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1 ロスト・メモリーズ

 ――右手の不思議な感覚で、自分は目を覚ました。
 それはまるで、同じ肌が触れているような、むしっとしつつも暖かい感覚。

 それだけじゃない。背面が包み込まれるように、ふわふわとしている。頭まで、ふわりと心地いい。

 目を開けてみると、天井がまず見えた。真っ白を基調に、ポツポツとした黒色の斑点があって、妙に怖い。気配を感じて右を見てみると、何やら可愛らしい少年が椅子に座りながら眠っている。自分の手をぎゅっと握りながら。ああ、暖かい感覚はこれだったのか。

 この少年が、自分を助けてくれたのだろうか。いやいやそれよりも、自分の身に一体何があったのだろうか。

 ……頭を強く打ってしまったのか、思い出すことが出来ない。その証拠と言わんばかりに、鋭くなっていく感覚が頭の痛みを訴える。
 ただ分かるのは、この少年の穏やかな寝顔だけ。こうして見ると、何だか愛らしい。無防備でありかつ、裏表の無さそうなその寝顔。何だか、じわじわと出てくる痛みを癒してくれているような気がする。

 彼を「少年」などと低齢に見たはいいものの、自分は一体幾つなのだろう。彼を若いように捉えられるほどに高齢なのか。
 周囲に鏡も見当たらないため見当もつかない。空いている左手や肌のぷにっとした潤いのある質感、腹は割れてこそいないが、それなりに硬い。胸筋もあまり無し。おや、妙にむにっとしている辺り、一時期太っていたのだろうか。これらから察するに、自分は彼と同じぐらいの若い人なのだろう。



 さて、そんなほわりほわりと眠る彼は一体何者なのか。
 自分の中であらゆる引き出しを探ってみるが、そのどれにも彼は浮き出てこない。それどころか、不思議なことにこれまで出会ってきているであろう人々の顔すらも、誰一人として思い出すことが出来ない。

 好きなもの、嫌いなもの、楽しかった、驚いた、痛かった、苦しかったこと……。

 なんてことだ。何も出てこない。

「……はぁ」

 それに対して、深く重いため息は自然と出て来る。手の感覚は心地よかろうと、心はどこも良い気分では無い。焦りまで出てきてしまう。

 だが取り乱すわけにはいかない。少年が見た目信じられそうな人とはいえ、ここが何処なのかもはっきりした訳ではない。もしかしたら異常者が連れて来られる場所の可能性も無きにしも非ず。油断してはいけない。このような綺麗な空間に限ってそのようなことは無いと信じたいが。

 ……ああ、頭の痛みが増してしまった。目を瞑って、少し落ち着こう。



「――夢!?」

 少年、目覚めるタイミングがあまりに悪すぎる。おかげで落ち着く猶予も無かったぞ。やや自己中心的な思いかもしれないが、出来ればもう少し速くか遅くであってほしかったと思う。

 それよりも、彼は悪夢でも見ていたのだろうか。大きな声で言うものだから、こちらもびくりとしてしまった。それに、声を張りながら目覚める人も珍しい気がするのだけれど。

 でもその驚く様と上ずった声が面白くて、目を閉じていても、表情が簡単に思い浮かぶ。きっと単純な子なのだろう。

 はて何だろう。この声で何だか安らいだ気がする。昔から声を感じていたかのような、そんな安心感だ。軽く想像してみた声と、丸っ切り同じなのも面白い。

 彼は本当に悪い人では無さそうだな。少なくとも自分を助けてくれた人、ということで間違いないだろう。直感ではあるが、相当に自身はある。

「……ありがとう」
「へ?」

 ……ふへ、ほら想像通りの驚いた顔。分かりやすい子だ。

「手を、握っていてくれたんだろう……?」

 少年はコクンと頷く。きょとーんとして府抜けた感じがまた可愛らしい。

「もしかして、起きてたの?」
「ああ、さっきまで。可愛い寝顔だったぞ」
「そ、そう?」

 いやそこは恥じらいを持とうか。そして返答としても適切でない気もする。そう思わせる辺り、この子は変わった子なのだろうか。それとも日本にほん語力の欠如か。いや多分前者だな。

「少なくとも、オイラは寝つきが良くなった」
「~~ッ」

 わあ顔真っ赤。やっぱり恥ずかしかったのか。あわあわとしているのを見ていると放っておけないな。
 まあこう、軽い冗談というか世辞を言った訳だが、本当に眠りにつけそうな寝顔だったと思う。自分が寝付けない、疑問の芽が摘まれていればの話だが。

 おぉ? 彼は何をする気だろう。

 大きく息を吸って……。

 吐き出した。フフッ。

 オーバーな仕草が多いようだが、自分は寧ろそれを楽しめている。何というか、小動物みたいに映る。

「ねえ、君、名前は何ていうの?」
「名前か。まだ名乗って無かったな」

 深呼吸して聞くことがそれか。それを聞くためだけに一連の流れを踏んだのか。何という劣悪燃費。まあ問われたならば、しっかりと答えるべきだろう。

「…………」
「…………」

 ……しかし、いくら考えようと自分の名前は出てこない。まるで自分と言う名の、白紙の本を手渡されたかのような感じだ。これ以上考えれば、恐らく頭痛が酷くなる。今の自分には思い出すことは出来ないのかもしれない。

「……どうしたの?」

 見かねた少年が声をかけてくる。自分のことのはずなのに、自分の身に覚えが無いということがあまりにも不思議だ。不思議どころかだいぶ苦しい。

「……なあ。変なことを言うかもしれないが」
「うん?」
「オイラって、何者なんだ?」
「……へ?」


 自分に関する記憶が無いということ。そして一体、ここが何処なのかということ。その思いを全て少年に話して問うてみる。当然のことながら、記憶に関する手がかりは無いに等しかった。

「今こうして生きているだけでも、十分だよ」

 その一言が、一番心に響いた。言ってくれるだけでも十二分に嬉しい言葉だ。記憶が無い自分を否定することもなければ、遠ざけることもない。今の言葉から、そういった受け入れる姿勢を感じ取ることができた。
 それよりこの少年、何だか気取った言葉遣いなような……。初対面ならばこんなものなのだろうか。先ほどから顔が真っ赤で、しかも落ち着きがない……。

「いきなりの長話で血が上ってないか。大丈夫か?」
「ああ、いや、うん。それは大丈夫……」

 的外れだったか。それとも痩せ我慢なのか。発熱だろうかと、彼の額に手を触れてみると妙に熱く、それを告げると怒られてしまった。やっぱりこの子は面白い。

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