第三十四話
(傷つけた……?)
ふいに浮かんできたもの。
その記憶に違和感。
一体誰を?
曖昧であやふやで隠されているようで、記憶の整合性を取ろうとすると、ずきりと頭が痛む。
おれっちの小さな頭には大きすぎるそれ。
思わず声が出かけたが、おれっちはそれを、歯を食いしばってこらえた。
そして、その痛みから逃れるように、そんな自分のことなど気にしてる場合じゃなかろうと、転がるようにごしゅじんに肩から落ちた。
うまく力が入らず背中からだったが、そこは猫の面目躍如。
すれすれのところで、くるりと一回転すると、ちょうどごしゅじんの前に立つ形で、舞台の縁へと降り立つ。
全身にまで広がってきた痛みを無視し、おれっちはぴんと背筋を伸ばし舞台の向こうを睥睨する。
未だ戸惑いの広がるその場。
おれっちは気高き三毛猫族オカリーの気品さを精一杯ばら撒きつつ、ゆらゆらと尻尾を揺らした。
それは、始めようの合図。
ごしゅじんは、おれっちを決して傷つけないと、自信を持って背中で語る。
そんなおれっちの揺ぎ無い態度に、ごしゅじんは生まれた時から持つその相棒を、奏でることで応えた。
独特で深い最初の一音。
発せられ、その場に響いた瞬間、あからさまに反応した人物が、知り合いを含めて幾人か。
そこには明確な危機感、敵意が含まれている。
故におれっちは確信した。
覆滅の魔法器の存在が、確かにこの世界でも認知されていることを。
おそらく、放たれ大惨事になる前に止めようという算段なのだろう。
そんな観客の反応は、しかし始まる前から折込み済みではあった。
そう考えるものたちの鼻を明かすことこそが、この試練の醍醐味なのだから。
おれっちは一つ笑みをこぼして、全身の毛を逆立て、ごしゅじんを守るように『光(セザール)』の魔力を放つ。
それはどちらかと言うと、その場の淡い橙の灯に塗されて、きらきら光り舞台の演出効果を高める意味合いの方が強かっただろう。
その光景に息をのむ人、ぼうっとする人、目を奪われる人、引き込まれる人。
様々な反応をするのを見てとって。
ごしゅじんは、この世に二つとない演奏を開始した。
それは、ごしゅじんの生の証。
確かにここに存在している、そんな自己主張。
生きている音色は、おれっちの心を引っ張り、掴んで放さない。
高く甘く、なめらかで。
豊満で妖艶で、まるでごしゅじんそのものを顕している。
心が、魂が震える。
その一音一音が耳朶を通過する度に、様々な感情を与えてくれる。
郷愁、歓喜、悲哀、感動。
わくわくどきどきする一方で、不意に油断すると泣きたくなる。
おれっちは、確かに憶えていた。
その音色を、同じ感動を味わったことを。
その身に受け、ふるえたことを。
なのに、体験したということ以外のことが、何故か思い出せない。
いつ、どこで、誰が、誰と、何のために。
当たり前に分かるはずのことを、記憶の引き出しから取り出そうとすると、硬く何かに阻まれる。
ひげすら通らないそれは、ぶつかる度に、全身の痛みとして返ってきて。
(そう言えば、全く思い出せないな……)
それは、今更になって気付かされたこと。
自分自身の、ここまで歩んだ道。
振り返ってみたも、ごしゅじんとの記憶以外、何故か真っ白で。
それは、おれっちにとって、きっとごしゅじんの次に大事なことのはずなのに。
ごしゅじんの音色が、あまりに心地良かったから。
まるで、ごしゅじんの腕の中……最期の地に抱かれているみたいだったから。
一番はごしゅじんだったから。
まぁ、いいか。
なんて思って。
その心地に身を委ね溺れるようにして、おれっちは意識を手放していて……。
(第三十五話につづく)