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03rd.01『医者と衛兵とトイレ男(記憶喪失)(会話不能)と』






 詰まる所、記憶喪失なのであった。

「……………………」

 名前も何も思い出せない。自分の顔だって判らないし、性別だって知れない。知り合いだって居たかどうか定かではないし、何なら自分が人間であるという確証すら無い。

 男(ズボンの中を確認して、辛うじて性別だけは得た)は小脇にトイレを抱え、広い往来のど真ん中に立っている。

「……………………」

 一体全体これはどういう状況なのだ。

 男は取り敢えず通行の邪魔になっている事を察して道路の端に移動する。

「……………………」

 ……………………。

 さぁどうしよう。

 これから何をしたらいいのか、何をするべきなのか、何をしなければならないのか⸺そういった事は全て頭から抜け落ちていた。当たり前だ、記憶喪失なのだから。記憶が無い事を『記憶喪失』というのである。記憶が無いという事は一切の自らに関する知識が無いという事。事実冒頭でも述べた通り男は自身の性別すら知らなかった。自分が何をしていたのか、何をしようとしていたのか、何をし掛けていたのかなどは言うまでもない。知らん。

「……………………」

 呆然と立ち尽くす男。そんな男を、周囲の人は遠巻きにしていく。トイレを小脇に挟んだ男になど誰も近寄りたくないのだ。男は何だか寂しくなった。

「……………………」

 自らが寂しさを抱く原因となったトイレを見遣る。

 白亜の表面を持つ美しいトイレだった。脇から離し目の前まで持ってくると、便座の部分に()条の罅が入っているのが判る。その罅がこのトイレの美しさを更に足していて⸺男は暫くトイレ鑑賞に時間を費やした。

「……………………」

 恍惚とした表情を浮かべる男。思わず口付けをしそうになっては慌てて唇を遠ざけている。

 そんな男を見て、人々は不安を覚えたのだろう。

 誰かが衛兵を呼んだ。

「そこのお前……何をしている?」

「…………?」

 緑色の制服を着た衛兵達に囲まれ、トイレ男は困惑した。

「人々が不気味がっている。できれば止めてはくれないか。せめて人目の付かない所、自分の家とかでやってくれ」

 トイレ男の正面に居た厳つい顔の衛兵⸺前衛兵はそうトイレ男に警告した。顔は苦かった。

「……………………」

 トイレ男は返答に困った。彼に家は無い。有っても知らない。

「どうした? 何とか言え」

「……………………(できません、と首を横に振る)」

「……拒否? 偏屈な奴だなぁ」

 前衛兵のトイレ男を見る視線が元々少なかった温もりを更に失ってゆく。

 トイレ男は違う違う! と更に首を横に振った。

「? …………あぁ、まさかお前、喋れないのか」

「……………………?」

 察した前衛兵の言葉に果て、と首を傾げる。

 自分は喋れないのだろうか。確かにこれまでは一度も喋っていない。だがそれはトイレ男が喋る事ができないという事に対する絶対の根拠にはならない筈だ。

「……? どっちなんだ、はっきりしろ」

 前衛兵がイライラした様子を見せ始める。周囲の衛兵達も怒気を顕わにし始めており、トイレ男はどうするべきか判らず途方に暮れた。

「……………………」

「…………えぇい、命令だ、喋れ! でないとお前を拘束する」

 遂にその職権を発動した前衛兵に、その勢いの余りトイレ男は直ぐに従おうとした。

「ぁっ……ッ!!」

 喉に空気を通して声帯を震わし、発語。

 しかし声が確かな意味を持つ前に、トイレ男は倒れ込んでしまった。

「!? 大丈夫か!?!?」

 表情を一変させた前衛兵が慌てて駆け寄る。

「……………………」

 はぁはぁと荒い息をし、胸を手で抑えて蹲るトイレ男に、前衛兵は、

「むっ……一旦診療所に連れて行くぞ。いいの?」

 トイレ男は拒否も許諾もできなかった。



      ◊◊◊



「うーむ、悪い所は見当たりませんね」

 診療所にて。

 ベッドに寝かされるトイレ男(大事そうに例のトイレを抱えている)とそれに付き添う前衛兵は医者の話を聴いていた。

「本当か?」

「えぇ。肉体的に悪い所は、まぁ今回の事に関わる様な事は無い訳ですよ。記憶喪失だという話ですし、頭の方に何か有るのかも知れません」

 そこは専門外です、と肩を竦める医者。トイレ男は医者に問診を受ける過程で記憶喪失であるという事を伝えていた。

「まぁ、私の軍医としての経験から言わせてもらえば、」

 医者は眼鏡のズレを直して、

「彼の症状は初めて戦争に出た若者に見られる物に似ていますね。戦場っていう命の遣り取りが当然として行われる場所は、そこに慣れていない者に多大な恐怖とストレスを与えます。それにやられた若者が剣を見られなくなったりちょっとした暴力に過敏に反応したりしてしまう様になるのと彼の症状は似ています。強い恐怖を伴うという点で」

「彼が声を出すという行為に対しトラウマを抱いているという事か」

「そうです。若しかしたら記憶が無いのと関係して……失礼、余り専門外が出しゃ張るべきではありませんね」

 思わず喋り過ぎてしまった医者は申し訳無さそうに頭を下げた。

「いや、結構。もうそちらにできる事は無いという事でよいな?」

「悔しながら」

「解った。この男はこちらで預かる。診療代は後で払っておこう」

「いえいえ結構。医者として何もできておらぬのですから診療代は頂けませぬ」

「ではそちらの軍医としての経験に」

「……それなら、ありがたく」

 医者はもう一度頭を下げた。

 それに頷いた前衛兵は座っていた椅子から立ち上がり、

「そちらは立てるか?」

 とトイレ男に問うた。

「……………………(頷く)」

 とっくの昔に復調していたトイレ男は肯定を返し、ベッドから降りた。

「話は聴いていたな? そちらはこちらが保護する。今日はもう遅いから、明日からそちらの身元の捜索を始める。宜しいか?」

「……………………(頷く)」

「今晩はこちらの建物で寝てもらう事になる。柔らかいベットは用意できないが、柔らかいソファと暖かな布団は保証しよう」

 前衛兵は歩き始めた。トイレ男はそれに付いていく。

 外に出ると、空が赤くなっていた。この街に於いて夕はビックリする程短い。前衛兵は辺りがすっかり暗くなってしまう前に目的地へ辿り着く為歩調を速めた。トイレ男はやや駆け足になりながらそれを追う。

 前衛兵は余り無駄な会話を好まないのだろう、道中二人の間に会話は無かった。前衛兵は厳つい、機嫌が悪そうな顔立ちをしているのでトイレ男は気不味く感じたが、自分から話し掛ける事などできない(喋れないからである)ので必死に耐えた。

 幸いにして、目的地は直ぐ近くに有った。

「あ、支部長、お疲れ様です」

「うむ」

 前衛兵は目的地の建物の前に立っていた二人の衛兵の敬礼を見て、一つ頷いた。

「記憶喪失で発語不能の男を保護した。アルトー、お前が面倒を見ろ。今夜はそれに注力して他の事はしなくてもいい」

「畏まりました」

 前衛兵は二人の衛兵の内右側に立っていた方にそう命じた。右衛兵は敬礼でそれを承け、トイレ男の方に向き直った。

「文字は書ける様だから、会話用に紙とペンを貸してある。無くなったら備品から補充しろ」

「了解。やぁやぁ、どうもアルトーと申し……ます?」

 前衛兵から情報の補足を受け、いざトイレ男に自己紹介をしようとした右衛兵だったが、彼が右脇に抱えているトイレを見てギョッとした様子を見せた。前衛兵は説明責任から逃れる様に建物の中にするりと入って行った。

「……………………」

 ふと、トイレ男は不安を覚えた。

 だがそこまで強い物ではなかったので、続く右衛兵の言葉の前に呆気無く霧散してしまった。

「……………………宜しくね?」

 トイレ男は頷いた。

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