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お参り

 家に帰ってから部屋をこっそり覗き込んでみたらやはりいなくて、どこかに消えてしまったのは間違いなかった。けれども、朝になってから確かめてみれば、さもずっとそこにいたかのように布団の中で目をつぶっていた。起きている間はずっと、アヤメと話をしていても、宿題をやっていても、窓の外への注意を欠いていなかった。だから、サチ姉が帰ってくるとすれば、寝静まったあとしかない。タクトはそうと考えていて、だからこそ今のサチ姉の体調が気になって仕方がなかった。
 でも、『長いこと』外にいたのならば、身体を休めなければならない。酷使したサチ姉に根掘り葉掘り聞くのはむしろサチ姉につらい思いをさせてしまう。タクトはなにも問いかけたりはしないで、黙って家を出た。
 土曜日で学校は休み、タクトは朝からアヤメの祠に行った。いろんな道具を運んで行ったために下り参道はなかなか脚にこたえた。園芸道具一式をバッグに入れ、アヤメにモルタルを持たせて、腐葉土とかレンガを台車に載せてくる重装備だったから、下り参道を下りるだけで汗がびっしょりになった。土日二日分の道具を持ってきたのだから当然といえば当然だった。
 タクトが境内に入って最初に気づいたのが、参道の階段から祠に至るまでの石畳が、まさに新品のようにきれいになっていた点だった。掃除をしたときにはいくつかひびの入った石があったけれども、目の前の石畳にはそれがなかった。石を覆い包む苔の緑もまたすっかりと消え去っていた。ブラシで徹底的に磨いたあとのようだった。
 アヤメによれば、小学生の呪詛がなされたからだという。アヤメの社で呪詛を願って、それが成就すれば、それが今までで弱まってしまった社や神としての力を回復できる。力が全快すれば、神の力を伸ばすこともできる。
 神様の世界も大変なのだな、タクトが感じたのはごく簡単なことだった。信仰されず、神に願いがなければ力がどんどんなくなって、神の住処もボロボロに朽ちてゆく。そうして住処の跡形もなくなってしまう。目の前にある朽ちかけの祠もきっとタクトがいなければそのような道筋をたどることとなるのだろう。神代を頼んだとき、アヤメは気が気ではなかったに違いない。
 この土日の間にタクトが絶対に成し遂げたいことは、まずは花壇を完成させることで、次に未完成の白砂利を入れる範囲を決めることだった。レンガを積み上げ、花を植えるための土を作れば持ってきたものの大半はなくなるはずである。レンガを積んで、そこら辺の土と腐葉土やらを混ぜこんで花壇を埋める。余った時間で、祠の周りで土が露わになっている一帯を整地して白砂利を敷きつめられるように整えて、レンガで範囲を囲ってやれば、次回に大量の砂利を運ぶことができる。
 タクトの中で、なんとなく左側に花壇があるのがよいと思っていて、大きさも左側一帯を占領するようなものよりも小ぢんまりとした、自治会の集まりで作っているようなサイズの花壇がお似合いだと感じていた。
 まずはレンガを四方に置いて大きさを決める。自分の中でよい塩梅になったところでアヤメに確認してもらって、タクト様にお任せします、という言葉を浴びせかけられる。案の定、といったところだけれども、改めて口にされると思わずため息が出てしまう。アヤメはどうも、着飾るだとかきれいなものに囲まれるといったことに関心がないらしかった。
今日も今日で着物の肩がはだけていた。
 タクトは自分でしっくりくる大きさに土台の煉瓦を並べて、石畳まで後ずさりして、全体を確かめた。頭の中のイメージが目の前の土台と重なって、満足げにうなずいた。さあこれからレンガを積む、となるけれども、その前にモルタルに水を加えて練る必要があった。
 タライにモルタルを一袋ぶちまけて、持参したペットボトルから水を流してやろうと白いキャップを開けた。ペットボトルを傾けて、いざ練ろうというそのときに、耳元でアヤメの声があった。だれか来ます。
 前と同じようにオンボロ祠の後ろに隠れてみたものの、園芸道具が散乱しているからあまり意味がないとしか思えなかった。タクトはペットボトルのキャップを閉めて、タライの中の灰色に目をやっていた。
 来ました、というアヤメの声にタクトはモルタルに向けていた目を戻した。社に背中を張りつけて、息を抑えた。アヤメは相変わらず、正々堂々と正面から見えるだろう場所に立っていた。
 お金を投げる音が、祠にぶつかって、それから石畳にぶつかった。音のない時間が少しだけあって、拍手が二回。ちょっとだけの間ののちに、男の子の声がやってきた。今日謝ってくれてこれからはあんなことをしないと誓ってくれました、ありがとうございました。男の子はすると、タクトが川に落とした子がどういう口調で謝罪の言葉を口にしたのか、どういった態度で謝ってきたのか、こと細かに話しだした。呪詛を願っているときのそれとは打って変わって饒舌で、川の流れのように言葉が飛び出してきた。その手の感知能力のないタクトでも、その言葉に呪詛が交じっていないことは想像にたやすかった。
 最後に背後の男の子は土下座をしたいじめっ子はその後にどういう顔をして自分に近づいてきたのかをケラケラ笑いながら教えてくれた。話が終わって、久々に音がなくなったかと思えば、体が反射的に飛び上がってしまうほどの大声で、ありがとうございます! 石畳に軽やかな音が跳ねあがったところ、男の子はスキップあるいは走って境内を去っているのだろう。
 足音が消えてから、チラチラとタクトは参道の方を見上げて、男の子が参道からいなくなるのを見届けた。タクトやアヤメの仕事がひとつ片付いた瞬間ではあったけれども、タクトにはどうも素直に喜べないところがあった。というのはあの子の話しぶりにあった。いじめが終わったことは素直に喜べることだし、いじめをしていた相手に申し訳ない気持ちを持っていなくては困るのだけれども、だからといってあんなに気が大きくなっていてよいのだろうか。まるでこれからあの子がいじめていた子をいじめはじめるような気がしてならなかった。
 だが一方で、アヤメが口にした、とてもすっきりとなされました、顔色も見違えるようでした、という言葉には喜びを感じたのだった。不安な点はあるけれども、一時的に気分が高揚しているだけかもしれないし、明日になっていればクラスメートとしてふるまうことができるはずである。とにかく、いじめっ子に過ちを気づかせられたのだから。いじめが終わって友好が残れば、突き落としたことによる罪悪感も溶けてなくなるのだ。
「タクト様、ひとつ言葉添えですが、タクト様が呪詛を願った者どものその先を考える必要はありませぬ、ですから、不安を感じずに呪詛を成就させた自信を思い出してくださいますよう」
「ですが、どうしても、あの言葉づかいには不安を覚えてしまうのです」
「先ほどの童の言霊に呪詛は含まれておりませぬが」
「呪詛じゃありません。言葉に、人を傷つけるのをいとわないような雰囲気があったのです」
「さようでありますか。わたくしには分かりかねます」
「でしょうね」
 サチ姉のあの言葉が頭をよぎって、タクトには体にすっと浸みこんでゆくような、すんなりとした納得を覚えた。人間以外は必然で行動する、人間ではない神様も必然にそってふるまっているのである。アヤメも、呪詛を願われて、その呪詛が成就するよう行動する、ただそれだけなのだ。
 タクトは作業に戻り、慣れた手つきでモルタルを練ると、レンガ用のコテを手に、職人ばりの手さばきでレンガを積み上げていった。時折コテを手放すときがあったが、大抵が四隅の煉瓦を切る作業に取り掛かるときだった。
 あっという間にレンガの壁が出来上がった。とはいえ、モルタルが固まるのを待たなければならないわけで、ひとまず土づくりに使う腐葉土やら肥料の袋を空っぽの花壇に入れておいた。道具をきれいにしてから、ほかにすることは、白砂利のための仕切りをレンガで作るだけだ。
 やり方は簡単だ。境界線に沿って少し地面を掘って、レンガを二段積み上げる。それを延々と繰り返して、祠周辺を囲ってから、土がむき出しとなっている一角に白い砂利をまき散らせばそれでよい。今日のうちに囲いまでは積み終えたかった。
 一段目を置き終わって、二段目のレンガとコテを手にモルタルをサンドイッチにする。モルタルを押しつぶすようにおいてから、水平器を手にして、レンガの水平を確かめる。曲がっていれば、コテの尻でたたいて調整。見てくれは単純ではあるけれども、モルタルを塗ってレンガを置いて水平器の泡を見つめる、なかなか手間のかかる作業だった。
 ひたすらレンガを積みまくっていたら、レンガ製の万里の長城が三分の一ほど地面を這っていた。タクトはこの手の単純にして緻密な作業に没頭しやすいタチだった。腹はすいていなかったし、地面ばっかりを見ていたから大まかな時間さえ分からなかった。とりあえず太陽が雲をさえぎっていないのだけは分かっていた。
 どうやら一心不乱なタクトにアヤメは狂人じみたところを感じたのか、黙々とえんじ色の塊をいじくるその後ろ姿に、ついに言葉を発した。休憩はなさらなくてよいのですか。けれども最初はタクトの耳には届かなくて、手が止まらなかった。背中をじっと見つめて少しばかり、もう一度言葉を出してみる。タクト様、あの――そこでようやくタクトの手が止まり、顔がアヤメに振り向いたのだった。
「いったん休憩をなさった方が、よろしいのではと思うのですが」
「そんなにずっとやってましたか」
「もうお天道さまがてっぺんにのぼっております」
「お言葉はありがたいですけど、早く終わらせないとモルタルが固まっちゃうんですよ。ですから、いまタライに残っている分がなくなったら休みますよ」
 タクトはアヤメの言葉を振り払って、レンガ積みに戻った。モルタルはあと握りこぶし二つ分ほどの量しか残っていない。量が少なくなればその分固まりやすくもなる。せいぜいあと五つほど積めば休憩にできるだろう。
 三つ目を終えて、モルタルも残りわずかとなったところでアヤメがタクトを急かしはじめた。四つ目の部分にモルタルを塗りながら理由を尋ねれば、だれかが黒鳥居をくぐったから、だと答えた。タクトはすぐにあの男の子が戻ってきたのだと思ったけれども、そうではないようだった。アヤメが、ひどい言霊を抱えていらっしゃる、と漏らしたからだった。
 手早く残りのモルタルを塗りたくってレンガを乗せて、すぐに社の陰に隠れた。レンガコテは手にしたまま、もう一方の手には布きれを手にしていた。こびりついたモルタルを取り除くための布で、すでに乾きかけのモルタルがこびりついていた。
 コテのモルタルをふき取るのは手に任せていて、胸から上はすっかり来る呪詛の源に備えていた。耳をそばだてて、石段を降りるその足音ひとつも聞き逃すまいと構えていると、スニーカーやランニングシューズのような粘り気のある音ではなく、歯切れのよい音が耳を叩いた。これは革靴だ。革靴のかかとと石畳が交わって音が跳ねている。
 足音は祠に一直線だった。タクトの背後すぐのところで足音が途絶えて、代わりにチャリーン。男の子もやっていたような音の連なりが続いた。二無音、二拍手、一無音。しいんと静まり返った境内の中が緊張感に満ちる。タクトは息を殺して、足音が願いごとをささげ終わるのを待った。
 先の少年のときとは全く異なり、我を見失って呪詛を叫びまくるという行いはなかった。ただ、やたら沈黙が長かった。おそらくは延々と目をつぶって、朽ちかけの祠を前に、自らの呪詛を生み出している。
 背後の人の祈りは太陽が傾いてもなお終わるけはいがなかった。ずっと静かなまま、あし音ひとつ出さないところ、微動だにせず祈っているようだ。なんて終わりのない呪詛なのか! まだ願いごとを捧げ終えていないなんて、どんなに恨めしい思いをしているのか、タクトにはいまいちぴんと来なかった。
 拍手がふたつ聞こえて、ついに願いの言葉が終わったことを知った。ふとアヤメに目を向ければ落ち着いた顔つきとは少し違って口元がこわばっていた。呪詛を司る神様が顔を引きつらせるほどのそれとはどれほどのものか。この先、タクトは恐ろしいほどの呪詛を実行に移さなければならないのをほのめかしていた。
 嫌な予感が頭をよぎったとときと同じくして、耳を貫く声があった。不意の音で、かつての少年のようにわめき散らす調子ではなかったけれども、女の声の威力は絶大だった。タクトはみぞおちを殴られたように息ができなくなった。
 トモを殺せ。
 タクトが耳にした言葉はたったこれだけで、残りは境内を離れる足音の乾いた響きだけだった。やってくるときの音をまんま逆再生していると思えるぐらいに、音も同じ調子で、間隔も同じテンポだった。
 完全に音がなくなってもタクトは動けなかった。殺せ、たった三つの音のためにタクトは体を動かす気力さえ失っていた。殺せ、そう女はこの社に願った。社の神アヤメはその願いを必ず成就するようにする力を持つだけだ。そして、この成功が約束された願いを実行に移すのはタクトだ。
 アヤメの、女はいなくなりました、という言葉にも反応できず、モルタルがすっかり固まってカピカピになってしまった布きれを落とすぐらいしかできなかった。

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