9話 諦め――ただし前向きな。
桜の言葉に、友とルフィーの目が見開く。
周囲はモノクロのままだった。
(『精霊の結界』が解けていない、終わってない……?)
周囲を見渡し、友は事態が収束していないことに気付く。
動揺する二人に桜は目を向けず、自分の思考をまとめるように言葉を続けた。
「そもそも結界は捕食のため。餌を逃さないようにするため。餌は私たち。少ない水で具現化した精霊。精霊力がすぐに枯渇する。餌が必要。だから追っていた。でも逃げる私たちは捕まらない……」
短く連続で紡がれる桜の言葉を友は聞き続ける。
嫌な予感が胸を占め始めていた。
「なのに捕まらない餌を執拗に追っていた。理由は……」
友もルフィーも、自身の経験に基づいて考えていたが、桜は起きた事象だけを並べる。
結果は、友とルフィーも想像していなかったことに辿り着こうとしていた。
「この場にそれしか、餌がないから……、じゃあ?」
桜は、顔を上げた。
友は喉を鳴らし、桜の導き出そうとする結果を待つ。
「じゃあ、捕まえ易い餌を、他に見つけたら?」
友はルフィーと顔を見合わせる。
(『精霊の結界』の中に、俺らしか居ないと思っていたけど)
元来、『精霊の結界』に入れる者は限られる。
発動した精霊とその周囲にいた標的以外は存在しない。
(桜の推論は、ありえない。本来なら……でも)
しかし精霊の動きは、何かを発見したようだった。
そして一目散に、発見した何かに向かって走り去った。
起きた事象だけを見れば、
(他の存在が居る以外、考えられないじゃないか!)
自明の理だった。
すぐに追うべきだったと友は歯噛みする。
だが、暢気に後悔している場合ではない。
ルフィーが友の背中を叩いた。
「ユウ! 行くわよ!!」
ルフィーが飛んだ。精霊の去った方向へ向かって、弾けるように飛び立つ。
目でルフィーを追っていた友は、桜に顔を向ける。
「ああ! 桜は――」
「背中に乗るね!」
友の言葉を遮るように桜は宣言すると、友の背後に回り、首に腕を回した。
隠れてろ、そう言うつもりだった友は、苦虫を噛み潰したような顔で唸る。
「ほら、おにいちゃん! 早く! ルフィーがもうあんなに小さくなってる!」
背中に身体を押し付けながら急かす桜に、友は深く長い息を吐く。
「くそ。しっかり捕まってろよ!」
「うん!」
桜が腕に力を入れた。
友は手を後ろに回し、両太ももを下から支える。
(細えなぁ)
薄い肉質を感じつつ、友は身体を少し前へ屈めて走り出した。
ルフィーの後を追う友の脚は、先ほど桜を抱えて走ったときよりも速く。
倍以上の速度で、ルフィーを追いかけた。
(くそ、狭い了見に囚われていた)
桜の予測、つまりはこうだ。
餌、つまりは他の精霊、あるいは精霊使いの存在を感じ取った。
そして精霊は、捕食するために餌へと向かった。
(暴走精霊の捕食は、言葉通り食べることだ)
食べること、それは他の生命を奪い、身に取り込むこと。
餌が、精霊なのか、精霊使いなのか、どちらなのか今はわからない。
しかし、捕食されてしまったら、餌となった存在は消え去る。
(急げ。まだ、時間はそんなに経っていない)
暴走精霊の大きさから推測し、捕食には時間が必要なはず。
無駄に生命を散らさせる訳にはいかない。
友は全力で走った。
走る時間、そして距離は短かった。
すぐに追いついたからだ。
暴走精霊の後ろ姿が見える。
四肢を使って、走っていた。
(走っている、ってことは、目的は達成していないってこと!)
捕食をしていれば、足を止めるだろう。
精霊が餌を捕まえていないことを示し、友は若干安堵する。
しかし、精霊の走る先に餌があることは自明だった。
友は先行して追いかけるルフィーに視線を向ける。
「ユウ!? まずい!!」
ルフィーは上空から見ているため、地上の友よりも状況把握しやすい。
叫んだルフィーは友の脇に移動する。
「どうした!?」
「女の子! 追われている!」
ルフィーの言葉に友は眉を動かす。
他の精霊がいるのかと思えば、違うようだ。
しかし疑問が浮かぶ。
女の子、と言う以上、人なのだろう。
だが、ここは『精霊の結界』だ。
展開した精霊を中心に広げられる。
精霊の近くに居なければ、捕えられることはない。
現に、暴走精霊の間近にいた友たちは、結界内に閉じ込められている。
近くに人など居なかった。
人気の無いところを歩いていたのだから、当然である。
それなのに、結界内に何故人間がいるのか。
「ユウ、……どうする?」
しかし友の思考は止められる。
ルフィーが、友に訊ねてきたからだ。
どうする、と。
短い問いかけだが、何をどうするのかと、問われた内容は十全にわかっていた。
先ほど、ルフィーが桜に説明した内容である。
(本気を出せば倒せるが、そうすれば、他の危険が押し寄せる)
今は少女が襲われている。
力を出し惜しみしていれば、間に合わない。
暴走精霊の勢いを考えると、先のような消耗を計るような安全策を取れなかった。
本気を出せば解決する。
しかし撒き散らした精霊力に惹かれ、他の暴走精霊が生まれる。
暴走精霊がこの地に生まれれば、すなわち桜の危険に繋がる。
友だけなら、対処は幾らでも可能だ。
問題は、背中に乗る桜だ。
四六時中、行動を共にしている以上、桜にも危険は及ぶ。
桜は友にとって大切な存在だ。
共に暮らし、生活する大事な人。
桜の安全は何よりも優先しているし、これからも優先されるだろう。
(見ず知らずの人間と、桜の安全、ね)
心の中に天秤が生じる。
だが、これから友が取るべき行動は、検討すら要さない。
友の検討は数秒で終わった。
視線をルフィーに向けた。
横を飛ぶ精霊は友の決断を待っていた。
目が合ったルフィーは、一つ頷く。
どんな選択も、構わない。
そういう類の意思を、緑色の瞳が語っていた。
選択が友に委ねられている。
友は一度目を瞑る。
溜息を吐きたくなるのを堪えて、決断する。
「ルフィー――」
決まっている。
選択肢など初めから決まっていた。
友は、心を決めたように目を開いた。
「――諦めよう」
諦める、と口にした友の心に浮かんだ、天秤。
そこに選択の余地はなかった。
天秤の傾きは桜の所為で、初めから傾いていた。
走っていた脚を友は止める。
「え、ちょ、おにい、ちゃん?」
どうせ、
そもそも、精霊は獲物に追いついてしまったらしい。
暴走精霊は髪の毛を逆立て、そして伸ばしていた。
「……ま、あんたを責めないよ」
ルフィーは、大きく溜息を吐くと、友の正面に回り両の肩を掴む。
友の視界はルフィーが大半を占めていたが、その背後も見えていた。
精霊は伸ばした髪を前方へと動かしていた。
獲物を捕えたようだ。
波打つ髪を動かし、女の子を高々と上へと掲げている。
友は拳を握りながら、その風景を眺めていた。
自然と、口が開く。
「ルフィー……、ごめんな」
「……いいわよ。ぶっちゃけ、わかりきってたし」
友の肩に載せられたルフィーの指にも力が入っていた。
残念。
悔念。
無念。
様々な感情が渦巻いていることが友に伝わってくる。
それも、そうだ、と友は思う。
ルフィーは静かに呟いた。
「ただ、今までの苦労は、なんだったのって思っちゃってね」
心からの苦笑が伝わる声色である。
友も深く同意したかった。
とは言っても、どうにもならない。
心のままに、友は口を開く。
「言っても、仕方ないよ」
「そうね……。まあ、いいや。すっぱりと諦めちゃいましょうか」
放っておけば始まる、生きた人間の捕食。
想像するだけで吐き気を催しそうな情景だ。
「え、なんで……、ルフィー!? おにいちゃん!?」
友は、溜息を吐く。
大きく長い息。
友の言葉を、行動をルフィーが黙って待っていた。
ルフィーが決断を望んでいる。
言葉にして宣言しなければならないようだ。
友は息を吸う。
桜が背中で喚いているが、無視を貫いた。
(顔を見ると、な。……何の為に、俺やルフィーが苦労してきたか)
だが、桜の声は自然と友に思い出させる。
桜と歩きながら考えていたこと、ずっと思っている願いを。
非凡な生活を、友は過ごしてきた。
ただちやほやされるだけなら、まだ良かった。
しかし、このような危険に晒されることは望んでいない。
(だから、頑張ってきた)
平凡な生活が羨ましかった。
桜と共に過ごす、精霊に狙われることのない穏やかな明日の平和。
大事な、とても大事な明日の平穏。
(何よりも望んだ)
そして努力してきた。
ルフィーと共に隠れて頑張ってきた。
(ああ、本当に苦労してきたんだけどな)
こうなった以上、もうそうは言ってられない。
平穏な生活には心底憧れるが、時と場合による。
「諦めるぞ――」
今は最も大事な物を優先する時だ。
そして、友は宣言した。
「明日の平和を!」
迷うことすら許されない。
優先するのは桜――の意思。
桜が、目の前の悲劇を傍観するなど有り得ない。
敢えて見ようとしなかった視線を横へ動かす。
友の中で、最上位の優先度に当たる桜が、首を伸ばして友を見ていた。
何より愛しく、大切な存在の顔は今、
「むー!」
頬を膨らませて怒る顔なのだから。