2.決意と誓い
それから一週間後――。
空は恵みの雨が降らしたかと思えば、今度は止む事を知らない長雨に姿を変えた。
四日間ずっと降りっぱなしの雨に、宿屋を始め訓練場の中までムワりとした湿気に包まれ、肌にまとわりつくような湿気が、不快感をより増長させている。
訓練場のグラウンドには大きな池が出来ており、雨が降っている間は訓練ができない。そのため、しばらくは“自主訓練”と言う名の休養日となっている。
しかし、この日のベルグ達は、ローズの呼び出しを受け教官室に集まっていた。
「なんつー恰好してんだ……」
「あっついのよ……ローブは蒸せるし、泳ぎに行こうと思ったらこの雨だしー……」
ローズはもう気分だけでも、と水着姿で業務を行っていた。
長雨でも気温は大して下がらず、逆に湿気が加わった事で蒸し暑くて堪らないようだ。
普段はローブ姿なので分からないが、たわわな実りにスラリとした腰……きめ細かく滑らかな肌が、それをより引き立てている。男であればそれに鼻の下を伸ばすか、思わず目を逸らしてしまうぐらいのスタイルだった。
「ま、それはさて置き――。
シェイラに聞きたいんだけど……アンタの借金って、身に覚えのあるのはいくら?」
「当面の生活費なので、恐らく中判金貨三、四枚だったかと思います。
親から聞いた話だけなので詳しくは分かりませんが、確かそれくらいかと」
「追加で借りたとかでもなく、残りは『いつの間にか増えていた』のよね?」
「はい……父が、そう言っていたのを覚えています……」
確かにそのはずなのだが、まだ幼かったため、シェイラもあまり覚えていない。
その頃は、まだ食事に不自由しなかった時期――もしかすると、食べ盛りの自分のために……と思うと、追加に関しては『そうだ』と明言できなかった。
だが、ローズの言葉通り、度重なる借金・暴利とも言える利息に、よってそれが雪だるま式に膨れ上がっていたことは事実である。
シェイラの父親は『身に覚えのない借金をさせられ、額が増え続けている』と言っていたが、借用書には、確かにシェイラの父親の字で書かれていたため、訴えが出せなかったようだ。
「――スポイラーの所は、そんな噂あるんだよな。
契約書へのサインから血判まで、全て本人のもので尻尾が掴めねェって」
カートは顎に手をやりながら、何かを思い出すように宙を見つめている。
それを聞いたレオノーラは、神妙な面持ちで一つ頷くと、
「シェイラ、お前の父上を始め、最後に家族と連絡取りあったのはいつだ?」
「え……えっと……ここに来る前が最後なので、半年くらいはないです。
その時も、お母さんからの手紙だけでしたし……」
それを聞いたローズとレオノーラは、深刻な表情になって頷き合った。
「偽装を防ぐための、魔法紙なのにそれすらも欺くとなるとやっぱり――」
「うむ……」
「やっぱり、とは何だ?」
二人が何かを確信した様子に、ベルグは怪訝な顔を向けた。
「テアって人から連絡が来たのよ。もしかすると、スポイラーの所に《ドッペルゲンガー》がいるかも、って」
「ど、《ドッペルゲンガー》だと!?
あれは。地下迷宮の最深部にいる悪魔ではないのか!」
「それが恐らく、スポイラーと契約結ばせて連れだした可能性があるのよ……」
信じられない魔物の名に、ベルグも驚きを隠せずにいた。
それは、迷宮の奥深くに存在する悪魔であり、“冒険者の狂気”とも呼ばれる“闇”――。
当初は『迷宮の瘴気に気が触れてしまった者が、仲間を襲った』と考えられていたのだが、次第に、その“闇の存在”が明らかになってきたのだ。
血を得ることで、その“本人”に化けられる存在――“化けた者”は倒せるのだが、その“存在”は迷宮内では倒すことが出来ない、とも言われている悪魔であった。
見た目から何から、全て“オリジナル”となるため、偽造を許さぬ魔法の証文をもってしても見抜けない事も判明したようだ。
「――ち、血を得てお父さんになったって、もしかして……」
シェイラの身体から血の気が引いてゆくのが感じられた。
頭をよぎった最悪の結末に、唇が震え、みるみる内に顔が青ざめてゆく。
「そうと決まったわけではない。
調べた所、死者にはなれぬらしい……から、頭に思い浮かべた事は忘れるんだ」
「うむ。そう結論するのは早計だ」
「う、うん……だよね」
しかし、彼女の沈鬱とした表情は、明らかに動揺と不安を隠しきれずにいる。
もう一つの質問で気を逸らせようとしたのか、ローズは僅かに声のトーンを上げた。
「もう一つ、シェイラに聞きたいんだけどさ」
「は、はい……」
「アンタ――“ウルフバスター”って奴と知り合い?」
「う、うるふばすたー?」
初めて聞く名に、シェイラは首をかしげ記憶を辿った。
だが、それらしい名前に全く記憶がなく、ずっとうんうんと唸っている。
「“ウルフバスター”って、あの“ワルツ”の〔ルース〕のことか?
獣に喉を噛まれてから、狂ったように“獣人狩り”を始めた」
カートの言葉に、ベルグはピクりと眉を動かした。
「喉を噛まれた、ルース……あっ、あの人かも!
確かに、喉に犬に噛まれたみたいな、楕円形の歯型残ってた――」
「やっぱり……アレがアンタに執着してて、スポイラーと度々衝突してたらしいじゃない」
「あの人は、今思うと他の人みたいに悪い人ではなかった……と思います。
村を追われた時も、同じ悪い人を叱っていたりしていましたし、『冒険者になって一山当てれば』って言ってたのも確か……」
記憶を辿れば、確かにルースから聞かされた覚えがあった。
訓練場に入れとは言われていないが、可能性があればそれに賭けるのも良いだろう――と。
悪人の中において、唯一そのルースだけは信用できそうにも感じていたようだ。
その言葉に、ベルグは眉間のシワを深め、更に難しい顔を浮かべている。
「シェイラに気でもあんなら、利用して仲間に引き込めねェのか?」
「無理だ。恐らく、奴は――俺を始末するためにいる」
「え……?」
ベルグは度々考えていた事があるが、それらの言葉で確信に至ったようだ。
ルースが余計な事をしなければ、シェイラは冒険者を目指す前に連れ去る事ができたはずだ。
そのような存在を、“ワルツ” は許し・野放しにする理由は何なのか……と。
ワルツ”は《ワーウルフ》の“断罪者”を恐れ、そのための対抗馬を用意している、とベルグは考えている。
それでなくとも、風の噂程度ではあるが、その首を狙っているとも聞いた事があったのだ。
「その時は、私もお供に――」
もし戦う事になれば手加減は出来ず、どちらかが死ぬ事になってしまうだろう。
レオノーラは剣の柄を握り絞め、最悪の場合も含めた“覚悟”を決めたようだ。
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その日の深夜、シェイラは全く寝つけずにいた。
窓や地面を打つ雨音に混じり、何度目か分からないベッドが軋む音が部屋に響く。
正しくは、今日“も”であった。ベルグの一件があってからと言うもの、ここの数日殆ど眠れた気がしない――明け方、ハッとしてようやく『寝ていた』と気づくぐらいであった。
(もうっ、何であんな時に、お嫁さんとかの話なんてするのっ!
今日は特に、夢だったって思いたいのに……眠れないじゃない……)
敵に《ドッペルゲンガー》がおり、そこに父親が捕まっている――。
母親に『もう怯えなくて良いんだよ!』と伝えに行こう……と、考えていた所にこれだった。
そのため、借金返済に関しては手紙で伝える事になってしまった。
(早計だって、スリーラインは言ってたけど……本当に大丈夫だよね?)
この一件に関し、レオノーラを始め、カートの組織も手を尽くしてくれるようだ。
もう皆に迷惑をかけられない、と思っていたのに、結局また手を借りる事となった。
(やっぱり、《サキュバス》が言っていた通り、守られる立場なのかな……)
シェイラは夜のとばりが降りた、真っ暗な部屋で一点を見つめている。
一人で眠る事は慣れていたのに、ここ最近は心細く、重いため息を吐いた。
その守ってくれる、頼れる“弟”は今頃……と、思った時であった。
扉から小さく、コンコンと叩く音が聞こえて来たのである。
『シェイラ、起きているか?』
と、扉の向こうから声をかけてきたのは、“弟”……ベルグであった。
うん、と小さく返事をして、招き入れたベルグの手にはワインの瓶が握られている。
「今日の件で、眠れないかもと思ってな」
「きょ、今日だけじゃないよ……」
ギシリ……と二人分の重さで、ベッドが軋みをあげた。
ベルグも相手が相手だけに、どうして良いものかと考えあぐね、シェイラは意識しすぎて肩がこるほど肩肘を張ってしまっている。
あの日以降、こうして二人っきりで話す事もなかったため、シェイラはどうして良いのか分からないようだ。
「――“守護者”の件、か」
「うん……あれ、本当なの?」
注がれたワインを、つっと口に含む。
かつて大人の世界を知りたくて、部屋の中でワインを飲んだ――。
あの日はすぐに酔えたのに、今はこの世の酒を全て飲んでも酔えそうな気がしない。
「あのエルフの小娘の言う事なので、全てが正しいとは限らんが……確かに筋は通っている」
「こ、小娘って……テアさんの方が、何十倍も年上じゃない」
“断罪者と裁断者”は元々夫婦関係にあり、世界を救うために、断ち切れたその“絆”を戻さないといけない――。
この異常気象はそれの前兆だと言うが、あまりの規模の大きさに、シェイラは現実味のない夢物語にも思えており、危機感が抱けないでいる。
それよりも、“弟”の“妻”にならなければいけない事の方が問題であった。
「世界を救う云々は別にしても、“ワルツ”に関してはどうにかせねばならん」
「うん……」
「フラディオさんは大丈夫だ……。
もし万が一、敵の手に落ちていても……まだ価値のある人質を手にかけん」
ベルグはあえて、最悪の場合を想定して言った。
シェイラの場合は、気休めを言っても深読みしてドツボにハマってしまうため、このように言った方が良いのである。
それを聞いたシェイラは、『うん……』と小さく頷くと、ゆっくりとベルグの肩にもたれ掛った。
「私って……神様に何かいけない事したのかな……?」
「布団の神様になら、あるかもしれんな」
「布団……? ハッ――ば、ばかッ!?」
怒るシェイラを見て、ベルグはワフワフと笑っている。
イタズラ好きでいじわるな“弟”であるが、今では誰よりも頼れる存在――。
そして、誰よりも自分の事を考えてくれる存在――。
ここを卒業したら、また離れ離れになるのか、と考えた時もあった。
「……ああ、そうか」
「ん? どうかしたの?」
ベルグは何かを思い出したのか、そうかと一つ頷いた。
「いや……俺はこれまで、ただ漠然と強くなりたいと思って鍛錬し続けてきたが……何のためかと忘れてしまっていたのだ。
幼い頃に『シェイラを守るため』と言っていた事を、今になって思い出したのだ」
シェイラは、ベルグの言葉をじっと聞いていた。
「俺とて、どうしてシェイラだけを苦しめるのか……と、獣神を呪った事もある。
しかし今、やっと分かった――。獣神は、シェイラが苦しむ運命だと知っていたからこそ、俺はそれから守るために生まれ、神に遣わされたのだ、と」
「スリーライン……」
「かつて父は言った。『背中の三本線は、特別な役目を担った証だ』と。
もしそれがこの事であるならば、俺は命を賭してでもシェイラを守ろう」
「うん……うん……」
こみ上げてきたものを隠すように、ベルグの胸に顔を埋めたシェイラは、声を殺して泣いた。部屋を響かせる雨音は、女のすすり泣く声を掻き消している。
地面に吸われてゆく雨粒のように、その涙も、毛むくじゃらな“オス”の身体に染み込んでは消えてゆく――。
その言葉の通り、何からでも守ってくれそうな力強く太い腕に包まれていると、積もり積もった不安も、どこかに消え去ろうとしているのが感じられた。
顔に、大きな手が添えられ、やはり頼れるのは――と、赤い目でベルグを見上げた時だった。
「え――?」
彼女の鼻は、ほんのりとワインの香りを感じ取った――。