流浪の民
翌日から俺は例の階段の踊り場で、よく彼女が座り込んでいるのを見かけた。
もちろん、作詞作曲のためである。
話しかけると、紙が欲しい、鉛筆が欲しいと言うので購買部へ走る。
お腹が空いたと言うので好物のあんパンを差し入れる。
物を買う時のお金は全て彼女が出したが、少しくらいならこちらが出してもいいと思っていた。
彼女の役に立ちたい、という気持ちが強くなっていたのかも知れない。
いや、もしかしたら気に入られたいという気持ちからか。
しかし、金銭的な繋がりはそれのみの繋がりになるといって良い。
その行き着く先は、『金の切れ目が縁の切れ目』という言葉が教えてくれる。
なので、『俺が出す』という言葉は、言いそうになる度に飲み込んだ。
時折交わす短い会話の後は始終無言の彼女だったが、新曲の作詞作曲の手伝いをしていると思うと、彼女の沈黙は苦にならない。
いつの間にか彼女の世話係になっている俺だった。
彼女はいつも感謝してくれた。「嬉しい」とも言ってくれた。
言い過ぎだろうが、『経済的にではなく、精神的に彼女を支えているパトロン』になっていたかも知れない。
才能のある彼女を支えていると思うだけでも嬉しかったし、時折見せる彼女の笑顔が
これは、ジュリと一緒にいた時には一度もなかった感情だ。
もっと、彼女の
頼られる存在になりたい。
そして、
できることなら、俺にだけ笑って欲しい。
それは、彼女に対する独占欲なのだろうか。
徐々に芽生える何かなのだろうか。
自分はまだそれほど強く彼女を独占したいとは思っていなかったのだが、実は、他人が俺に向ける目にはそうは映っていない。
どう映っていたのか、それに気づくのは意外に早かったのである。
2回目のミカ・アーベントも誘われるままについて行ったが、教室へ入るや否や、青色の髪の女生徒から「入ってこないで」と言われた。仕方なく、廊下へ出て彼女の歌を聞いた。
ミカは俺に「全員の希望だからゴメンね」としか言わなかった。
(ミカの世話係の現場を見られたからに間違いない)
実は、俺とミカが二人でいるところを青色の髪の女生徒に何度か目撃されている。
その時の彼女の目は、明らかに俺に対する敵意で満ちていた。
ミカが「全員の希望」と言っていたが、青色の髪の女生徒がミカ・アーベントの参加者に何か吹き込んだに違いない。彼女を独り占めしようとする男、だと。
3回目のミカ・アーベントを廊下で聞いていると、休憩の時間に青色の髪の女生徒が音楽室から出てきた。
彼女は俺を睨み付けながら近づいてきて、強い口調で「帰って!」と言う。
「いや、誘われたし」と弁解したが、女生徒は声を荒げて「もう近づかないで!!」と言ってその場を動かない。帰らないと解放されないらしい。
俺は、そそくさとその場を立ち去った。
納得がいかず教室でうだうだしていたが、下校のチャイムが鳴ったので、鞄を抱えて下駄箱のところまで行った。
下駄箱を開けると、中からヒラリと白い封筒らしい物が出てきて下に落ちた。
(何だろう?)
足下に落ちた封筒を手にとって見ると、裏に<歪名画ミイ>と書かれている。
(なんて読むんだ?)
読み方を考えていると、不意に後ろから声をかけられた。
「あーっ、そんな物もらっている」
ギョッとして振り返ると、ふくれた顔をしたミカだった。ラブレターと思われたらしい。
俺は早速封筒を握りつぶした。
「いたずらじゃないかな? アハハ」
そう笑うが、彼女はまだ疑っている。
「本当に? イケメンにはラブレターが相場じゃない?」
「いやいや」
彼女は
「実は果たし状かも」
彼女の言葉に、青色の髪の女生徒の顔を思い浮かべた。
果たし状ならなおさらだ。拳に力を入れて封筒をクシャクシャにし、ゴミ箱に捨てた。
「ねえ、今日君の家に行っていい?」
靴を履き替えていた俺は、予想もしなかった彼女の言葉に打たれて
「なんで?」
俺が慌てて質問すると、彼女は困った顔をして言う。
「泊まるとこ、ないの」
(宿無し、か)
俺は少し考えたが、彼女が可愛そうになってきた。
「いいよ」
「ありがと」
彼女は安心した様子で微笑んだ。
帰り道に二人で歩きながら、彼女からいろいろと事情を聞いた。
彼女は貴族の生まれ。戦争で家が没落し、父親は失踪。
小学6年生の時に火災で建物を失った。書き溜めた五線譜が燃えたのもこの時だという。
その後で残っているのは、作詞作曲した歌曲のみ。
親類の家を転々としていたが、母親の性格や酒癖のせいで喧嘩が絶えず、親戚すべての家から締め出しを食らった。
それから彼女は友達の家、主にミカ・アーベントの参加者の家を転々とし、母親も友達の家を転々としているとのこと。
今回の宿無しは、やはり俺が原因だった。
ミカ・アーベントの参加者は俺が彼女につきまとっているように見えたので、俺を閉め出したい。
しかし、彼女は俺にも自分の歌を聞いてもらいたい。
廊下にいた俺が追い返されたことを知った彼女は、あの後、珍しくキレたらしい。
参加者と喧嘩した彼女は、泊まる先がなくなったと言う。
俺の日頃の世話が、純粋な善意が彼女に迷惑をかけたのだ。
「ゴメン」
「ううん、悪いのはあの人達だから」
「それでもゴメン、こんなことになって」
「気にしないで」
彼女の慰めは、俺には痛かった。
家の前に近づくと、台所付近に明かりが
ハッとした。
(しまった、妹の許可を得ていない!)
軽率な判断だった。
どうしようかと迷ったが、ここまで来たからには土下座をする気持ちで玄関から入った。
「た、ただいま」
俺の高ぶる声を聞いた妹は、台所から顔を出してニコッと笑う。
「お帰りなさい」
妹はセーラー服の上に割烹着を着たいつもの姿だ。
すると、ミカが俺の後ろから「お邪魔します」と言って玄関に入ってきた。
その声を聞くと、妹は俺を睨み付けた。
「誰、連れてきたの?」
「あ、あの、家が焼けちゃって行くところがなくなって」
俺は今回の件とは直接関係ないが、一応事実を言った。
妹は冷たく言う。
「被災者の施設があるじゃない」
これには
「いやいや、そこが一杯みたいでさ」
妹は溜息をつきながら言葉を返す。
「戦争で食料品が高騰しているの。一人分は増やせないわ。食事抜きでいい?」
(じゃ、寝るのはいいんだな?)
半分ホッとした。ミカが妹に向かって深々と頭を下げる。
「お金ならあります。食料品は自分で買います。申し訳ありませんが、しばらく泊めさせてください」
妹がずっと無言で立っていたので俺は土下座をしようかと考えていたが、ようやく口を開いた。
「事情があってお兄ちゃんが連れてきたんでしょう? 食料は自分で買ってきてください。少しの間なら泊まっていっていいわ」
ミカは、また深々と頭を下げた。
「ありがとうこざいます」
ミカの部屋は、ダイニングルームがあてがわれた。
ダイニングルームとは聞こえがいいが、全員が食事をするちゃぶ台のある部屋のことである。
この家は台所、トイレ、風呂、ダイニングルーム(6畳)、俺の部屋(4畳半)、妹の部屋(4畳半)、叔父さんが残した開かずの間(広さ不明)しかない。
ミカは妹の案内で、近所の店へ食料を調達しに行った。
しばらくして、二人は少しがっかりした様子で帰ってきた。先週より10%も高くなっていたらしい。戦争が物価を高騰させている。
夕食の準備が出来て、ちゃぶ台の上に俺達の料理が広がった。
三人分の食事が載ると狭かったが、皆で料理を突き合うのは楽しかった。
俺はミカの好みをさりげなくチェックしていた。
妹は、ミカが作詞作曲をしていることを俺から知ると目を輝かせた。
「そんな凄い人とお兄ちゃんは知り合いなの?」
「ああ」
少し得意げな気分になり、俺はミカからもらった五線紙を見せびらかす。もちろん、作品250だ。
妹は不思議がった。
「そんなに曲を作って、楽譜の山はどこにあるの?」
ミカは当然のように言う。
「ないよ。お礼にあげちゃうか、売っちゃうから」
(だからお金を持っているんだ)
俺はミカの収入源の謎が解けた。
ミカは自分の鞄の中をのぞく。
「あるのは最近の曲だけ。だから持ち歩けるの」
妹が感心する。
「だからそんなに鞄が薄いのね」
「そだよ」
ミカに素朴な疑問をぶつけてみる。
「頼まれて曲を作らないの?」
ミカは下を向いて言う。
「しないよ。こないだ生徒会長、あの縦ロール頭から、後方支援部隊に協力する生徒の壮行会用に曲を作れと言われたけど、断ったよ」
ミカは顔を上げた。
「音が降ってくるのは、誰かに頼まれたからじゃないし」
俺はちゃぶ台を片付けてから、ミカ用に薄い布団を敷いて、申し訳なく思って言った。
「これしかないけど。薄い布団だけどゴメン」
彼女はそれでも嬉しそうに笑う。
「ありがと。でも夜中は
彼女がパジャマに着替える姿を想像してしまい、カーッと顔が熱くなった。
「だ、大丈夫」
うろたえる俺に、彼女はニコッと笑って付け加える。
「物音がしてもね」
この不思議な一言に、鶴が夜中に機織りをする<鶴の恩返し>を連想し、夜中に見てはいけないものが見えるだろうかと不安になった。
その不安は的中した。
夜中の0時頃、カリカリと音がする。何か引っ掻いているような音にも聞こえる。
ソッとダイニングルームを
見てはいけない物を見たような気がして、俺は部屋に戻った。
次は3時頃、またカリカリと音がする。
ソッとダイニングルームを
彼女が自分の黄色い髪の毛で機織りしていたわけではないのだが、それでも彼女の謎な行動にゾッとした。
翌朝、ミカの奇行の跡を発見したのは妹だった。
壁と裁縫用の机に歌詞と音符が書いてあるという。
ミカは俺達に平謝りに謝った。
「ごめんなさい。紙がなくて、つい。頭から音が
俺は現場を見た。確かに歌詞と音符が書いてあるが、五線がない。
ミカにその理由を問いただした。
「線がないけど、なぜ?」
ミカは苦笑いして言う。
「書いている暇なくて。後で線を引いておいてね」
(おいおい、どうやって線を引けと)
五線の束縛から離れて、平面に自由に踊る音符の上から五線を引けと言われても、為す術がなかった。
ミカは壁に書かれた♭の文字を指さす。
「ほら、ここにフラットが1つだけあるでしょう。そこが真ん中」
俺は、この部屋にミカ・アーベントの連中を呼んで助けてもらいたい気分だった。
俺も妹もお手上げ状態なので、ミカに五線紙を買ってくるように頼み、自由に踊る歌詞と音符をかき集めて五線譜に閉じ込めてもらった。
ちょっともったいない気がしたが、ミカに雑巾を渡し、壁も裁縫用の机も綺麗にしてもらった。