友達のXX君
「××君、もっと人の気持ちになれないかな?」
僕は小学校のことを振り返る時、決まってこの台詞を思い出す。
そう言ったのは当時、2年4組の時の担任の先生。
若くて優しい女の先生だった。
言われた少年の名前は、誰だったのだろう?
まるで記憶に蓋がされているように、なぜかその部分だけがすっかりと抜け落ちていた。
だから××君として紹介しようと思う。
彼はクラスではひときわ体が大きく、そして乱暴な少年であった。
誰か1人を標的にしていたわけではないが、気に入らないことがあると癇癪を起こし、暴力を振るう。
授業中も落ち着きがなく、とにかく自分のしたいことを自由気ままに行動に移してしまうのだ。
そんな××君に、担任の先生は冒頭の言葉を言ったのである。
しかし、それから数ヶ月経っても、××君の振る舞いが治ることはなかった。
今思えば彼は自分の性格をうまく扱えていなかっただけのようにも思う。
担任の先生は諦めることなく何度も何度も
「××君、もっと人の気持ちになれないかな?」
と××君を諭していた。
夏休みが明けた頃。
××君はだいぶ大人しくなった。少なくとも担任の先生が授業をしているときは、静かに席に座っている。
ただその様子が少し奇妙というか変なのだ。
確かに大人しいのだが、ボーとして、宙を見つめているだけのことが多い。
どうやらその異変に気付いているのは僕くらいなようで、何となく心配になり、彼を授業中に盗み見することが多くなった。
すると、××君は声を出すわけではないのだが、ある時はひどく嬉しそうにニヤニヤと笑い、またある時はこちらがハッとするほどの鬼の形相を浮かべているのだ。
その喜怒哀楽にはある一定の法則もあるようで、
例えば、お高くとまっている女子が問題を間違えると××君はイヤらしい笑みを浮かべ、
少し勉強が遅れている子が問題を答えられずにまごついていると、不機嫌そうな表情をする。
何度もういうが、騒ぐことなく、1人でこっそり笑ったり怒ったりをしているのであった。
当時、その理由はまったく分からなかった。
大人になり、今更ながらであるが、僕はある一つの仮説を思うに至っている。
「××君、もっと人の気持ちになれないかな?」
この言葉が表している通り、
彼は、若くて美しい僕らの担任の先生の気持ちを受信していたのではないか?
と。
そんな××君はその年の冬に転校をしてしまった。
そのため真相を知ることはできない。
「人の気持ちになれ」
そう言われて本当に気持ちが分かるようになってしまった。
まさか。と思う。
ただの言葉にそれほどの力があるなんて。
普通なら一笑に付すだろう。
だが、××君が転校してしまった次の日。
××君のいない教室。
確かに担任の先生は僕らにこう言ったのだ。
「もう彼のことは忘れましょう。」