タクトにはあまりにも突拍子もなくて、予想だにしようがなかった。反射的に手をのけようとはしないで、代わりに口が出た。どうしたんですか、なんだか変ですよ。
「わたくしは呪詛を司る神となってから、友だった者の話を聞いたことがあるのです。男の人と結ばれて、子に恵まれた、と。直接伺ったわけではありませぬ、呪詛の神に話でもすれば、嫉妬されて子供に呪詛が降りかかるとでも思ったのでしょう。風のうわさで知りました」
「いきなりな話題でついていけないのですが」
「申し訳ありませぬ、わたくし、話さずにはいられぬのです。かつてのどの神官にも伝えたことなき身の上でございまして、いっそ洗いざらい打ち明けてしまいたいのです。苦しくてたまらないのです」
アヤメの握りしめる力がじりじりと強くなった。タクトの手を包みこまんとするかのように手を胸元に巻きこみ、身を曲げた。アヤメの胸にタクトの手が触れれば、アヤメは体の中に手を押しこむような勢いで押しつける。けれども体の中に手が入りこんでしまうなんて展開はなく、ただ力が強くなるのを手に感じるのみだった。