5.あざむく者
時計は日付が変わってから、一時間が過ぎようかとしていた頃――。
シェイラは大慌てで、ベルグとカートが控える部屋のドアを叩いた。
「ベルグ開けてッ、お願い!」
「……む? 何だシェイラか、どうしたのだ?」
「さ、さっき部屋に《ドッペルゲンガー》が!」
「何だとッ!」
「チッ、もうここを嗅ぎつけやがったか――」
カートは部屋を飛び出し、廊下や各部屋をチェックして回り始めた。
手には星のマークが入っており、各所に控えさせている部下のそれを確認しているようだ。
シェイラは、そのカートと入れ替わるように部屋へと飛び込んだ。
ランプがチラチラと揺れ、それに合わせるようにシェイラの影も揺らめく。
父親に化け、背中を見せた時に襲ってきた……と、一言、二言ずつ語るシェイラの目は恐怖に満ち、自分の身体を抱くようにカタカタと震えてしまっていた。
「と、突然、お父さんの身体がドロって溶けて……」
「そうか……それで《サキュバス》は?」
「わ、分からない……先に
先に宿に潜りこまれていたら、恐らく気づかないだろうとシェイラは言った。
確かに《サキュバス》が調べていたのは、《ドッペルゲンガー》と言う“存在”と、その悪魔の気配である。
もし最初から人間に化けていれば、それに気づくのは至難の業なのかもしれない……と、シェイラは言う。
《ドッペルゲンガー》は他人に完全に化けることができるのだが、その者が身につけている小物や癖などはコピー出来ないようだ。そのため、一時間ごとに手に描いたマークを変えてゆくように指示を出している。
ベルグはシェイラの盾になるように、前に立って警戒を強めた。
「ねぇ、ベルグ――いざと言う時のために、天秤とメダルを用意しておいて」
「む……? まぁ、メダルは確かにここにあるが」
「それ、貸してもらえないかな……ちょっと確かめたいことあるの」
「まぁ、シェイラなら構わないか。少し待っていてくれ」
腕からホルダーを外した時――ベルグは、シェイラの言動に何かが引っかかった。
《ワーウルフ》は、古くから身体的特徴を名にする。人間のような名をつけるのもいるが、本格的につけるようになったのは、彼らがシェイラの村を出てからのことだ。
そのため、再会するまでのシェイラは〔スリーライン〕と言う名前しか知らない。
もしあの一件で距離を置き、他人行儀になったとしても、こんな非常事態では普段の呼び方が出るはずである。
――にも関わらず。シェイラは彼を〔ベルグ〕と呼んだ。
「――まさかッ!!」
ベルグが振り返ると、そこに居たのはシェイラの顔をした何かだった。
気づいたのと同時に、《
恐ろしいほどしたたかで、“人”を騙し陥れてのし上がった悪女のような、醜さまでも窺えるそれは、シェイラではなかった。周りの影響を受けやすい、バカ正直な“姉”に、このような表情をするのは絶対に無理だからだ。
「メダルをッ、メダルを私にチョウダイィィィッッ――」
「貴様ッ、やはりシェイラにッ……!」
本人が操られていると思ってしまうほど、姿や形・力加減までも本物のシェイラそっくりであった。
「く、くそッ――は、離せッ!」
そのせいで、腕につけたメダルホルダーを掴むシェイラに、振り上げた拳が振れなかった。
ここに、シェイラに化けた《ドッペルゲンガー》がいるという事は、彼女に何かあったと言う事――今すぐに追いかけねばならないが、まず目の前の悪魔をどうにかせねばならない。
ベルグには『シェイラではない』と分かっているものの、出来るのは摑み合い……それも思うように力が出せないでいる。
「ぐ……せめて、悪魔の姿に戻れと言うのだッ!」
目をぐっと瞑ると、思い切り《シェイラ》をキャビネットに向けて投げ飛ばした。
偽物と言えど、彼女の悲鳴と呻きに、“弟”の胸は罪悪感で満たされてしまう。
その姿に、本物の“姉”が脳裏をかすめた。早く救出せねば、同じ……もっと酷い目に逢ってしまうかもしれぬと思うと、獣の顔に焦りが浮かぶ。
起き上がってくる《シェイラ》は、ベルグを全く見ていない。その頼りない目は、破けたメダルホルダーだけを見ていた。そして、その視線を下げた先には――
「メダ、メダル……ギギッ――」
メダルが一枚こぼれ落ち、大きな円を描くように回っている。
シェイラに化けた|《ドッペルゲンガー》は執拗にメダルを欲しているが、身体を小さくぐっと沈ませるだけで、飛び込もうとしない。
鈍くささまでも同じであるせいか、それを掴むタイミングを失っているようだ。
ベルグは、今だ今だと目でそれを追うだけのそれを尻目に、素早くそれに手を伸ばしたが―――
「お願いっ、私に頂戴――っ!」
シェイラの言葉に、反射的に手を止めてしまった。
そのメダルは、裁量に絶対不可欠なモノであり、均衡を維持するための鍵でもある。
命より大事なモノであるはずなのに、ベルグはそれよりもシェイラを取り、手を止めた――。
その隙に、細くすらりとした指が、回るメダルを止めた。
「ギギ、ギギッ!」
その悪魔の笑い声は、甘さを出したベルグを嘲笑っているのか、メダルを手に入れた喜びか分からない。だが、目的の物を手に入れた事は確かなようである。
不要と言わんばかりに、シェイラの身体はドロリと溶け、黒い影となった《ドッペルゲンガー》は窓に“顔”を向けた。漆黒を塗りつぶした窓ガラスには、宿の壁だけが映っている。
「キキキッ――!」
「くッ、待てッ!」
ガシャンッ、と窓ガラスを突き破って外に飛び出したそれは、闇に溶けるようにして姿を消した。
宿の下、その周囲では、既に“ワルツ”と“スキナー一家”がやり合っていたが、《ドッペルゲンガー》の来着を確認したのか、ガラスの破片が落ちる音と同時に、“ワルツ”の撤退指示が出されていた。
「……」
去ってゆくそれらに、ベルグは一言も口にしなかった。
煮えくり返る腹の中で、しきりに己を落ち着かせる言葉を述べ続けている。
遠のいてゆく多くの足音に呪詛を述べ、どれだけ汚い言葉で罵っても、所詮は負け犬の遠吠えである。
シェイラは、既に連れ去られてしまったと見て間違いないだろう。彼女の手に描かれていたマークは“丸”……一時間ほど前のそれである。相手の様子と合わせ、彼女を乗せた馬車は、まだそれほど遠くへ逃げていないはずだ。
そこにある障害をさっと排除し、駆ければまだ間に合う距離だった。
ベルグは、《ドッペルゲンガー》が突き破った窓から飛び降りた。
(次は、“裁きの間”の石像を壊してみようか――。
レオノーラに比べれば、あんな物は全てオモチャに等しい)
砂利道の先、闇のある一点から、『来い』と言わんばかりの殺気が放たれている。
ここにはシェイラも、“裁量”に必要なメダルもない――。
今のベルグは、“断罪”の力が出せないどころか、戦うことすら許されない身だ。
しかし……唇をせり上げたこの獣には、もはやルールなぞ無きに等しかった。
「戦う術がなくとも、臆せぬ挑んで来るか……」
「――臆する理由がないからな」
白髪の男……“ウルフバスター”が剣を抜き身にして、立ちはだかっている。
相手の剣の間合いに気づいていたが、怒れる獣は、あえてそこまで足を踏み入れた。
それは相手に対する挑発のようでもあり、更に一歩前へと躍り出ようとする。
“ウルフバスター”は、その鋭い目と銀の刃をギラリと光らせ、目の前に立つベルグを睨みつけた。
「心臓をえぐり出す前に聞こう――シェイラをどこにやった」
「俺は知らん。《ドッペルゲンガー》の目的も、逃げた“ワルツ”の奴らの行動も聞かされておらんからな」
「殴られれば、目的の一つや二つ思い出すか?」
「……次期、《ワーウルフ》の長となる若造は、口のきき方を知らないようだな」
「“負け犬”を敬う気なぞ、さらさらないわ」
「――貴様ッ!!」
男はギリッを歯を噛みしめ、地面を強く蹴った。
人間とも思えぬその強靭な脚力は、一瞬にしてベルグとの距離を詰め、白い太刀筋を闇夜に光らせる。
目にも留まらぬその刃の一撃で、これまで多くの
「ふむ。お前のスコアの殆どが、“見た目に騙された”だけの間抜けばかりのようだ」
「ふ、ふふっ……言ってくれるっ!」
獣の目が闇を斬り裂く刃を見切り、最小限の動きでそれを躱す。
ベルグ、“ウルフバスター”の目は共に怒りに満ちているが、互いに我を失わない冷静さを保っている。
風切り音は、捉えてもベルグの灰色の毛を僅かに切る程度――獣の肉を断つことに特化した、“ウルフバスター”の波打つ刃は、“若き獣”を斬る事が出来ない。
それどころか――
「ッ、どこに――ッ!」
右上から左下にかけて振り抜いた剣が躱され、一瞬ベルグを見失ってしまった。
後ろから気配を感じ、身をひるがえした瞬間――振り上げられた“狼”の、強烈な拳が“ウルフバスター”の左頬を捉えた。
「ぐッ、うゥゥ……」
“ウルフバスター”は、完全に油断してしまっていた――。
思わぬ一撃に片膝をつき、揺れる世界の中を彷徨い続けている。
老いもあるが、その身体はベルグの若々しい動きに、まるでついていけない。
始めは“断罪”の力だけであると考えていたが、地力も持ち合わせているようだ。
これが“長”となる者の力か……と、彼の“刀”が折れかけた時であった。
――やはりここまでか。
と、闇のどこからか、低く不気味な声が響いた。