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歩いている

 部屋の中にいる状態を母親に見つかることはなかったが、不幸なことに、部屋から出るまさにその瞬間を目の前で目撃されてしまった。腕をつかまれて扉から引きはがされるさまは、まるでドアがサチ姉そのものであるかのようで、一メートルほど突き放されたときには、母親はドアを守っていた。
 母親にとってタクトは、サチ姉を侵すウイルスかなにかだと思い込んでいるようだった。近づくんじゃない、入るんじゃない、何度言ったら分かるのよ。病床に臥する人の部屋の真ん前でキャンキャンわめいていた。
 まともに聞いたところでなにもないのを分かっていたから、適当にあしらって部屋に逃げこめば、アヤメがいつもの席で小さいグラスをあおっていた。右肩がいつものようにはだけていて、かたわらにはわら人形が体育座りをして、フラスコのような酒瓶を見つめていた。
 背後では扉をたたく音が背中を殴って、ドアもまた一緒くたになって、タクトを押し出そうとした。アヤメの存在が余計に母親の大声を助長させるのは目に見えていたから体重をかけてはみたけれども、ふと母親に神様は見えるのだろうかと思ったら、おそらくは中に立ち入らせても問題はなかろうことに気づいた。でもそのときには取り立ての女は殴る押すのをやめて、二度と入るな、と捨て台詞を吐いておとなしくなった。
 タクト様の母上様ですか、と尋ねるアヤメの顔は酒を口にしているとは思えないほど白い顔に、タクトは激しく首で拒んだ。あれは母親ではない、産んだのは間違いないだろうが、自分の母親ではない。いうなれば、サチ姉のお世話係で、ついでで自分の飯を作ったり家事をこなしたりしているのだ。アヤメの誤解を取り払おうかと思案してみて、それすらも面倒くさかったから、気にしないでくれ、と答えるほかなかった。
 それよりも、アヤメ相手に話さなければならないネタがタクトにはあった。もちろん、日中の自作自演について、である。あらかじめ見当はついていたけれども、やはり実際にあのザマとなれば不快感もひとしおだった。
「力が効いたかどうか教えてくれると言ったのに、どうして言わなかったんですか」
「タクト様が助けに向かわれたときは、まだわたくしの力が効いていなかったゆえ。タクト様がわたくしのもとを離れてしばらくしてから、成就を感じ取りました」
「でもあのままじゃ、大変なことになってたかもしれないんですよ」
「以前にも申しました通り、それはわたくしの及ぶところではありませぬ」
 小さいグラスに酒が注がれる。ふたを開けるときも、そそぐときも、キャップを閉めて座卓に戻すときも、音が全くしない静かな光景だった。座卓からグラスが離れる瞬間もふわっと浮き上がって、口に触れるやいなや一気に傾けた。グラスは空っぽ、アヤメは平然とした顔でそれを置いた。
「わたくしは呪詛を司るのです。人どもの生き死にを司っているわけではおりませぬ。神とはいえ、司るものでない以上、干渉をしてはならなぬのです」
「ならばせめて、どれぐらいで効くのかぐらいは分からないんですか。それがあれば、俺が先読みして行動できるんですが」
「できるとしても、感じ取れるのは曖昧模糊としたものであります。遠い、近いぐらいの感覚、そして呪詛が成就するときの感覚のみわたくしが感じ取ることができるのです」
「なんて中途半端な」
「その点はわたくしも鍛錬を続けてはおりますが、現状ではこれが精一杯なのです」
 アヤメは再び酒をあおった。見ているだけで酔いそうな飲みっぷりで、一杯のみならず、三杯も一気に流し込んだ。なんの気まぐれか、酒を注いだのは体育座りをしていたわら人形で、足元がおぼつかないでいた。いかにも重たそうな瓶をおろしたあとでもフラフラは止まらず、見るからに酔っ払っていた。シラフなアヤメとは対照的だった。
 わたくしは神としてはまだ未熟です。アヤメはそう口にして、自分がどれだけ神として修練を続けてきたかを淡々ともらした。しかしそれ以上に酒をあおりまくっていて、しゃべっている合間に酒を飲んでいるのか、酒を飲んでいる合間に喋っているのかよく分からなかった。酒は途中、フラフラなわら人形が、青白い角瓶と空き瓶を取り換えていた。初めは恐怖としか思わなかったわら人形が、今や不憫な子としか思えなかった。
「酒を飲むのはそれほどにしておいたらどうですか」
「わたくしは人間どものように、酒精で酔うことはありませぬゆえ、ご安心ください」
「いや、アヤメ様ではなく、そのわら人形さんが」
「あら、こんなにも酔ってしまわれておりましたか。お前がそのようでは致し方ありませぬ」
 アヤメは黒い帽子を青い瓶の頭にかぶせて、指先でその栓をひねった。テーブルの上にはお勤めが終わったわら人形が、ちょっとフラフラして、それから崩れ落ちた。さて酒をどう扱うのかと動きを待っていたら、座卓から床においただけだった。すぐそばで、前に残していった瓶が隠れ蓑の布から新入りを覗き見た。
 タクトにはもうひとつ、はっきりさせておかなければならないことがあった。これ以上高校生の部屋に酒瓶が増えるというのはあまりにも不審だ。どうにかしてもらわなければならなかった。
「あの、俺の部屋に酒瓶があるのはちょっと困るんで、アヤメ様で捨ててもらいたいんですが」
「なぜでしょう。瓶の存在がどうしてタクト様を困らせるのでしょうか」
「いや、未成年が酒瓶を持っている段階でおかしいですから。外に出てしまえば人っ子ひとり歩いていませんから問題はないでしょうけれど、家の中に置いておくのは、母親に見つかるかもしれないので」
「あの母上様ですか?」
「分かるでしょう。あのザマですから、俺の部屋で酒瓶を見ただけで怒り狂うに決まってます。絶対に俺の部屋に置いたままにしておかないでください」
「恐ろしい言霊の持ち主でありますゆえ、その点は賛同いたしましょう。でしたら、わたくしで片づけます。しかし、ひとつ疑問ですが、未成年とはなんでしょうか。それに、どうしてタクト様が酒を飲めないのか、わたくしには理解できませぬ」
 タクトは自分の常識のはるかかなたを飛び越えてゆくアヤメに口がふさがらなかった。未成年という言葉を知らない日本人がこの世にどれだけいることか。神様レベルの世間知らずは予想だにしていなかった。ずっとあの社を守っていたのだから、日本の常識ぐらいは分かっていて良いものだ――いいや、『未成年』は常識の初歩の初歩にもならない常識だ。
 タクトの説明はこの世でこれ以上噛み砕いたものはないぐらいのものであったが、アヤメにはどうも理解できないらしかった。年齢と酒が飲めないことの関係にピンと来ていない様子で、どうして二十の齢を越えていないと酒を飲んではならぬのでしょう、との問いかけには国が決めたこと、と答えたけれども、それは結局納得してくれなかった。とにかく俺の部屋に瓶を残さないでください、これだけを分からせることにした。
 とにかく、と訴えかけてしぶしぶアヤメが首を縦に振った。ひとまずこれで酒瓶の件については丸く収まりそうだった。タクトにとっては、ヒステリックマザーにガミガミわめかれる引き金が少しでも減るのが安心につながるのである。
 だが、安心はさらなる不安を掻き立てる。目に見えるものを排除できることになった頭が、今度は目に見えないものを考えはじめた。酒で、目に見えないもの。酒から立ち上るアルコールの匂い。外に吐き出さなければならない。これはアヤメに注文することもない、それに取り立てて難しいことはない、ただ窓を開ければよいだけである。
 タクトはすぐ左側のカーテンを開けて、それから窓を開けた。物音ひとつしない闇にサッシがサンを滑る音が非常に目立った。サッシの前に立ちはだかり、新しい空気を待ち構えて、次には深く息を吸う。鼻を通り抜ける空気はしんと澄み切っていて、新鮮なふうに思えた。それから部屋に振り向いて息をすれば、明らかに空気がにおった。
 これで酒については全く問題がない。ついに確信できるに至ったタクトは夜の人っ子いない――いないはずの光景を見に戻るだけの余裕があった。
 言葉を改めたのは、単にそのままでは誤りになってしまうからだ。タクトが外を見たそのとき、確かに人がいた。夜の暗がりの中をのそのそ歩く寝巻を見た。暗く見えるのを差し引いてみれば、パステル調の緑の、チェック柄である。ゆったりとした寝巻でもその恐ろしいほどの細さが分かるほどで、髪の毛はぼさぼさ、長さは肩甲骨にまで達していた。
 タクトはついさっき、その姿を見た。パステルグリーンの襟と腕、目の前の暗さと似た環境でみたのだから間違いない。けれども、タクトはその人がどのような状態なのかを知っていた。体はすっかり弱くて細くて、頭痛と強いだるさが体を支配している。昔ならまだしも、今は立ち上がった姿さえめったにない、たとえ部屋の中でも。
 タクトは身を乗り出してその姿が小さくなってゆくのをとらえた。
「どうかなさいましたか、タクト様」
「サチ姉が、サチ姉が歩いてる」
「さようでございましたか」
「サチ姉は病弱で今は外に出るなんてできないんです。なのに、目の前を歩いているんです」
「体の調子がよくなったのでありましょう、喜ぶべきことです」
「ちょっと様子を見てきます」
 タクトはいてもたってもいられなくなった。サチ姉が外に出るなんてただごとではない。ろくに立ち歩くことができないサチ姉が、自分の身体に鞭打って外に出るなんて。もし途中で歩けなくなって、立てなくなって、そうしたらどうするつもりなのだろうか。ろくに人のいないこのあたりで倒れたとき、誰が助けてくれよう? サチ姉も知っている連中か? だが、連中はサチ姉に触れられるわけがない。サチ姉に触れられるタクト自身が見つけなければならない、追いかけなければならない、タクトの本能が突き動かした。
 母親に見つからないよう、玄関ではなく自室の窓から外に出た。もちろん靴を取りに行く途中の廊下は差し足忍び足だ。アヤメに窓ガラスのカギはかけないよう言葉を投げつけて飛び出した。外に出てからは母親に見つかることもないので追いかけることに集中した。
 サチ姉は本当にゆっくりとした足取りだった。靴を持ってくる間に消えていた姿をあっという間にとらえて、外に出た途端に飛びだした勢いをすぐに殺さざるを得なかった。周りに隠れられるものが少ないがため、絶対に振り向かれたり、察知されては困る。連れて帰る分には問題はないけれど、つらい体を引きずってでも行きたい場所が気になって仕方がないのである。サチ姉が外に出ないで家の中にいるようになったのは、タクトが九歳か十歳のころだった。それからすでに七年も経っている。こんな日本の隅っこのような場所だからそう変わっていない部分もあるが、変わっている部分も紛れもなくある。はて、七年前の記憶でサチ姉はどこへ行こうとしているのだろう?
 電柱についた電灯が物寂しく道を照らしているところ、サチ姉は十字路を左手に曲がった。ちょうどタクトがわら人形に追いかけられて、帰りに逃げ切るためのルートとして使っていたところだった。まさか気づかれたのか、とタクトは額に汗がにじむのを感じたけれども、背中から姿をくらまそうと焦るようなそぶりは見られなかったし、歩くペースも早まっていなかった。気を取り直して十字路をサチ姉と同じように進み、後を追った。
 十字路の次は、右手に現れるちょっとした森のような一角。タクトも場所を通って、あるいは利用して、藁人形をまいた。サチ姉の姿は見えなくて、タクトはすぐに小森に入ったのだと勘づいた。耳をすませば、一定のリズムで枝が鳴っていた。地面に落ちた枝を踏みつけてしまっているのだ。
 小森の中はより暗さを増していて、立ち止まって目を凝らさなければ足元を確かめることができないほどだった。はるか向こう側に夜の明るさが樹々の間からこちらをのぞきこんでいるものの、中への侵入者ふたりを明るみにしようと中にとびこんでは来ないのである。
 タクトが動きを止める。目を閉じる。耳をすまして、足音を確かめる。辺りはしいんと静まり返っている。タクトは視覚を閉ざしたまま、耳たぶに手を当てて耳の目を開く。どんな音も逃すまいと、息をするのをやめてまで、サチ姉の足音を邪魔するものを取り払った。だが、一向に音が跳ねない。サチ姉がこの暗闇の中で倒れてしまった、と想像するも、音がしないというのはそれでも不自然だった。倒れたのならば、そのときにけたたましい音がするはずなのに、それさえもないのだから。
 タクトはこの森を抜けて奥の明るみに出るにはそれなりの距離があることも知っていた。だから、サチ姉のペースではまだ森の中にいなければならないのだ。可能性はひとつだけ、そもそもこの闇にサチ姉はいない。タクトの勘が見当違いだったのだ。

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