【原神】からかい上手のナヒーダさん #21 - 最後の死域【二次創作小説】

霧の先に進むと、最後の死域に近づくにつれて、周囲の雰囲気がさらに重苦しくなっていった。紫がかった霧が次第に濃度を増し、視界を遮るだけでなく、体にも影響を及ぼし始める。
ただの霧なら問題ない。だが、この霧は違う。足元がふわふわと頼りなくなり、頭の奥がじんわりと痺れるような感覚に襲われる。まるで重力が変化したかのような浮遊感が体を包み込む。
俺は足を踏みしめ、意識を保とうと努める。だが、死域の影響は予想以上に強く、徐々に思考が曖昧になっていくのを感じる。
(まずい……体が重い……意識がぼやけてきた……)
ふらつく足取りで前進しようとするが、方向感覚すら曖昧になりつつある。どこが前で、どこが後ろなのか。果ては、どこが上で、どこが下なのかさえ分からなくなってきた。
「旅人、意識を集中して! 正気を保って!」
ナヒーダの声がどこか遠くで聞こえるが、焦点が合わない。まるで、自分の意識が霧に溶けていくようだった。体の輪郭が霧に溶け込み、自分自身がこの場所と一体化していくような感覚。
(……ナヒーダ……? どこにいる……?)
視界がぼんやりと揺らぎ、身体の輪郭すら曖昧になりかけた、その時——
「ねぇ、旅人」
突然、耳元で囁くようなナヒーダの声がした。彼女の息が耳に触れ、かすかな温もりを感じる。
「私と口付けを試してみる? もしかしたら、正気に戻れるかもしれないわ」
「……は?」
その言葉の意味を理解した瞬間、一瞬で脳内の霧が吹き飛んだ。まるで雷に打たれたように、全身に電流が走る。
「な、なななっ……!?」
全身が一気に熱を帯び、心臓が爆音のように跳ねる。さっきまでの意識の曖昧さはどこへやら、むしろ過剰なまでの覚醒状態になった。
「ちょっ、な、なに言ってるんだお前は!? そんなことして正気に戻れるわけ——」
慌てて反論しようとするが、言葉が上手く出てこない。頭の中は完全に混乱状態だ。
「……落ち着いて?」
ナヒーダは、いつもの穏やかな微笑を浮かべている。まるで何も特別なことを言っていないかのように。
「私はただ、あなたの意識をはっきりさせるための手段を提案しただけよ?」
(手段って……!!)
確かに、一瞬で意識ははっきりした。完全に覚醒した。むしろ、意識が覚醒しすぎて今すぐ逃げ出したいくらいだ。体の震えを止めることができない。
「……もしかして、そんなに嫌だった?」
ナヒーダが少しだけ寂しげな声を出す。その瞳には、からかいというよりも、何か別の感情が浮かんでいるようにも見える。
「い、いやそういうわけじゃなくて……!」
咄嗟に否定するが、それが罠だと気づくのは遅かった。
(くっ……! ここで「嫌じゃない」と言うのも罠な気がする……!)
どう答えても、ナヒーダのからかいに嵌ってしまう。混乱した頭で何か言い訳を考えようとしていると、彼女は僅かに安堵したような表情を見せた。
「冗談よ」
そう言って小さく笑う。だが、その笑顔には何か別の意味が含まれているようにも見える。
「でも、効果はあったわね。意識はっきりした?」
「あ、ああ…」
確かに、死域の霧の影響は薄れている。頭も冴え、体の感覚も戻ってきた。皮肉なことに、ナヒーダのとんでもない「提案」が、最高の覚醒剤となったようだ。
「良かった。ここからが本番よ」
彼女は前を向き、真剣な表情で霧の奥を見つめる。からかいモードから、草神モードへとスムーズに切り替わっていた。
「この死域は、これまでのものよりも強力だけど、浄化の方法は変わらないわ」
ナヒーダが死域について説明を始める。
「まず、死域の枝を見つけて、草の種を当てる。それから枝を破壊し、現れる魔物を倒す。そして最後に死域の核を浄化する…」
彼女の説明は明快で、これまでの死域浄化と同じ流れだ。規模は大きいが、基本的な手順は変わらないらしい。
「さすがに今までより強力だから、警戒はしないといけないけど…」
ナヒーダは俺の顔をじっと見つめる。
「あなたがいれば、きっと大丈夫」
その言葉に、少し照れくさい気持ちになる。だが、今はそんな気持ちに浸っている場合ではない。前方から、何か大きな気配が感じられる。
霧が少し薄れ、前方に大きな空間が広がっているのが見えてきた。俺たちは慎重に足を進め、その空間に踏み入る。
すると、不思議なことに空間内部では霧が薄くなり、周囲を見渡せるようになった。天井の高い広い場所で、遠目には神殿のような造りだ。床には複雑な模様が刻まれ、壁には古代文字らしきものが彫られている。
しかし、その美しいはずの空間は、死域の触手のような黒紫色の枝に覆われていた。床から壁、そして天井まで、死域の枝が這い回り、不気味な脈動を繰り返している。
「これが最後の死域…」
ナヒーダが小さく呟く。その表情には緊張と決意が混ざっている。
俺が剣を構えようとした、その瞬間だった。
「……っ!」
周囲から異様な気配が迫ってくる。振り返ると、入口から魔物の姿が見えた。しかも一体や二体ではない。
「……っくそ、数が多いな!」
振り向けば、無数の魔物が四方を囲んでいた。入口の方からはキノコンの群れ、左側にはパタパタ草マッシュロンが数体、そして右側からは遺跡巡視者が近づいてくる。これまでの死域で遭遇した魔物が、一度に押し寄せてくるようだ。
おまけに通路が狭いせいで、動ける範囲も限られている。後退することもできず、前に進むにはこれらの魔物を倒す必要がある。
「旅人、背中を預けるわ」
ナヒーダの声がすぐ後ろで聞こえた。気づけば、俺たちは自然と背中合わせの体勢になっていた。こうすれば死角を減らし、お互いを守りながら戦える。
「おう、そっちを頼む!」
俺は剣を構え、目の前の敵に斬りかかる。後ろからは、ナヒーダの放つ草元素の攻撃が、俺の動きを援護してくれる。背中越しに感じる温もりが、どこか安心感を与えてくれた。
「……頼りになる背中ね」
ナヒーダが、ふと小さく呟く。
「なっ……!?」
不意打ちの言葉に、俺の動きが一瞬ぎこちなくなる。戦闘の最中にそんなことを言われるとは。
(ま、待て、そんなこと言われたら意識して戦いに集中できないだろ……!)
「お、お互い様だろ……!」
何とかそう返すものの、顔が熱くなるのを止められない。背中越しに感じる彼女の体温が、余計に意識を混乱させる。
(頼りにされるのは嬉しい……けど、戦闘中に言うことじゃないだろ……!)
俺の戸惑いをよそに、戦闘はさらに激しさを増していく。キノコンの群れが間近に迫り、俺は剣を振るって何体かを倒す。しかし、その数は多く、一気に処理することは難しい。
パタパタ草マッシュロンは風のような攻撃を放ち、避けるのに苦労する。さらに遺跡巡視者は黄色いビームを放ち、床を焦がしていく。
「ナヒーダ!死域の枝を見つけた?」
戦いながら、死域の主要部分を探す。それを浄化しなければ、魔物は倒しても倒しても現れ続けるだろう。
「ええ、あっちよ!」
ナヒーダが指さす先に、特に太い死域の枝が見える。彼女は草の種を集め、その方向へと放った。
種が枝に触れると、みるみる芽吹き始める。死域の枝を覆い尽くすように成長した草の力で、その一部が崩れ落ちる。
「今よ!」
彼女の声に反応して、俺は素早く動き、剣で枝を切り裂いた。枝が崩れ落ちると、一瞬、周囲の魔物がひるんだように見える。
だが、次の瞬間、新たな敵が現れた。先ほどよりもさらに強力な魔物の群れだ。
そのとき——
眩い緑の光が、俺たちの周囲を包み込んだ。
「……これは?」
一瞬、世界がスローモーションになったような感覚に陥る。意識が浮遊し、まるでナヒーダの思考が流れ込んでくるような、不思議な感覚に襲われた。
(——共鳴……?)
ナヒーダも、この現象に気づいたのか、驚いたような息を漏らしていた。
「これは…元素共鳴の力…」
彼女の言葉が、まるで直接心に届くように感じる。元素共鳴とは、同じ元素を扱う者同士が近くにいると起こる現象だ。草元素の使い手である彼女と、草元素を扱う俺との間に、特別な反応が起きているようだ。普段から発動しているはずだが、今回は一味違う、より強力な共鳴反応のようだ。
俺と彼女の動きが、まるで一つの意志で動いているかのように、ぴたりと噛み合う。剣を振るうタイミング、ナヒーダの攻撃するタイミング——全てが完璧に一致し、まるで互いに心が繋がったかのような連携を生み出していた。
「……すごいわ」
ナヒーダの声が、心の中で直接響いたように感じる。彼女もまた、この不思議な共鳴に驚いているようだ。
この力を借りて、魔物の群れを次々と倒していく。背中合わせの体勢は崩さず、しかし互いの動きを完全に把握しているかのように戦える。
一体、また一体と魔物を倒し、ようやく一つ目の波を切り抜けた。
「次の死域の枝を見つけないと」
ナヒーダが素早く周囲を見回し、次の枝を指差す。今度は天井近くにあるそれだ。彼女は再び草の種を集め、枝に向かって放った。
同じように枝が草に覆われ、崩れ始める。俺は飛び上がり、剣を振るって枝を切り裂く。二つ目の枝が崩れ落ちる。
だが、予想通り、新たな魔物の波が押し寄せてくる。今度は一段と強力な敵だ。遺跡巡視者が複数体現れ、連携して攻撃してくる。
「旅人、気をつけて!」
ナヒーダの警告に反応し、俺は咄嗟に身を低くする。頭上をビームが通り過ぎる。危ない、もう少しで直撃するところだった。
元素共鳴の力はまだ続いている。その力を借りて、俺たちは二つ目の波も何とか切り抜けた。
息を整えながら、ナヒーダが言う。
「あと一つよ。最後の枝を見つけないと」
彼女の声には疲労が混じっている。いくら草神とはいえ、連続の戦闘は消耗が激しいようだ。俺自身も、かなり体力を使っていた。
「あそこだ!」
俺が見つけたのは、死域の中心部に位置する特に太い枝だった。おそらく、これが最後の、そして最も重要な部分だろう。
ナヒーダは最後の草の種を集め、慎重に狙いを定める。
「これが最後…行くわよ!」
彼女の手から放たれた草の種が、見事に枝に命中する。草がみるみる成長し、枝を覆い尽くす。
俺は渾身の力を込めて剣を振り上げ、枝に向かって斬りかかった。
「はあああっ!」
剣が枝を切り裂き、黒紫色の液体が噴き出す。最後の枝が崩れ落ちる。
一瞬の静寂が訪れた後、地面が震え始める。どうやら、三つ目の枝を破壊したことで、何か大きな変化が起きようとしているようだ。
「来るわ…!」
ナヒーダの声に、俺も身構える。地面の震動はさらに強くなり、死域の中心部から何かが現れようとしている。これが最後の、そして最強の敵になるだろう。
紫の靄の中から、巨大な影が浮かび上がってきた。その姿はまだはっきりとは見えないが、これまでの敵とは比べものにならない大きさと威圧感を放っている。
「最後の戦いね…」
ナヒーダの声には緊張と決意が混ざっている。彼女は俺の隣に立ち、共に最後の敵に立ち向かう姿勢を見せる。
「ああ、一緒に終わらせよう」
俺もまた、剣を構え直す。これまでの冒険で培った絆と、元素共鳴の力を借りて、この最後の試練を乗り越えなければならない。
巨大な敵が、ゆっくりと姿を現し始める。その輪郭がはっきりとしてきたとき、俺とナヒーダは同時に息を呑んだ。
これまでに見たことのない、強大な力を持つ魔物が、俺たちの前に立ちはだかっていた。
最後の死域との決戦が、今、始まろうとしていた。