3.最期の依頼書
明朝、夕方より降り続いた雨が霧雨に変えた頃――。
バチャバチャと音が立てながら、コッパーの訓練場に飛び込んできた者がいた。
その男の名は〔ブルード〕。かつて、カートやローズが世話になった男である。
老年に近い彼の身体は傷だらけであり、刺されたと思われる傷口からは血がとめどなく流れ、地面に出来た泥色の水たまりに、赤色のグラデーションを広げてゆく。
大慌てで出てきたレオノーラに、息も絶え絶えに『ペインズ、陥落、危機……』とだけを述べ、カートに渡せと一通の依頼書とメモ帳を差し出し、ブルードはこと切れた。
それを聞き、大急ぎで駆けつけたカートは、恩師の亡骸を一瞥しただけに留めた。
彼は何も語らない。その亡骸の上に、そっと蛇のピアスを乗せただけだった。
そのピアスは、ブルードから貰った成人祝いのような物――短い期間であれど、世話になったローズも立ち合っていたが、心配そうな目をカートに向けていた。
「そんな目してんじゃねェよ。
この世界では、こんな事は日常茶飯事だからよ」
霧雨は血を洗い流すには弱く、涙を流すにはちょうど良い柔らかさであった。
しかし、カートの目には涙はなく、恐ろしく殺意に満ちた“悪”の目をしている。
初めて見る悪人の目に、ローズは息を呑み、何も言葉をかけられないままその場に立ちすくんでしまう。
そこに、レオノーラから報せを聞いたベルグも、血相を変えて駆けつけて来た。
「カート! この者は……」
「俺の“親父代わり”だった人だ。隠居を表明した矢先に、このザマだ――」
「……やったのは、“ワルツ”の者か?」
「ああ。俺たちの拠点のある、ペインズの町が陥落危機だと。
ほれっ、とっつぁんからの依頼書だ。お前が止めても俺は行くぞ?」
カートから手渡された、血に染まった依頼書に目を落とすと――。
「ふむ。お前たちらしい依頼文だ」
「“
懐に入っていたメモに、《ドッペルゲンガー》らしい記述もあったぜ?
内部の者に化け、次から次へ姿を変えて襲ってくる。奴は“その時の姿形”となるようだ。
手に印を書き、定期的に変更すれば、“見分ける事だけ”は可能だろう――ってな」
「タダでは転ばなかった、か……“悪人の意地”とは恐ろしいものだ。
しかし、“依頼”となると――」
ベルグはそう言うと、ここの教官であるレオノーラに目をやった。
これは明らかな“戦争”である。責任者として、そんな依頼を受理するわけにはいかない。
「――私は少しやる事があるので、任務の依頼書を見ている暇はない」
「あ、アタシもー……そうだ、眠たいから寝よーっと。そっちで
「へッ……しゃーねーな」
「うむ。無理な内容であれば俺が止めよう」
個人の事情にまで関与しない――と、教官達は『依頼なんてなかった』事にした。
それを聞いたカートは、どこか嬉しげな表情で『やれやれ』と息を吐いた。
最後に“育ての親”の顔を一瞥すると、無言のまま宿屋へと足を向け歩いてゆく。
「――あの者たちなら大丈夫だ」
不安そうにその背中を見ていたローズに、レオノーラは優しく声をかけた。
◆ ◆ ◆
その頃のシェイラは、まだ夢の中だった。
目が覚めたのは昼前であり、まだ眠い目を擦りながら食堂の階段を降りて、いつものように食事を摂る――。これが彼女の“いつもの朝”であった。
「お、おおおお、おはよ……」
「何か悪いモンでも食ったのかコイツ?」
「うむ……まぁ色々と、刺激の強い物を口にした……かもしれん」
その“いつもの朝”は、昨日で終わりを告げた――。
ぎっ……ぎっ……と音を立てる階段を降りながら、昨晩の事は『夢の中の出来事であって欲しい』と願ったが、ベルグの様子からしてそれが現実に起ったことだと知る。
昨夜遅く、部屋でベルグと話をして、眠れなかった不安を取り除いてくれた――。
だがそのせいで、空が白み始めてもなお気が昂ったまま、余計に眠れなくなってしまったのだ。
(れ、レモンの味って聞いてたけど……お、ととなだから、ワインの味、かな?)
もう何度触れたか分からない、その唇にそっと手をやった。
直前まで飲んでいたワインの香りと、唇に触れた獣の口の感触が記憶に蘇る――。
“姉と弟”のふざけてするようなものでも、犬のコミュニケーションでもない、“男と女”の行為……彼女にとって、女としての初めての口づけであった。
しかし、あまりに急であったためか、その感想は『毛がごわごわちくちくしてた?』程度だ。
その後、何かの会話をした気がするが、右から左に抜けたせいで覚えていない。
ベルグはその後すぐに部屋を後にし、シェイラは呆然とした表情のままベッドの中に潜り込んだが、火照る身体は一向に冷める気配がなく、布団の中は熱くてたまらなかった。
(へ、平常心よ平常心っ! き、ききキスの、一つや二つぐらいで、動揺していたいらっ……)
厨房に入り、誰かが階段を登ってゆく音を聞きながら、彼女は卵を割った。
今ならまだ引き返せるかもしれないが、どこかで『“姉”に戻りたくない』と思う自分がいるようにも感じられる。
確かに、遅かれ早かれ、そう言った関係になるのだから、と自分に言い聞かせながら、更に卵を割った。
「――シェイラ」
「ひぁっ!? ……な、な、何?」
「卵」
「へ? たまご……あぁぁっ!?」
気が付けば、ボウルの中には十を超える黄色い球が浮かんでいた。
仕込みを始めるのかと思えるほどのそれは、とても一個人では使い切れる量ではない。
昼間の客は少ないので、シェイラはどうしたものかと思案していると、
「あれ――」
「へ……?」
「あれ作って欲しい」
「あれって……?」
「フライパンで食う“
「ふらいぱんで――あ゛っ!?」
シェイラには、思い当たる料理が一品あった。
ベルグがあまりにも腹が減ったと言うので、生まれて初めて料理を作ったそれ。
当時は、料理の
「も、もうっ、何で私の失敗ばっか覚えてるのっ!
……でも、本当にそれでいいの?」
「うむ。今回は、それ全部使うぐらいデッカイのがいい」
その時の結果は、もちろん大失敗――母親にこっぴどく怒られたのだ。
それからは、“弟”にちゃんとした完成品を、と親から素直に教えを請うて覚えた料理である。
シャカシャカと音を立てたボウルの中に、塩と砂糖で味を調え、バターを溶かしたフライパンの上に流し込む……バターの香ばしい匂いと、卵が焼ける音が厨房に響く。
通常ならありえない量のタネであるものの、“今”の彼女には何て事はない。
“弟”のために覚えたそれ――“オムレツ”は、彼女が最も得意とする料理となっているのだ。
「――はい、できたよ」
「あれ、黄色い……」
「も、もうっ!! 私だって成長しているのっ!」
「しかし、美味そうだ――」
大皿からはみ出るほどの、出来立ての巨大オムレツを、ベルグはがっつくようにハグハグと食べ始めた。
初めてちゃんとした物を作った時も、そうやって食べたのをシェイラは思い出した。
「もうっ、ちゃんと味わって食べてっ!」
「んむ? 美味い物を一気に口に入れるのが、一番美味い食い方なのだ」
「いつも思うんだけど、その理論は何なの……?」
ベルグの食べ方は今に始まった事ではなく、昔からそのような食い方をしていた。
味わって食うような文化が無い種族なのもあるが、その伸びた口の中一杯に美味い物を満たし、噛みしめるのが幸せなのだと言う。
口づけを交わしたとは言え、この“弟”は普段通りの姿だった。
この“姉と弟”の関係は、一切変える必要ないのかもしれない、とシェイラは思っていた。
・
・
・
ベルグが食べ終わると、今朝早くに起きた騒動について説明していた。
襲撃を受けたペインズの町は、“スキナー一家”のシマと、“ワルツ”のシマとの境目に位置しており、双方の衝突が絶えない街である。そこが陥落危機にあると言う事は、ほぼ“ワルツ”が制圧しようとしていると見て間違いないだろう。
自陣の中でも心休まる場所がなく、更にはそこに《ドッペルゲンガー》と――
「恐らく……“ウルフバスター”も、そこにいるだろう」
と、神妙な面持ちでシェイラと向き合った。
“ウルフバスター”は、彼女が村を追われた時、覚えのない借金に苦しまされていた時……どちらも、その者が手を尽くしてくれた者なのだ。
もしそれが考えている通りの“人物”であれば、“ウルフバスター”のこの行動にも説明がつく。
産みの苦しみにしては、あまりにも酷な苦しみであった。しかし、それを乗り越えた結果、姉・
今のシェイラには、そのベルグの言葉の意味がすぐに理解できた。
「大丈夫……」
確かに、悪い人たちの中では信頼に足る人物だっただろう。
幼いながらも淡い恋心のような、敵に心を許すような気持ちが芽生えていた事も、また事実だっただろう。
――しかし、今の彼女にとって『敵の敵は味方』ではない。彼が“ワルツ”の一員であり、ベルグを狙っている以上、いかなる理由があろうと自分たちの“敵”に相違ないのだ、と。
「悪者には変わりないんだし、スリーラインも誰も裁けないような悪者をやっつけるんでしょ? なら、気にせずバシッとやっつけちゃいなさい!
……って私もか、あはは……」
「む……うむ、任せておけ」
初めてシェイラが“姉”らしく見え、ベルグは目を見開いてしまう。
どこまで関与しているか不明だが、一応はシェイラの“恩人”に変わりない。
ベルグ自身が一番頭を悩ませていた事でもあり、こうも即断するとは思わなかったのだ。
強がりも垣間見れたが、彼女の目にはどこか頼れるものが感じられた。
「ペインズには、安全な場所は無いと思った方がいい。
俺自身、“ウルフバスター”を叩く事に全力を注ぎ、カートは配下の者への指示も出さねばならない。
もちろん、レオノーラ達はこれに関与できん……シェイラ、この意味が分かるな?」
ベルグも“選択”する時だ、と腹をくくった。
自分の身は自分で守れ――シェイラは、初めて自分自身を認められた事を感じ、深刻な面持ちでコクリと頷く。そこに、これまでのような頼りなさは存在していない。
(私だって……いつまでもひな鳥じゃないんだから)
“アヒルの羽”から、“白鳥の羽”に変わる時が来た――。
そう決心し、シェイラは拳を強く握りした……のだが、ふと彼女の頭に一つの疑問が思い浮かぶ。
(スリーラインは“ウルフバスター”で、カートさんは“ワルツ”だよね?
じゃあ、私は消去法でいくと……《ドッペルゲンガー》になるじゃない!?)
確かに悪魔などの存在であるため、それの適任者はシェイラである。
「倒せないって存在を倒せ、ってどうやって倒したらいいのよ!?」
「それが問題なんだ……。まぁ、時間さえ稼いでくれればそれでいいのだが」
《ドッペルゲンガー》についてはあまり良く分かっておらず、実態の無い闇やモヤに近い。そんな得体の知れない存在に対し、
サンプルが少なく、未だに『冒険者の心の闇』と説く者もいれば、『迷宮に設けられた、何らかの試練』と説く者もいるほどであった。
「テアさんとか、《サキュバス》なら知ってるのかなぁ……」
「うーむ……俺も存在は知っているものの、実物と会った事が無い。
だが、倒せない時は味方にしよう。非常に役立ちそうだし」
「え、えぇっ、どうして!?」
「本人そのものになれるのなら、“裁きの間”で使える。
それに罪をなすりつけて、刑の執行の間に、石像の一体くらい破壊したい」
「それほど嫌いなんだ……」
ビュート湖もそうであったが、ベルグは以外と根に持つタイプだ、とシェイラは初めて気づいた。