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2.初めての迷宮(2)

 闇を押しのける光の珠は、闇の中で眠る“死”までも照らし出す。
 壁や床に飛び散った血痕と肉片――“死”は、壁にもたれ掛って座っている。
 顔の上半分が何かにえぐり取られた姿は、つい先ほどまで赤いペンキを入れていた容器のようでもあった。
 “迷宮の死”を目の当たりにし、シェイラは両手を口にあてながら、必死でこみ上げてくる物を堪えていたが――

「ん゛ん゛ッ……ぐッ……う゛ぅッ……ぶッ――」

 視覚と嗅覚――ついに耐えきれず、壁に向かって胃の中の物をぶちまけてしまった。
 周りの者は皆、その様子をじっと見守っている。これは、迷宮に足を踏み入れた新米冒険者(ビギナー)が必ず通る道であり、絶対に受けなければならない“洗礼”なのだ。
 収まる事を知らない嘔吐感に苛まれ、涙がポロポロと零れ落ちた――。
 いくら苦しくとも、自分で乗り越えるしかない。今回ばかりは、ベルグも心を鬼にして“姉”が乗り切るのを見守っている。

「――がッ……がほッ……う、うぅ……」
「よし、シェイラ。このワインを一口含み、口を濯ぐんだ」
「う、うん……」

 “弟”が予め用意していたワインの小瓶を受け取ると、言われたまま口を濯ぎ始める。
 いつもは葡萄酒の香りだけで酔いそうなのに、今はそんな気配が全く感じられない。
 コクリ……と、軽く喉を通したが、シェイラはもう全て飲み干してしまいたくもあった。

(……よく見れば、私の他にもいる?)

 死体の付近には、嘔吐した痕跡があちこちに点在している。
 上の階で死体や骨を見て耐えられた者も、この惨たらしいそれには耐えられなかったらしい。

(慣れた人でも、吐くものなんだ――)

 自分だけではないのだと思うと、どこか気持ちが楽になるのを感じた。
 同時に、血と腐敗臭が入り混じる死体を冷静に観察し始めた者たちに、“慣れ”の恐ろしさも覚えている。

「こいつぁ……《トロール》あたりにやられたか?」
「恐らくそうだろう。不意打ちを食らって、即死って所だな」
「では、“社交場”から出て来てご機嫌な所でやられたのでしょうね」
「と、《トロール》ってその……もの凄く大きなそれ?」
「いえ、それとはまた別のです。考えているのは、そもそも迷宮に入りませんから」

 シェイラが想像したのは、体長何メートルもあるかのような巨大なそれであったが、迷宮内に徘徊しているそれは、どちらかと言うと《オーク》に近い。
 正気を失った人間のなれの果てとも言われ、暴力的で知性が完全に失われたそれは『まるで《トロール》のような奴』と、称されたことからそう呼ばれる事となった。
 とは言え、《トロール》は普通に警戒していれば、さほど苦戦するような相手でもない。
 この冒険者は、“社交場”に行きたいがあまり、背伸びをしてやって来たか、腰砕けになるほど楽しんだのか、その帰りに襲撃されたのだろうと、テアは言った。

(いくら楽な相手って言っても、油断すればこうなるんだ……)

 想像していた迷宮とは大きく違いを見せ、甘く考えていた己が恥ずかしくなった。

「――誰も死体漁らなかったんだな……お、何かの会員証があったぞ」
「おいおい……」
「迷宮に法はねェよ。それに、()()()()を地上で使ってやんのも弔いってモンだ」

 ビチャりと音を立てて落ちた肉塊に、シェイラは、うっと再びぶちまけてしまいそうになってしまう。
 カートの言う通り、迷宮には“法が無い”――。そのため、はなっから“罪の意識”など存在しないモンスターを始め、仮に人間が相手であっても、迷宮ではベルグの“天秤”の力はあまり通用しないのだ。

 ・
 ・
 ・

 “死体漁り”はそこそこに、迷宮の奥へとゆっくり足を踏み入れてゆく。
 すると、光の届かない闇の向こうから、ペタ……ペタ……と、地面を歩く音が響いていた。
 突き当りは丁字路となっているのか、近づいてきた音はまた遠のいて行く。
 消えてゆく足音に、シェイラは『ふぅ……』と、一つ息を吐いた。

「――来るか」
「シェイラ、気を抜くな。迷宮の敵はモンスターとは限らん。
 効果は薄いが、念のため裁断の“宣告”だけは、いつでもできるようにしておいてくれ」
「シェイラは極力テオから離れるんじゃないぞ。
 私も補助はするが、全部は面倒見きれないからな」
「え、えぇっ!? は、はいっ」
「別に、離れても大丈夫ですよ? ちゅどーんって、やるだけですし。はい」

 全員の空気がピリっとした物に変わった時だった。
 浅黒い肌の巨体、コウモリの羽根を付けた小さな悪魔、カシャカシャと地面を這う蟲が、一斉にその輪の中に飛び込んで来るのが見えた。

 ――エモノ ダ

 素早い蟲数匹と小悪魔二匹が、地と宙から同時に先頭のベルグ、レオノーラ、カートに突っ込んで来た。
 まず一番手――真っ先にベルグに突っ込んで来たのは、幼子ぐらいの小悪魔・《インプ》だった。

「ぬんッ!」

 突っ込んだ勢いと、獣人の剛腕から振り抜かれる銀の斧――。
 断末魔をあげる暇もなく、《インプ》の身体はボト、ボトと時間差で地に落ちた。
 もう一体の《インプ》は、カートに向かっている。
 突進と同時に、短い腕や爪を使って切り裂こうとするも、それは軽く躱される。

 カートの持つ左手の短刀は、小悪魔の胴体を切りつけ、その勢いで、真横に振り抜かれた右手のショートソードで首と胴を分けた。
 間髪入れず、カートは手にした短刀を投げ、蟲・《ビートル》の一匹を標本のピンのように突き立てる。
 残った《ビートル》も、レオノーラのロングソードの餌食となり、一振りで二匹同時に叩き斬る荒業まで披露した。
 その間に、数匹がテアに向かったが

「――――」

 冷たく淡々と綴られてゆく詠唱に、蟲たちは()()()させられる。
 雑魚に使うほどの魔法ではないが、彼女はそれを披露したかったようだ。
 そんな中、やられてゆく()()には目もくれず、一気に――ある者に向かって、駆けるモンスターがいた。

「シェイラッ、《トロール》が向かったぞ!」

 ベルグの言葉に、シェイラはハッとした。

(そ、そうだ、私もこのパーティーの一員なんだ……!)

 と、目に力を込め、両手で槍をしっかりと握りしめた。
 シェイラは、訓練通りに――腰を落として、足を踏みしめ敵を待つ。

「グルォォォッ――」

 唸りをあげて、暴力的に突っ込んでくるそれは、『人間のようだ』と形容されたままであった。
 両手に握られたゴツいこん棒を振りかぶり、目の前のシェイラ目がけて力任せに振り抜く。
 ――だが、それは空を切っただけで狙った女を捉えられない。それどころか、脇を抜けたと同時に左わきを一突きされている。
 この程度で倒れる《トロール》ではないが、その浅黒い巨体に走る痛みが、それを怒らせた。
 ブンブンをやみくもに振り回されるこん棒を、シェイラは持ち前の回避能力で避けてゆく。
 その度に、脚や腕などに次々と刺し傷や切り傷を付けていった。

(いけるっ――!)

 一瞬、『訓練に比べれば楽だ』、と思った時であった。
 訓練場での訓練と違う箇所の存在に、この時のシェイラはまだ気づいていない。
 彼女がそれに気づいたのは、《トロール》が、頭上で構えたこん棒の一撃を、後ろに飛び退って躱そうとした時だ――。
 その背中に、ガツッと何かにぶつかったのを感じた。

「えっ――?」

 シェイラは集中するがあまり、ここが迷宮の通路だと言う事を忘れていた。
 空間があると思っていた場所に壁があった――その混乱と理解までの間が、一瞬トロールへの意識を外してしまったのである。

「シェイラッ、槍を立てろッ!」

 レオノーラの“指導”にハッとし、それに気づいたシェイラは反射的に槍を立てた。
 その直後……渾身の力を込めてフルスイングされた《トロール》のこん棒が、彼女の軽い身体を槍ごと吹き飛ばす。

「うっ、ぐぁッ――」

 余りの怪力と勢いに、バランスの崩したシェイラの軽い身体は、勢いのまま横に転がった。
 ベルグやレオノーラ達は、ぐっと足に力を入れて呻き声をあげるシェイラを見守っている。
 ベルグ達が《トロール》を通したのは、シェイラと戦わせるためであった。
 荒療治ではあるが、新米冒険者に自信をつけさせるには、この手のモンスターを自力で倒させる方がいいのである。

 ――勝った

 トドメを刺さんと、喉を鳴らしながらゆっくり歩み寄ってくる《トロール》に、シェイラは恐怖すら感じていた。
 思わず“弟”や、教官に目を向けようとしてしまう。
 だが、その恐怖をぐっと抑えつけ、飛び跳ねるようにしてその身体を起こし――

(もう、誰かに守ってもらうのはたくさんなのッ!)

 ズンッ――と、上から叩き潰さんとする《トロール》の首下に、白銀に輝く槍を突き刺した。
 槍から、呼吸しようと喉が動いているのが伝わる。ブルブルと震えているのが伝わる。
 手にしていた棍棒が、ゴッ……と音を立て、石床に落ちた。
 命が消えて行くのを分かったシェイラは、手を緩めず、槍をねじるようにグッと押し込んだ。
 手に嫌な感覚が伝わる。槍の穂先が首を突き抜けると、《トロール》は膝から崩れ、ズン……と迷宮の地面に臥せった。

「た、倒した……よね?」
「……」
「わ、私、この《トロール》倒したんだよね……」
「……うむ!」
「や……やっ、やっ――やったぁーーッ!」

 抑えきれぬ喜びのまま、シェイラはベルグに抱きついた。
 シェイラは嬉しくてたまらなかった、モンスター退治は《キングクラブ》で既に経験したが、このような巨大なそれや、イメージしていたままのそれを討伐できたからである。
 目に涙を浮かべ、大喜びしているシェイラに、レオノーラは『一匹倒しただけではしゃぎすぎだ』と叱ったが、その声は震え、目元を指で拭っていた。

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