第七話:紅ドラゴンは毒ドラゴン
「ドラゴンを飼う上で必要な事が何なのかわかる? クジョ―」
壁に掛けられた小さな黒板の前。分厚い朱の装丁の本を片手に、眼鏡のツルをくいっと上げてカヤが言う。
伊達メガネだ。こいつの視力は両眼とも2.0に近かったはずだ。だが、赤い縁のスリムな眼鏡はカヤに無駄に似合っている。
俺の幼馴染は形から入る性格であった。
場所は俺の家。ドラゴンを飼うという結論を出したのはつい数時間前の事、俺はカヤからドラゴンを飼う上での注意事項についてレクチャーを受けていた。
形から入るカヤは一端家に帰り、家から小さな黒板と指し棒、ドラゴンの飼い方の本を持ってきた。何故そんなものを持っていたのかわからないが、カヤの実家は食料品から本まであらゆるものを取り扱っているので、恐らくそこから拝借してきたのだろう。
格好も普段着から変わっている。
黒を基調としたツーピースのスカートにカットシャツは俺達が通っていた学校の教師がいつも着ていたものによく似ていて、カヤにもしっかり似合っており、正直言って眼福であった。なんでこいつそんな服持ってるだろう……。
もしかしたらそれはドラゴンと関わってこの方、唯一の良かった点だったと言えるかもしれない。
当のドラゴンは、椅子に座った俺の膝の上で鋭い目付きでカヤを見上げている。カヤの方は見られている事に気づいていてかなり嬉しそうだが、その視線は警戒であって良い物ではない。
所長の教えてくれた気性が荒いという情報は正しいのだろう。俺が好きでもないクリムゾンドラゴン(しかも赤ん坊でも結構重い)を膝の上に乗せているのは、そのドラゴンがカヤに襲いかかるのを防ぐためだ。少なくとも、抱きしめていればドラゴンが暴れても何とかできる……と思う。多分だけど。
しかし、ドラゴンを飼う上で大切な事、か……想像もつかない。ドラゴンを飼うなんて今まで考えたこともない。
「餌か?」
「食事、だよ。クジョ―、餌じゃなくて『食事』」
「……どっちでもいいだろ」
細けえな……大体、飼うと言っている以上ペットみたいなもんだろう。ペットにやるなら餌でも問題ないはずだ。
カヤが一瞬眉を顰め、シャツの胸ポケットから伸縮式の指し棒を出して、抗議でもするかのように軽く黒板を叩く。
「クジョ―、そういうのは良くないよ? これからその子を育てるんだから……」
「……」
「あまり乗り気じゃないのは分かるけど、やると決めた以上はちゃんとやり遂げないと……」
カヤの言葉はあまり頭に入ってこない。俺の視線はただ一点、カヤの胸元に向けられていた。
「……カヤ、お前さ……胸大きくなった?」
「……はぁ」
いや、見間違いではない。いつもよく見てない(当たり前だ)ので気づかなかったが、こうして改めて見てみると俺の記憶にある大きさよりも一回り――
カヤの表情が一瞬固まり、そして呆れたような大きなため息をつく。
僅かに引きつり、そして紅潮した頬はカヤが怒っている証だ。
「ク、ジョー……? それ、セクハラ? かな?」
「違う! 俺は事実を言っただけだ!」
「ッ……それがセクハラなんだよッ!」
カヤが反射的に手の本を振り被る。その瞬間、腕の中のドラゴンが大きく嘶いた。
「ッ!?」
小さいその身体が腕の中で大きく跳ね上がる。生まれたばかりのはずなのに凄まじい力。
俺は慌てて押さえつけるようにドラゴンを抱きしめる。腕に感じる、人よりも僅かに高い体温に、腕の内側に汗をかく。
カヤはその様子に、本を振り上げたまま目を丸くしてクリムゾンドラゴンを見下ろしていた。
そろそろと本を下ろし、興奮した口調で言う。
「凄い……クジョ―! その子、クジョ―を守ろうとしたんだ! 子が親を守ろうとしたんだよ! まだ生まれたばかりのはずなのに……」
「お、おう」
確かに凄いのかもしれないが、温度感が違いすぎてすぐには対応仕切れない。
そもそも、自分が襲われていたかもしれないのに、全くその事が頭にないようだ。まぁ怒ったのは俺のせいなんだが、この子ドラゴン、赤ん坊だが爪もあるし牙もある。何よりも腕に感じた力はとてもついさっき生まれたばかりだとはとても思えない。
もしかしたら、下手するとカヤに怪我をさせていたかもしれない。子ドラゴンが人語を理解出来るようになるまでは余計な刺激は与えない方がいいか……。
ちなみに、俺は今まで度々カヤを怒らせてきたが、カヤが俺に暴力を振るったことはない。いつもギリギリで止めるのだ。例え俺が悪くても。
だから、子ドラゴンが吠えなくてもカヤは今回も何もしなかっただろう。
一度咳払いして仕切り直しをする。
「……で、正解は何なんだ?」
「あ……えっとね……」
カヤがコホンと咳払いして、黒板の方を向く。
子ドラゴンだけがまだ興奮しているようなので、しっかり抱きしめながら黒板の方を見る。
白のチョークで、カヤが二つの単語を書いた。やや丸みを帯びた、しかし丁寧な文字。
艶のある唇を一度舐め、カヤが続ける。
「『食事』と『寝床』、だ。クジョ―、ドラゴンの飼育には十分な食料と、広いストレスのかからない寝床が必要なんだ」
「ふむ……」
事前に考えていたよりも常識的な解答である。
俺は少し考え、カヤの書いた文字を眺め、頭の中でまとめる。
「つまり『金』か」
「え……いや……」
十分な食料に広い寝床。今のところ両方ともないものだ。
身体の小さな今のうちはまだいいが、どうせクリムゾンドラゴンもオーシャンドラゴンと同じようにすぐに大きくなるのだろう。すぐにこの家なんて手狭になる。
食料もどれだけ必要になる事か、想像すらつかない。犬猫よりも食わないという事はないだろう。
今はまだ金はあるが、果たして巣立ちまでにどれだけの金額がかかるのだろうか……
ただでさえ収入がないのに、宝くじの使い道について立てた俺のプランは早速頓挫してしまった。
なんかもうどうしようもない。どうでもいい。最悪、どうしようもなくなったら親父に土下座して騎士団への入団試験を受けさせてもらおう。金も借りよう。勘当されてしまったので今更それが許されるのかどうかわからないが……。
カヤは頬を軽く掻き、言いづらそうに言う。
「ま、まぁ……そうとも言える、かな。ドラゴンって短期間飼うのにも結構お金かかるみたいだし。い、いや、でも工夫次第では節約も出来るから!」
俺が今更放り投げるとでも思ったのだろうか、慌てたように声を上げるカヤ。
確かに放り出したいが、もう随分と踏み込んでしまっている。専門家でさえ気性が荒いと匙を投げるクリムゾンドラゴンを放り出したらどんな被害が出るかわからないし、レアなクリムゾンドラゴンが周囲で暴れたらすぐに俺が放り出したものだとバレてしまうだろう。
面倒な事は嫌いだが、俺は一人じゃない。
「カヤにも協力してもらうからな」
「も、もちろんだよ! クジョ―じゃ一人でドラゴン育てる事なんて出来なさそうだし……」
ドラゴンを机に一端置くと、俺は、食器棚の一番下の引き出しを引いた。
不思議そうな表情を作るカヤの眼の前でその奥から四方十センチ程の小さな箱を取り出し、カヤの方に放る。
慌てて受け止めるカヤ。
よかったよかった。カヤが手伝ってくれるなら百人力だ。というか、多分俺が何もしなくてもドラゴンを飼えるだろう。
「じゃ、それよろしく」
「? これは……?」
カヤが不思議そうな表情で箱を開き――その表情が引きつった。
箱の中から、一冊の空色の手帳のようなものを取り出す。一般個人が持っている事は少ないが、商家の娘であるカヤならば何度も見たことがあるのだろう。
「銀行の通帳だ。そこに書いてあるのが今の俺の全財産だから、それで何とか収まるように計画立ててくれ」
「……クジョ―、君完全にやる気ないね?」
「自分一人生きるだけで精一杯なのに、その上ドラゴンなんて育てられるわけがないだろ」
普通に無理。