2 あだ名
彼の見た一部始終を聞いたところで、自分の記憶が戻って来るということも無かった。ほんの僅かばかりその期待をしなかった訳でもないが、記憶の「き」の字も見当たらず。
少年曰く、謎の少女が突然目の前に現れたかと思いきや、自分が落下してくる事を予見してそのまま去って行ってしまった。やがて自分は本当に野原へ落下してきたと。
これだけでは、あまりにも情報が少なすぎる。
「でね、落ちてきた時にもう一つ気になることがあって」
「うん?」
「あの時、君は『やっと』って希望に満ちた目をして言ってたんだ」
「希望に満ちた目、か……。何があったんだろうな」
此処から察するに、多分この時点ではまだ記憶を失っていないのだろう。今の自分は落ちたことすらも思い出すことが出来ないからだ。
記憶に無いとどうしても、無関係な他人事のように思えてしまうな……。
脳内のその全てが闇に覆い隠されていて、そこに記憶が溶けていって……。まるでブラックホールのように、全てを飲み込み、渦を巻いて……。
何だかモヤモヤしてきた。いやいや、こんなことを気にしていてはキリが無いし、また頭痛が出そうだ。
「何にも思い出せない?」
「ああ、何にも」
ここで自分が何かを想起すれば話が早いのだが、何一つとして……。一つとして……。
――そういえば、さっき彼は「少女が落下を予見した」と言った。まるでその人が何かを知っているみたいだ。
とするなら、これは大きなヒントかもしれない。手がかりが無い今、その少女を見つけることこそ、記憶を辿るための最善な手段だろう。
ただ、その少女が何者なのかも分からない現状、見つけ出すまでどれだけ時間がかかるのか検討がつかない。なら記憶を辿るのは後回しにして、今はこの世界、もといここの土地柄や人についてを知る必要がある。早々に見つかったとしても、しばらくはここで過ごすことになるだろうから。
それに、目の前に居る彼についても興味深い。そして、守ってやりたい。
何だろうこの気持ち。今日が初対面だというのに。
「でも、オイラは何も気にしちゃいないよ。ただ生きているだけでも奇跡だって、お前が言ってくれたじゃないか。ならそれを受け入れて、今を精一杯生きるだけだ。だからお前は、何も気に病む必要はないよ」
「そうなのかな」
「そうさ」
何も気にしていないなんて、少し嘘をついてしまった。でもそれ以外は本心だ。部外者であろう少年が悲しむ必要も無い。それに、彼には心配そうな顔をして欲しくない。その表情を見ていると、何だかこちらも悲しくなってしまう。何ともまあ不思議なこともあるんだな。
「聞きそびれていたけど、お前、名前は何ていうんだ?」
これだけ意識をしてしまう少年の名前を、知らない方が失礼だ。何の脈絡も無いためか、一瞬ばかり驚いた顔を見せた少年だが、直ぐに可愛らしい朗らかな笑みを見せた。
「
「ルイ……か。何だか、女の子みたいな名前だ」
あら、言ってはいけない言葉だったか。少年ことルイは複雑な顔をしていた。別に怒るという訳でも悲しいわけでも無いだろうけれど、かるーく胸をグサリと刺してしまったようだ。
「……女の子にそう言われると苦しい」
「女の子?」
……へえそうなのか。自分は女の子だったのか。自分で言うのもおかしいけれど、言葉がいちいち男っぽいというか力強いせいか、自分が男の子だとばかり錯覚していた。
さて、自分についての新たな発見をした所で、そろそろ自分の行く先を考えて行かねば……ってアレ。ルイが何やら驚いている。何の驚きだこれは。今までで一番解せないぞ。
「何に驚いているのか知らないけど、そろそろこれからについて考えなくちゃ……」
「ふへ……ふへへ、そっか、そうなんだあ」
へ……? な、何に笑ってるんだ突然!? 彼の身に一体何が起きている!? 解せないし正直気持ちが悪い!! 笑い袋じゃないんだから!!
ええい、こんな時に自分が落ち着いていなくてどうする……!
何か尚も笑い続けてるし、しかも何か目が潤んでるように見えるんだけど!?
――ああーもうっ!!
ペチュン。
「目を覚ませ。あと、人の話はしっかり聞いてほしい」
「ふぁい……」
目覚ましビンタというには、少々キツいものを浴びせてしまった。自分もわけが分からず焦っていたために、彼には痛い思いをさせてしまったのが悔やまれる。
けれどまあ……うん。流石にこれはしょうがないよな。
彼の自業自得というか、そんな所な気がする。
……ああ、何だろうこの空気。居心地が悪い。
ただ単に互いが黙る程度ならば別にいいのだが、この沈黙のきっかけがあんなんだから余計に気難しい。今なら羽虫が大きな音を立てただけでも喜べるかもしれない。
「ねえ、あのさ」
「うん?」
耐えがたい沈黙を破ったのは、自分では無くてルイだった。しかし表情を見るに、さして空気を気にしていた訳では無さそうだ。自分が気にしすぎていたということか。何だか恥ずかしい話だな。
「ベガはしたいことある?」
はえ? ベガって。え?
「それ……ベガって……オイラの名前?」
「ううん、君のあだ名」
何だビックリした。名前を本当に知っていて、それを今の今まで隠していたのかと思った。そしたらルイが酷い奴になってしまうじゃないか。
「突然なんだと思ったら、あだ名かぁ」
「そうだよ。気に入らなかった?」
無意識に出てきたのだろうか。それとも変な空気(自分視点)の合間にじっくりと考えてくれていたのか。それは分からない。けれど、全く何もない真っ白な自分に、名前という色を塗ってくれた。それが自分の中にじんと響いて、そして幸福な気分になって来る。
「いや、むしろ気に入った。何だか強そうじゃないか」
何となくだけれど。
名付けた彼よりも、自分の方が喜びを感じているのかもしれない。いや、それでもいい。新しい自分というのがこうも清々しいものなのか。この気持ちをひたすらに噛みしめたい。
「ベガかぁ」
しばらくはこの余韻に浸っていたいと思う。
胸が躍る。野原を駆け回っているような気分になってきて、果てにはルイまでニッコニコしながら、一緒に身体を横に揺らし始めて。ああこんな姿、ハタから見たらどう映るのだろう……。他の人に見られるのはあんまり……。
『ガチャン。ギィイ……』
他の人に見られたら、もう、恥ずかしくて……。
……? 今の音は?
「話は聞かせてもらったわ……ってあら?」
「ッうわびっくりした」
「わっ……――」
女の人。
知らない、女の人。
……見られた。自分を。何をって、自分が躍ってた、その光景を。
…………。
「――~~~~~~~ッ!!」
嘘、うそだぁ。やだ、やだよう。
「……あぁぁ、あぁあぁ、あ、ああああーーーーーーーー!!!」
「ベガどうしたの!? 落ち着いて、落ち着いてー!!」
「あらぁ……」
一度取り乱した心は、穏やかになるまで乱し続けないと、治ることは無かった。
自分はどこか、変に恥ずかしがり屋だということ。それをこの時、その身で感じ取ったのだった。