7.予期せぬ客人
エリーシアが初めて魔術師棟での夜勤を務める事になった日の夕刻。前魔術師長であったアーデンの親友で、彼女の事も子供の頃から知っている魔術師長のクラウスは、
「魔導鏡の回線は常時繋いでおくから、何か問題があったらすぐ連絡する様に」
としつこい位彼女に言い聞かせ、実は彼女の異母兄と判明した副魔術師長のガルストは、最近保護本能を刺激されているのか、
「王宮内には独身者用の寮があるから、手に余る事があったらすぐに誰か呼び出しなさい」
とくどい位念を押して、自宅へと帰って行った。
他の同僚達も似たり寄ったりで、程度の差こそあれ若輩、かつ紅一点の自分を心配してくれる気持ちはありがたいとは思いつつ、幾分辟易しながらエリーシアが別れの挨拶を繰り返しているうちに、漸く最後の一人が扉を開けて出て行く。
「じゃあエリー、後は宜しく」
「はい、マークスさん。お疲れ様でした」
そして室内に一人取り残されたエリーシアだったが、夕刻からの散々繰り返されたやり取りがあった為、心細さよりも開放感が勝った。
機嫌良く厨房からの差し入れの料理で夕食を済ませた彼女は、大きく伸びをしてこれからの予定を考える。
「さてと。たっぷり時間はあるし、サジェスタ師の流体相異術式の解読でもしようかな? だけどなんかこの人の残した術式を解析してみると、どうも理論的に構築したってよりは、行き当たりばったりでできちゃいました的な物を、そこはかとなく感じるのよね……。確かに天才かも知れないけど、後から研究する方にとっては厄介極まりないわ」
呆れ気味の口調で独り言を零してから、エリーシアは早速机に書物を広げ、ペンを片手にブツブツと書き取りながら次第に熱中していった。しかし暫くしてから、その集中を途切れさせるノックの音が響く。
「はい、どちら様ですか?」
「……すまん。邪魔して良いか?」
何か至急の連絡かと、真顔になって立ち上がりつつ声をかけたエリーシアだったが、恐縮気味に扉の陰から姿を現した人物を見て、怪訝な顔になった。
「王太子殿下? こんな時間ここに来る用事がありましたか? 私、何も引き継ぎを受けていないんですが?」
その疑問に、レオンは若干困った様に弁解する。
「悪い、仕事関係で出向いた訳じゃないんだ。ちょっとエリーシアと話がしたかったから。日中は仕事で忙しいだろうし、後宮に部屋が有るから夜は出向けないし」
「はあ……、王子様でもそういう所は厳密なんですか? ひょっとして何代か前の王子様が、父親の年若い側妃に手を出したのがばれて、夜間は王子でも立ち入り禁止って規則ができちゃったとかですか?」
「…………」
「え? まさ本当に過去に、そんな事があったとか……」
冗談半分で口にしたつもりだったのに、相手が視線を逸らして黙り込んでしまった為、エリーシアは思わず顔を引き攣らせて黙り込んだ。そんな気まずい沈黙を打ち消す様に、レオンが手に提げていた取っ手付きの籠を差し出しながら告げる。
「前触れなしに訪問した上に悪いんだが、お茶を淹れて貰えないか? 少しだけだが、食べやすいサイズのケーキも持ってきた。中に皿とフォークも入ってる」
「はい、分かりました。少々お待ち下さい」
どうしてそんな物持参で来るのかなど、色々突っ込みたい所はあったものの、エリーシアは素直に頷いてそれを受け取った。そしてレオンに手近な椅子を勧めてから、隣接する小部屋に引っ込む。
そこの蛇口から水を出し、火炎術式が施してある台でお湯を沸かしながら、彼女は籠の上にかけてある布を取り去り、じっくりと中身を観察した。
「流石に茶葉は高級品よね。ここの備品とはランクが違うわ。それに皿とフォーク付きって……。王太子なのに結構マメね。それともそういうタイプの側近でも居るのかしら?」
色々感心しつつ、手早くお茶を淹れてカットされた長方形のケーキを皿に盛り付けたエリーシアは、それを乗せたトレーを持って仕事部屋に戻った。
「お待たせしました。すみません、カップは備え付けの物を使いましたので」
「いや、構わない。ごちそうになる」
(あら、美味しい。夜に食べるともたれるけど、これ位なら丁度良いわね)
当初(王太子にこんなみすぼらしいカップに入れて出して良いのかしら?)と思ったエリーシアだったが、相手が普通に受け取って飲み始めた為、安心してお茶とケーキの夜食を味わい始めた。レオンも同様だったが、半分程食べたところで手を止めて、ぼそりと呟く。
「それで、エリーに話と言うのは……」
しかし何故かそこで黙り込んでしまったレオンに、エリーシアは少ししてから怪訝な顔で問いかけた。
「何でしょうか、殿下」
「その……、俺に対する敬称とか敬語とかは、どうにかならないのか?」
「はい?」
いきなり何を言い出すのかと首を傾げた彼女に、レオンが真剣な表情で言葉を重ねる。
「初めて会った頃は、結構好き放題言ってただろう? 俺に向かって『残念王子』とか」
それを聞いたエリーシアは、もの凄く疑わしそうな表情になって問い返した。
「全く、存じ上げ無かったんですが……。殿下には、そんなろくでもない名称で呼ばれたいという、自虐趣味でも有ったんですか?」
「違う! そうじゃなくて! ただ、もうちょっと隔意のない会話をしたいだけだ! 何かと言えば『王太子殿下』と言われて、木で鼻をくくったような態度を取られて、納得できないんだが?」
必死の面持ちでのレオンの訴えだったが、それを聞いたエリーシアは、露骨に困った表情になった。
「納得して下さいよ……。王太子殿下に向かってサイラスに対する様なタメ口で喋ったりしたら、それこそ不敬罪確実なんですから」
そこで彼女の同僚の名前が出て来た途端、レオンは若干目つきを鋭くして問いかけた。
「そのサイラスなんだが……、最近随分、エリーと仲が良いみたいだな」
その問いに、エリーシアは嫌そうな顔になって答える。
「どこが仲が良いんですか? 憎まれ口ばっかり叩いてますよ。現在王宮専属魔術師の中ではあいつが最年少で、一つ上の私がその次ですから、絡みやすいんじゃないですか? 他の先輩方にはきちんと礼節を保っていますし。だから余計に腹が立つんですよね」
「そうなのか?」
「そうですよ。全く、これで仕事ができなかったら、迷わず叩き出してやるところなのに、腕は良いし妙に世渡りは上手いし。伊達に市井育ちの元王子様じゃないですよね、結構苦労してるみたいですし。ですので、能力的には全面的に認めてます」
「……そうか」
かなり複雑な表情でレオンが相槌を打つのを眺めてから、エリーシアは当初の話題からかなり話が逸れた事に気が付いた。
「そう言えば……、何の話をしてたんでしたっけ? サイラスについての話じゃなかったですよね?」
「だから、俺に対する態度についてなんだが」
「ああ、そうでしたね」
そして二人の間で、先程と同様の押し問答が繰り返されそうになった時、予想外の訪問者が再びやって来て勢い良くドアを開けた。