未来の記憶
未来人は俺の決心を確認すると「じゃ、時間を戻すわヨ」と言う。
――時間を戻す
そんな空想科学のような出来事が今まさに起ころうとしている。
彼が実行出来ると言うことは、未来では誰でも日常的にやっていることなのだろうか。
現代ではそのような高度な技術はないので、もしこれが本当ならば、人類初の体験かも知れないのだ。
そのような栄誉に浴するとは、なんと
そう思うと、時間を戻している最中に目の前で何が起こるのか、ヒーローショーの舞台に
しかし、一向に何も起こらない。
(いや、まだ準備に時間がかかるのだろう)
それにしても遅い。もう一度辺りを見渡したが、何も変化がない。
ショーの開演が遅れて
(そろそろか?)
昔、SFのテレビ番組でタイムマシンを観た覚えがある。あの時は主人公が乗ったタイムマシンの窓の外で、光の筋が走っていたような気がした。かなり適当な演出だったのかも知れないが。
そう言えば、こちらの並行世界に飛ばされた時、光に包まれた。
また同じことが起こるかも知れない。あの時は光が眩しくて目を開けていられなかった。
そこで、目を閉じてみた。
しかし、光に包まれるのでもなく、逆に暗闇に投げ込まれるのでもなく、瞼の向こうには何も変化がない。
(騙されたか?)
そう思ったところで、フッと意識が遠のいた。
誰かに揺さぶられていることに気づいて目を開けた。
目の前に妹の顔がある。
「お兄ちゃん、朝よ。もう学校行く時間だから、早く起きて」
妹はいつまでも寝ている俺を揺さぶって起こしてくれたのである。
布団に転がったまま、枕元の腕時計を見た。腕時計の日付は、学校に復帰してから8日目の日にちを表示していた。
もう少しゴロゴロしていたいのだが……。
「早く早く」
起き抜けだから体を慣らしつつ徐々に活動したいマイペース派の俺。しかし、それに異を唱える妹は、容赦なく何度も
仕方なく着替えを済ませ、食事もそこそこに鞄を小脇に抱える。
(そう言えば未来人、あれから音沙汰がないが……)
数日前、いきなり電話を掛けてきた未来人が、自分の言いたいことだけ喋りまくり、あげくに『電池がない』と一方的に電話を切ってから、パッタリと連絡が途絶えたのだ。
(何手間取っているのだろう……)
「はい、行って行って」
セーラー服に着替えた妹が俺の背中を押す。靴を履きかけていたので、前のめりになり
俺達にとっては、いつもの通学風景。
玄関を出る。快晴だった。
何か良いことが起こりそうな気分。
そろそろ未来人から連絡が来ても良さそうだ、と何の根拠もなく期待して学校に行った。
学校へ行くと、朝礼の時に担任のカオル先生から、日直は職員室に行ってクラス全員分の音楽ノートを持ってくるように、と頼まれた。
今日の日直は、俺ともう一人の女生徒だったが、いつの間にかそいつが教室から煙のように消えていたので、仕方なく俺一人で行くことにした。
職員室で音楽の教師から音楽ノートを受け取り、一礼して職員室を出た。
何か廊下が騒々しい。
角を曲がると、向こうの方で取っ組み合いの喧嘩が始まっていた。そこで、いつもは通らないルートへ迂回することにした。
職員室に戻って逆方向の廊下を渡り、突き当たりの階段を上る。
ここは、初めての道なので新鮮だった。
階段の下から見上げると、踊り場の上の窓から暖かな日差しが差し込んでいた。
それを見ながら踊り場にたどり着き、右横に曲がって次の階段を上ろうとしたその瞬間、ギョッとした。
階段の真ん中で膝を抱え、膝頭に額を置いて座っている女生徒がいる。
ここで急に、遠い記憶が蘇ってきた。
(この光景……それを見て驚く俺……これを知っているぞ……経験したのか?……どこで?)
目の前にある光景は、過去に実体験してはっきりと記憶に残ったものではないはずだ。
でも、この見覚えのあるシチュエーションはなんだ?
過去にこんな経験をしていないはずなのに、している気がする。
(これからこういうことが起こる、ということをあらかじめ知っていたのか。予知が現実になった時の感覚なのか。)
初めて見ることが初めてに思えない感覚に襲われ混乱していると、彼女は俺に気づいて顔を上げた。
彼女の顔がすぐ目の前だったので、俺は後ろに下がった。
顔を見ると面長で西洋人のような顔立ちをしていて、黄色く染めた美しく長い髪が階段まで垂れている。
蝋人形のように肌がすべすべしていて白いので、マネキンに見えた。
女生徒のマネキンが階段の途中で膝を抱えてチョコンと座っているのである。
「あのー、そこに座られると困るんだけど」
ぶっきらぼうに言うと、また遠い記憶が蘇ってきた。
(あれ? これを言ったような気がする……)
俺の脳は、見覚えある光景と遠い記憶に合わせて、忠実に行動を再現しようとしているらしい。
今見えていることと、それに対して起こす自分の行動が、遠い記憶と一致するのだ。
言い換えると、遠い記憶と同じ行動を体が再現しようとしている。
と思ったその時、心の奥から何かが湧き上がり、体の中を通って声として耳に到達した。
(話しかけてはいけない……彼女に話しかけてはいけない)
これは記憶ではない。
心の中にいる誰かが、この先どうなるかを知っていて、そうならないように導こうとしているようだ。
体の動きに逆らえということか。
彼女は悲しそうな目でこちらを見て、不思議なことを言い出した。
「紙、ない?」
(紙?)
一瞬、彼女の座り込んだ姿勢からトイレットペーパーを連想した。
またまた遠い記憶が蘇ってきた。
(これも知っている……彼女がそう言って、俺はこう連想することも……)
(話しかけてはいけない……彼女に話しかけてはいけない)
既視感と警告の声。
どうもここは、強引にでも次の行動を取ろうとする体の動きに逆らった方がよさそうに思えた。
『何の紙?』という疑問の言葉を飲み込んで、「悪い。急いでるから」と彼女の左横を取り過ぎる。
それは体にとって想定外の行動だったはず。
自分の意思で次なる行動をねじ曲げたため、動きがぎこちない。ギクシャクする身体が階段を足早に上っていく。
耳に神経が集中し、彼女の音を拾おうと頭が後方に少し角度を変えた。
彼女が、ふぅと溜息をついたのは聞こえたが、それ以上は何も聞こえてこなかった。
後ろ髪を引かれる思いだった。
困っている人を無視したという罪悪感が残ったからだ。
(でも、これでよかったんだ……これでよかったんだ……)
自分を納得させながら教室へ急いだ。
すると、ナゼだろう。
目から何かが
そう、
それが両頬を伝わり、顎を首を濡らしていく。
声にならない嗚咽。
男泣き。
『さよなら……さよなら……』
何故、知らない彼女に対してこの言葉を口にしたのか、今も分からない。