1.初めての迷宮（1）
翌日、日が最も高くに差し掛かった頃――。
ベルグ達は、宿屋の女将と共に“社交場”があると言う、町はずれの迷宮へと足を向けていた。
彼らの眼前には、闇が口を広げている地下への石階段が続いている。
しかし、そこはまだ迷宮ではない。地の奥底へとような階段を下ると、幅員三メートルほどの通路が続く。その奥にある、垂直に梯子を下ってから、初めて迷宮に入った事となる。
ベルグ・カートが先に降り、それに続いて、シェイラが梯子に足をかけた。
震える足でゆっくりと、カツ……カツ……と音を立てながら、初めての迷宮の闇の中に身を沈めてゆく――。
降りた先は、平積みにされた石壁に囲われた、数メートル先すら見えない玄室の隅に繋がっていた。ねっとりとした漆黒の闇を、注ぎ込んだような場所である。空気は冷たく、足場を照らすランタンの灯りが無ければ、どこに誰が居るのかすら分からないだろう。
シェイラは、呼吸をゆっくりと整えながら、橙に映し出された周囲をぐるりと見渡す。
――ふと、梯子のすぐ傍に掲示板が掲げられている事に気づいた。
どうやらここは、冒険者たちの待合所にもなっているようだ。下品な言葉から、歓喜や賞賛・嫉妬と羨望の新旧雑多な言葉が刻まれている。
それを見たシェイラの胸は、どくん……と高鳴るのを感じた。
（冒険者になれた、って感じがする……）
――想像するのは、外に身ぐるみが剥がされた新人冒険者が転がる、小奇麗な酒場。
そこに、どこで手に入れたのかと聞かずにはいられない、煌びやかな槍と鎧――。
髪をかきあげ、皆の注目を浴びながらカウンターに腰かけ、冒険上がりの一杯を飲む己の姿。
BGMはいつぞやの食堂のように、汚い言葉で
『やっちまえ〔あ〕！』
『ぶち殺してやれ〔ああ〕！』
や
『ちゃんと鑑定しろよ、この役立たずッ！』
『るせぇッ、この高BPの荷物持ちがッ！』
と言った、罵り合いからの喧嘩が繰り広げられる。
それ背景に、シェイラの冒険終わりを見計らい、横に腰かけた一人の男――。
「え、えへへ……」
「――妄想力だけは、やけに逞しいなお前……」
「はッ――！？」
大物になるよ、とカート呆れながら首を左右に振った。
その妄想のお蔭か、シェイラは僅かに落ち着きを見せている。
ここに来るまで――眉を掻いたら、今度は耳の下、その次は頬を……と、絶えず身体のどこかを触り続け、カチャリ……カチャリ……と、身に着けた金属鎧が触れ合う音が止まない状態だったのだ。
しかし、少しだけマシになっただけであり、緊張状態には変わらない。
どこか遠くで、カツーンッ……と音が鳴る度に、ビクり身体と表情を強張らせてしまう。
「――石が転がった音です」
と、宿屋の女将――名は呼びにくいので〔テア〕で良いと言った彼女は、白いローブに装飾が施されている、
“美のエルフ”と呼ばれるだけあって、その全てが美しく整っている。その純白のローブが、エメラルドような美しい髪を、更に雅に見せた。
――その司教の姿で皆の前に現れた時は、誰もが我が目を疑ってしまっていた。
色々なクラスで体験してきたが、高尚なほど需要が高く、コレに落ち着いたらしい。
「……しっかし、アンタが司祭様だったとはねェ」
「人間よりエルフ、一般人よりクラス持ち……付加価値とは大事なのですよ？
だけど鎧が面倒なのか、ロードなどはあまり人気が無くて……」
それを聞いたレオノーラは、顔を赤くして『破廉恥なッ！』と声を荒げながら降りて来た。
身に着けている鎧は、そのテアがクラスを渡り歩いて来た時に着ていた、エルフのプレートメイルである。防御よりも回避に重きを置いているため、板金は薄めとなっているらしい。非常に軽く、非力なエルフでも動きを損なわない鎧だった。
見た目はやや貧弱な印象を与えるものの、表面には魔法による保護が施されているため、鎧としては一級品の代物だろう。
レオノーラは、つい『この軽い鎧なら、恐らくこう……』と、その光景を想像してしまったのだ。
シェイラも同じ鎧を纏っているものの、ついに始まるであろう“迷宮探索”に、そんな事を考える余裕がまるでなかった。
「――じゃ、飛びましょうか。歩くと少し面倒ですし。皆さん、私の近くに寄って下さいな」
「と、飛ぶ……！？」
シェイラはその意味がよく分からないまま、ブツブツと何か唱えるテアを見守っていると、ふいに周りの空間が歪み始めた。
・
・
・
若干の気分の悪さを残しながら、歪みが治まった周囲を見回すと――。
壁のあった場所に壁がなく、左右にだだっ広い漆黒が広がっている場所であった。
「え、えぇっ……さ、さっきと場所が……！？」
「“転移”の魔法です。石の中でも、どこでもジャンプできますよ」
テアの言葉に、カートやベルグも目頭を摘まむようにしながら小さく顔を振っていた。
グラリ……と眩暈のような感覚を味わったのは、シェイラだけではなかったようだ。
「便利だが、この歪みは相変わらず気持ち悪りィな……」
「エレベーターに比べればマシだな。あれは慣れん……」
「え、エレベーター！？ ……って何だっけ……？」
初めての迷宮は、シェイラには知らない単語だらけであった。
訓練場で習っていたはずだ。しかし、今のシェイラには、そんな事を思い出せるような余裕がない。
先ほどよりも更に空気が冷たく、梯子を降りた所とは比べ物にならないほど、闇に重苦しさが彼女から余裕を奪い、どこかで物音が聞こえるたびに、ビクりと身体を震わせてしまっていた。
階層としてはまだまだ浅い方なのだが、その瘴気・腐臭のような悪臭に、ぐっと喉を鳴らしてしまう。ゆっくり深呼吸をして、落ち着かせようとしていた時――どこか遠くから。何かを叩きつけたような、強い物音が響いた。
「ッ――！？」
「あれは、他の冒険者が扉を蹴破った音です。
扉の先に、モンスターが待ち構えている事が多いですからね。
静かに開けて『こんにちは？』ってやる阿呆はいません。友好的なの以外は」
テアの言葉を証明するかのように、すぐに何かと戦う音が起り始めていた。
剣と何かが打ち合う音、盾で攻撃を防ぐ音、多種多様な音がそこから聞こえ――。
最後は小さい呻き声と、何かが倒れる音がした。
「冒険者は死にました。なむ……」
「――ィ……ッ！？」
「ほら、小さいですが、ぐっちゃぐっちゃって聞こえるのは――」
「き、聞こえませんっ、聞こえませんっ……」
シェイラの身体は強張り、寒くないのに震えている――。
テアはあえて死ぬ様、その末路を、こと細かく実況していた。
反応が面白かったのもあるが、“迷宮での死”をシェイラに教えたかったのだ。
引き際を誤れば、怪我の治療を怠れば、武器防具の手入れなど事前準備を怠れば、それはすなわち“死”に直結する、と。
レオノーラよりシェイラの事情を聞いたテアは、教えられる事は教えるつもりでいたのである。
「口うるさくてすみませんね。
なにぶん長生きなもので、あれこれ語りたいのですよ。はい」
「テア殿の言葉の通りである。いいか、迷宮の空気に飲まれるな。
この時のために訓練場にて“訓練”してきたのだ。
訓練場と違うのは場所が違うだけ、低層のモンスターなど恐れるに足らんッ！」
「は、はひッ！」
声が裏返ってしまったものの、テアやレオノーラの言葉に、シェイラはぐっと槍を握り直した。
「では、“探索訓練”を始めましょう」
と、ベルグを先頭に、迷宮内にコツコツと足音を響かせながら歩を進めてゆく。
テアは“明かりの魔法”を唱えたので、周囲が明るく照らし出されたそれに、少しだけ安心を見せる。
――だが、迷宮内では、“何か”と気づかない方がいい事もある。
