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悲劇の始まりは突然に

 ミカはしばらくの間、俺の家に寝泊まりしていた。
 俺は彼女の紙切れや鉛筆切れが起こらないように注意し、なくなりそうになったら近所の文房具屋に走った。
 お腹が空くと彼女が言うので、好物のあんパンの差し入れもした。
 妹に頼んで、夕食には彼女の好物の食材を増やした。

 作詞作曲をするのは夜昼ないそうだ。だから、彼女は時々居眠りをする。
 ある時、いつものようにダイニングルームの壁を背に両膝を立てて五線紙に音符を書いている彼女がいたので、俺は彼女のすぐ左横に並んで座ってみた。
 くっつかんばかりに近いと驚くだろうと思ってやったことだが、彼女は気づかない様子だった。
 そのうち、彼女は頭をコクリコクリとやり始めると、だらりと俺の肩に頭を載せてきた。
 これには正直驚いた。頭が重いので本当に眠ってしまったようだ。
(このままにしておくか)
 妹が長風呂に入っているので、俺はジッとしていた。
 すると、寝ているはずの彼女は、俺の右腕に左腕を絡めてくる。
(え? 起きているのか?)
 ギョッとして彼女を見たが、寝息を立てている。
 ジュリ以外の女性に腕を組まれたことはないので、こういうときにどうしてよいのか分からない。俺は顔が熱くなるわ、動けないわで、散々だった。

 またある時、作曲を終えた彼女がちゃぶ台の上の置かれた湯飲みを手にして、飲み残しのお茶をすすりながら、そばにいた俺の方を見て言う。
「ねぇ」
「何?」
「好きな人いる?」
 俺は狼狽(うろた)えた。この手の質問は、前もって質問集に書いて渡して欲しい。
「……」
「私は、いるよ」
「バ、バッハとか? 大バッハだっけ?」
 彼女は笑っていたが、答えなかった。
 こちらはしどろもどろになりそうなので、(俺じゃない、俺じゃない)と心の中で繰り返し、冷静さを取り戻そうとしていた。
「時が来たら言うね。私が好きな人」
「お、おお……」
 動揺する俺を見て、彼女がまた笑った。
 こうしていると、ジュリと俺とは本当に友達止まりなんだなと思えてきた。ジュリが同じことを言っても動揺しないし、それどころか、どうとも思わないからだ。

 彼女が家族の一員に思えてきたある日、俺の通う学校の生徒に事件が起きた。
 後方支援部隊に協力する四名の生徒の壮行会が行われたが、翌々日の朝、四名は赴任した先で遺体で発見された。全員が何者かにおびき出されて刺されたらしい。
 学校は悲しみに包まれ、彼女は葬儀に向けてレクイエムを作曲すると言い出した。それを生徒会長に進言したら、けんもほろろに拒否されたらしい。
「あの縦ロール頭、許さない!」
 俺と一緒に帰宅した彼女は、ダイニングルームに入ると鞄を投げ出して、珍しくキレていた。

 俺と妹が「残念だ」と慰めていると、誰かが玄関の扉をノックしている。
 二人で玄関へ出ると、ちょうど扉が勢いよく開かれ、やせ細って着物を着た黄色い髪の毛の女性がズカズカと入ってきた。俺は扉の鍵を閉め忘れていたことに後悔した。
「どなたですか!?」
 妹が女性の前に立ちはだかると、女性は妹を横にどけて怒ったように言う。
「ここに、うちのミカがいるはず!」
 俺がダイニングルームの方を見ると、ミカはその声を聞いてハッとしたらしく、立ち上がっていた。
 そして、女性は許可もなくダイニングルームへ入って行く。
 ミカは叫んだ。
「お、お母さん!?」
 女性は急に泣き崩れた。
「どんなに探したことか……」

 ミカの母はナオミと言った。いろいろ経緯を話してくれたが、本人の話は自分を正当化しているから、俺達の視点に変えて要約すると以下の通りである。
 母ナオミは友達の家を転々としていたが実は酒癖が悪く、友達の家で世話になっているにもかかわらず、外で働かないし手伝いもしないで、酔っては周囲に当たり散らしていたらしい。
 昔は貴族だったので華やかだった時代を回顧したり、才能ある娘の自慢話をするが、一般市民には鼻につくだけ。
 金の切れ目が縁の切れ目となり、家を追い出されて路頭に迷っていたが、ここでミカを頼ることにした。
 学校で見張っていたら、俺と帰るミカを見つけ、家まで跡をつけてきたらしい。

 母ナオミは土下座をし、額をダイニングルームの床に何度もこすりながら嘆願する。
「……どうか、……どうか、どうかここに置いてください。働きます、手伝います、何でもします!」
 俺と妹は(どうする?)と声を出さずにミカの方を向いて判断を待った。
 当面お金を出すのはミカなのだ。
 ミカは涙ぐんで答える。
「お世話になろう。お母さん」
 母ナオミは娘の言葉を聞いて床に涙をためた。

 しかし、その話は出任せだった。
 来る日も来る日も、母ナオミは家から一歩も外に出ない。
 留守番には有り難いことだが、昼間からミカのお金で酒を飲んでいる。
 俺達が家に帰るときには、すっかりできあがっている毎日なのだ。
 酒の臭いで満たされたダイニングルームで顔を真っ赤にしてぶつぶつ言ったり、叫んだりしている。しかも、止めに入るミカに当たり散らす。
「あの楽譜さえ燃えてなければ売れたのに。畜生! なんで灰になったんだろうね……。やい、てめえ。……歌ばかり書いて売れるか! シューベルトを見てごらん。まともに売れたのは死んでからじゃないか。てめえが生きてる時にもっともっと売れる曲を書きなさいってんだ!」
 母ナオミは、残っていたビールを一気に飲んだ。
「金にならん友達相手に歌ってんじゃないよ! たんまり金を出す客相手に歌え! 従軍してもいいんだよ。音楽隊に入れば好きなだけ曲が弾けて、しかも金まで入る。フン。……どこでどう間違ったんだろうね、この出来損ないめが!」
 そして、次のビール瓶の栓を抜いて言う。
「ケッ! 曲は、売れなければ生ゴミと同じさ! ばかやろ!」
 これにはさすがに頭にきた。
「あなたも働いてください! そうおっしゃったじゃないですか!」
 母ナオミはムスッとした顔で言う。
「てめえ、ばかやろ! こんな世ん中で働けるか-」
 俺はその言葉を遮ってキッパリと言った。
「働くことがこの家にいる条件です!」
 母ナオミは鼻でフンと笑った。話にならなかった。

 次の日の朝、ミカと母ナオミはダイニングルームから荷物と一緒に消えていた。
 何も書き置きがなかった。
 その後、ミカ達を見た者は誰もいなかった。さすがのミカ・アーベントの連中も、行方を知らなかった。
 正論ではあったものの、俺のあの言葉がミカ達を追い出したことに強い責任を感じていた。
 毎日のようにミカとの日々を思い出して胸が苦しかった。
 お礼にもらった楽譜を見て、壁にうっすらと残る音符の跡を見て、涙が止まらなかった。
 ダイニングルームから荷物をまとめて出て行くミカを追いかける夢を何度も見た。その度に、うなされて飛び起きた。

 1ヶ月後、近所の畑で作物が時々荒らされるという農家からの苦情と、近くの山で複数の人影を見た、何者かが隠れているらしい、という情報から、近所の人が総出で山狩りを始めた。
 翌日、スパイが潜伏している恐れがあると考えた軍部も山狩りに兵士を派遣した。
 雨の中の合同山狩り初日は何も見つからなかった。さらに雨の中2日目、3日目と山狩りを続けたが見つからなかった。
 ようやく晴れた4日目の朝、胸騒ぎがした。
 山の中で膝を抱えて座り込み、止めどもなく涙を流すミカの夢を見たからだ。
(人影はミカ達じゃないのか?)
 いても経ってもいられなくなり、4日目の山狩りに名乗りを上げて捜索に協力した。
 俺はカワカミという女兵士と行動を共にした。

 カワカミはフーフーいいながら「こんな山の中、隠れるところないよ。もう逃げたんじゃないかな」と言う。
 俺はそれには耳を貸さず、ミカ達の姿や持ち物を探した。人影はミカ達だと決めていたからだ。
 俺は冗談を言ってみた。
「カワカミさん、そこからワッと出てきたらどうします?」
 カワカミは「ぶっ放す」と拳銃を持って笑う。
(俺が先に見つけなきゃ)
 先を急いだ。

 その時、カワカミは大きな声を上げた。
「そこ、崩れているから近寄るな! 雨で地盤が緩んでいるから危ないぞ!」
 土砂が崩れて洞窟らしい穴まで塞いでいるみたいだ。
 危ないと言われて引き返そうとしたが、土から白い物がのぞいているのに気づき、カワカミの許可を得てそこに近づいて行った。
 それは紙だった。
 かぶった土を払いのけると、五線に見慣れた音符と歌詞の筆跡が見えてきた。
 俺は震えながら紙の右上を見た。<No.291> 間違いない、ミカの筆跡だ。

「カワカミさん! 俺の知り合いの持ち物です! もしかしてここに……」
 ここで言葉を飲み込んだ。
(埋まっているとは言いたくない)
 カワカミは女兵士を何人か集めてきて塞がっている土をのけると、洞窟の入り口が現れた。
 何も出来ないので遠巻きに成り行きを見守った。
 二人ほど洞窟の中に入っていく。すると、中から大きな声が聞こえてきた。
「人がいます! 二人!」
 その二人が誰だかは、落ちていた五線紙から類推できた。
 だから祈った。
(生きていてくれ!)
 しかし、現実は非情だった。
「二人とも息がありません!」
 俺は気を失いそうになった。

 改めて警察の検分が始まった。
『知り合いの持ち物』と言ってしまったために、俺は参考人として遺体に立ち会わされたが、死に顔を直視できなかった。
 彼女達と思いたくなかったからだ。でも、黄色い髪の毛には嘘をつけない。認めざるを得ないのだ。
 さらに、二人のそばに落ちていた所持品が決め手となり、洞窟の奥にあった女性二人の遺体はミカと母ナオミであると断定された。

 どんなに辛い思いをさせたのだろう。どんなに悲しい思いをさせたのだろう。どんなに苦しい思いをさせたのだろう。

 後悔の日々は終わることがなかった。<No.291>の数字『291』から読めるミカのメッセージに苦しんだ。
 俺はどうすればよかったのだろう。

 今日もミカの夢を見て飛び起きた時、突然、左手中指の指輪がブルブルと震えだしたので、さらにギョッとした。
「もしもし」
 胸が苦しいので、やっとの思いで声が出た。涙声だった。
「あら、泣いているノ~? どうしたノ?」
 未来人だった。彼は優しく声をかけてくれた。
 俺は指輪の電話を通してミカの顛末をかいつまんで説明した。

 彼はしばらく黙っていた。
「もしもし」
 俺は交信が途絶えて不安になった。
(人の話を聞くだけ聞いて切る奴じゃないよな。待ってみるか)
 さらに長い沈黙が続いたが、ようやく「調べたわヨ」と彼の声がして安心した。
 ところが、彼は残念そうに言う。
「えーと、そのミカちゃんって子。やっぱ、あんたに出会ったことが間違いね」

 間違い-
 彼女と出会ったことが間違い-
 あれが間違いだった-

 俺は腑に落ちなかった。
「どうして?」
「えーとネ、ミカちゃんはあんたに出会わなければ、24歳まで生きるノ。そして、800曲の歌曲を作詞作曲したということで歴史に名を残すノ。しかも火事で消失したはずの楽譜は、とある叔父さんがほとんどすべて事前に写譜していて。その人、楽譜を隠し持って悦に入っていたというヒドイ人なんだけど。交響曲9曲、協奏曲12曲、室内楽10曲、ピアノ独奏曲が70曲残っているノ。全部で900曲あまりね」
 音楽用語は分からないが、数字で凄さは分かる。
 そんな天才の運命を滅茶苦茶にしたのかと思うと、また胸が苦しくなった。

 涙をすすりながら彼に尋ねた。
「本当に間違いだったのか?」
『出会ったことが間違い』自体を、彼の『言い間違い』にして欲しかった。
 そうなることを半分期待していた。
 しかし、彼は結論を変えない。
「そう。間違いだったのヨ」
 今まで彼女のためを思ってやって来たこと、彼女を支えてきたことが全否定されたのと同じだ。

 ならば、解決の糸口を探すしかない。
「じゃ、どうすればいい?」
 彼は容易(たやす)く言う。
「時間を戻してあげるから、出会わないようにすれば?」
 言われた瞬間はムッとしたが、さっきも『出会ったことが間違い』と言われたので、そういうものかと思うしかない。

 つまり、彼女を救うためには、彼女と出会ってはいけない。
 それがこの並行世界での俺と彼女の運命だったのだ。
 彼女の運命の歯車を俺が狂わせた。
 だから、それを元に戻す必要がある。
 となると、時間を戻すことになる。

 出会わないことで本当に彼女が救えるのなら、
 あの楽しかった彼女との想い出を全て諦めるしかないのだ。
 何を優先するか。
 それは彼女の救済だ。

「じゃ、どうやって出会わないようにすればいい?」
「こっちから時間を戻すから、あんたはそのままで待っていればいいわヨ」
「そんな簡単に?」
「そうヨ。今修理中の装置は、指輪と連動して時間を戻す機能までは壊れていないノ。だから、時間を戻すのは簡単。……でもネ、一つ問題があるノ」
「問題って?」
「それは、あんたがミカちゃんと出会わないように行動できるか、なのヨ」
 これには理解がついて行けなかった。
「単に出会わないようにすればいいんだろ?」
「あのネ。そっちの世界であんたの時間を戻すと、あんたの記憶もその時点に戻るノ。紙で書き置きを残しても、時間が戻ると紙に書いてあることは消えるノ。と言うことは、何かしないともう一度同じことを繰り返すのヨ」

 ようやく意味が分かった。

 時間を戻すのは簡単だが、問題がある。
 昔に時間が戻ったので、記憶も昔に戻る。要するに今までの記憶が消える。
 何かに記録しておいても、記録は消える。
 そういうリセットなのだ。
 そうなると、何もしなければ俺はもう一度ミカに出会う。
 出会うと付き合いが始まる。
 延々と同じ日々を過ごし、そこに母親が転がり込む。
 俺が母親をたしなめるとミカ達は家出をする。
 ミカ達が死ぬ。
 また時間を戻す。
 これを永遠に繰り返す。

「じゃ、どうすれば?」
 彼は言葉を続けた。
「えーと、あんたの記憶に賭けるしかないわネ。今回の悲しい体験は強烈だったでしょうから、時間を戻しても微妙に記憶が残るのヨ。その微妙な未来の記憶で過去の行動を変える。失敗したら同じ悲劇を繰り返すわヨ。やれる?」

 記憶がリセットされても、強烈な体験は未来の記憶として僅かに残るらしい。
 未来の次に過去が来る。
 ということは未来の記憶は前世の記憶と言っていいのだろうか?
 それを何とか思い出して行動を変える。
 僅かな記憶を頼りにミカと出会わないようにするのだ。

 果たしてそんなことが出来るのだろうか?
 否、やらなければいけないのだ。

 俺は考えに考えて決心した。
「俺、やります!」

しおり