呪をなくす方法
手を握られたまま、胸に押しつけられたまま、タクトはアヤメの身の上話につきあった。昔の人間だったアヤメがどういうことをしていたのか、アヤメが神として臨んだ戦がどうであったか、戦なきのちに人々から預かった呪詛がどのようなものであったか。タクトは聞き手に徹した。耳を覆って目をつぶりたくなるようなおぞましい話が繰り返されるばかりだった――アヤメはおぞましい呪詛が成就する瞬間を始終眺めていたという――が、タクトはアヤメの目を見据えて、自由な左手をアヤメの手に重ねてさえいた。だがタクトの心に深く刻みこまれたのは、アヤメの言う私欲にまみれた呪詛を扱うようになってから知ったというかつての友人の様子と、これを知ったアヤメの気持ちだった。友人が娶られて子供をもうけたと知って、アヤメは自分自身が孤独になったことを悟ったのだという。わたくしは神となることで当時の女ではできないことができるようになった一方で、人間なら持ちうるもの全て、友、頼る存在、わたくしの子供、これらすべてを失ったのです。アヤメのどこか傍観者じみたこの言葉が、タクトの頭をしたたか叩いた。
そんなわけで、学校へはすっかり寝不足で行くこととなってしまい、午前中の授業の半分は寝ていて、もう半分は意識もうろうというありさまだった。それでもヨシワラの後姿を観察するのはやめなかった。ぼんやりとした意識の中でヨシワラの髪の毛を眺める。ぼやけていて毛が一本一本の独立したものとしては見えずに、絵の具やらマジックでべた塗りしたような色合いに感じられた。目から入る光景のみならず、耳に入って来る音までぼんやりとしていた。教師の授業の声も雑談も同じ鍋に入れてぐちゃぐちゃにかき回した音が耳に流し込まれて、ときどき鋭い言葉が紛れる。数学の解答を解説してる言葉の破片だったり、たわいない雑談の欠片だった。中には、ボーっとした頭のせいで確信は持てなかったが、聞き覚えのない声で、苦しい、とうめく声が聞こえた気がした。
昼休みを迎えるころになればもうろうとした頭も多少は光を取り戻して、意識的にものを考えられるほどとなった。とはいえまだ込み入った数学の問題やら抽象的な国語の問題を解くにはまだまだ頭は足らない。せいぜい周りにあるものを見てなにか感じる程度だった。具体的に考えるのが難しかった。
タクトはヨシワラが席を立ってどこかへ行くのを見送って、今日もまたどこかへ行ってしまった、という印象を抱えた。それ以上の考えをそのふわふわした雲の中に漂うタクトにはできなくて、まぶたの途方もない重さに負けてしまった。考える力がわずかばかりでも戻ってきたのはちょっとした悪あがきのようなもので、結局タクトの頭には、考えるに足るだけの余力はなかったのである。
そうして昼休みも睡眠に捧げたクトだったが、いつ頭の回転が戻ってきたかというと、全ての授業が終わってからだった。担任からの事務連絡を耳にするタクトの頭は、事務連絡を聞くにはもったいないほど頭が澄み渡っていて、事実タクト自身は頭のほとんどを一点に集中稼働させていた。
ヨシワラの背中だ。大浴場の中で響いているようなチャイムにかすかながらまぶたが開いたとき、ヨシワラの髪の毛は席に座っていた。まるで休み時間の中ではもっとも特別な時間にひたる教室から逃げ出すようだった。
タクトの主たる関心は、呪詛を取り消せる可能性についてだった。アヤメは呪詛を行わないとすることはできると答えていて、その段階でもう詰んでしまっているように思えたのだけれど、やはり呪詛そのものを消す方法がないわけではないと確信めいたものを感じていた。呪詛を願った本人が呪詛を望まなくなったらどうなるのだろう? 神社に願いを乞うことで呪詛は成立する。つまりは願い手の強い気持ちが呪詛を形成している。では強い気持ちがなくなってしまったら、呪詛を形づくる要素はどこにあるのだろう。すぐになくなることはないとしても、大きくなりはしないはずである。供給源を失ったものは消費してなくなるのが世の理、胃の中の食べ物からガソリンまでが従っている決まりごとだ。呪詛は人智を超えた事柄ではあるけれども、呪詛を作り出すのは人間の力であるから人間世界の法則に従ってもよかろう。
ヨシワラは今日もまた社を訪れて、静かに復讐を願っていた。わら人形がもうひとり増えて、かつての紙人形のように真っ二つにされていた。ただし、縦に真っ二つではなく、横に真っ二つ、腹のあたりで切断されていた。タクトは前回と同様岩の陰に隠れて物事が終わるのを待っていた。ヨシワラの帰り際、どういうわけか鼻歌を歌っていた。岩に隠れていても分かるぐらい大げさな鼻歌ではあったけれども、なんの曲なのかまでは分からなかった。
夜の足音が近づく境内で、白砂利の感触を確かめながらタクトはタクトの推理を確かめた。
「まさか、願いをなかったことにしようと考えておられるのですか」
「そういうことは、やっぱり呪詛そのものを取り消すなんて無理なんですね」
「いえ、タクト様の考えは正しいと思われます。ただ、呪詛を願っている者が呪詛を願わなくなるとは無謀なことに思えるのです」
「ですが、やらないわけにはいかないでしょう。俺は呪詛を成就させたいとは思ってないんです。だからといって呪詛を返したくもないのです。呪詛そのものを消す、このためには説得するしかないんでしょう?」
「タクト様がそれを望んでおられるのならば。わたくしには呪詛を成就させる力しかありませぬゆえ」
アヤメは新しいわら人形を手に、タクトのすぐ近くに迫っていた。足元には白砂利があるけれども、剣山が耳に突き刺さってくるような音は全く飛び上がってこなかった。どうやら人間が神になると体が発泡スチロール並みの軽さになってしまうらしい。人間の尺度で分からないことだらけなのは知っていたが、体重までも人間の範疇に当てはまらないとは、なんだか自分の思い描いていたことを簡単に飛び越えていってしまった。
タクトの推理が正しかったのははっきりした。ヨシワラを説得して、まがまがしい力の源を断ち切りさえすれば、タクトはだれの命をも失わずに済むのだ。失わないどころか、タクトの中に渦巻く苦しみをも解き放ってくれる。今後同じようなことを願われてしまうかもしれない、そのときにヨシワラとの経験が生きるのである。説得して、呪詛を取り消させる、そうすれば――タクトはふと素朴な疑問に立ち止まった。どうすれば呪詛を取り消させられるのだろう。
アヤメに尋ねてみれば、ただ単純、社の前で本人から呪詛の取り消しを申し出ればそれまでだという答えだった。呪詛を祈るのには時間がかかるというのに、ただ、願いを取り消します、と口にするだけで解消されてしまうとは、なんとあっけないことか。ヨシワラの殺人依頼の願いも、たったの一言で済まされてしまうということではないか。
「そんな簡単でいいんですか? もっとこう、正式な儀式のようなものがあったり、修行みたいなことをしたりはしないんですか」
「どうして簡単だと口にできるのでしょう。取り消しの申し出の際には、願いを乞うた者の心の中に、一切の邪念があってはならぬのです。心の底から呪詛となる願いを否定しなければ取り消しはできませぬ。少しでも願いの念が交じってはならぬのです」
「説得さえすればいいんですよね」
「そうとは限りませぬ。たとえ説得に同意されていても、者が納得されていなければ結果は同じであります」
思ったよりも説得するのには時間がかかりそうだったが、タクトには諦めるという考えはなかった。それどころか自分にはなんとかできるだろうという期待と自信があった。なんとなくイメージができたからだった。ろくに話をしたことのない人を相手に前向きな想像ができるのはいささか奇妙だとタクト自身も思ったけれども、タクトはそれを信じた。頭の中で自分とヨシワラが対峙しているのを再び思い描いて、説得してみれば同じ結果となった。具体的にどういう言葉で説得したのかは全く頭の中のやり取りには含まれていなかった。