02nd.06『白い女』
「夕食はどうだった? 全体的に」
【美味しかったです】
「おぉそりゃよかった」
衛兵の詰所、その二階の部屋。
そこでは夕食を食べ終えたトイレ男と右衛兵が和やかに雑談を交わしていた。知り合いが見付かる前に日が沈み切ってしまった為、超硬いベッドで寝る事が確定してしまったトイレ男であった。
「特に何が美味しかった?」
【ミートボ⬛︎ールです】
「あー、あれ美味いよねぇ。俺も好きなんだよ」
片方は筆談であり、書き損じれば塗り潰すので会話のペースは遅い。
しかし右衛兵にそれを苦にした様子は無く、その事がトイレ男に安心を
「あ、そうそう一個訊きたかったんだけど」
忘れてた、という風に右衛兵が言い出した。
「?」
「そのトイレ、何なの?」
「……………………」
右衛兵が指差したのは、
【さぁ、判りません】
「判らんのかい。何でそんな大事そうにしてんの?」
【美しい物を保護するのは人間として当然では?】
「美しい……物? ……………………、……………………、……………………、お、そ、そうか」
右衛兵は何か受け容れ難き事に遭遇したかの様な気分に陥ったが、それでも何とか納得した⸺否、納得はできていない。できていないが、これ以上掘り下げても何も生まれない事だけは察したので、納得したフリをした。
「じゃ、じゃあ続きをしようか」
「……………………(頷く)」
右衛兵は今の話題から少しでも遠い所へ逃げる為に分厚い本を開いた。トイレ男も別にトイレの話題を続けたいという訳ではない⸺本音を言えばこれの美しさに就いて延々と語りたいが、相手の不興を買ってまでではない⸺ので大人しく読み始めた。
スラスラと読み進めていき、判らない事が有れば質問する。そんな事を只唯繰り返す。
食後という事も有り、段々と眠くなってきた。
「……………………」
「そろそろ寝るか?」
「……っ! ……………………!(首を横に振る)」
首が傾き寝落ちしそうになる度に声で起こしてもらいつつ、トイレ男は本を読み進めた。
どのぐらいが経っただろう。トイレ男が全体の四分の一程度まで読み終わった時、それは起こった。
ドガドガドガッ! と階下から大きな音が鳴ったのだ。
「ッ……」
「驚かなくていい。多分棚が倒れたか……」
ドガッ! ダガガッ!! ドンガガガッ!!!!
「……………………」
「……………………」
当然だが、棚を倒してもこんなに長く断続的な音は鳴らない。
「…………可怪しいな。今はチンピラを留置してもないんだが……ちょっと様子を見てくる」
「……………………(頷く)」
只事ではないと察した右衛兵は今も音が鳴り続ける一階へ向かう為部屋を出た。
「……………………」
やる事が無い。本の続きを読もうとも思ったが、謎の音から来る不安が溢れてきてそれどころではない。
結局、右衛兵が戻ってくるまで天井のシミの数を数える事にした。
「……………………」
(一、二、三、四……あ)
シミが人間の顔に見えたので止めた。怖い。
結局の結局、トイレを眺めている事にした。トイレはこんな時でも精神に安寧を齎してくれる。あぁ、美しい。
暫しトイレに夢中になっていると、いつの間にかあの音が消えていた事に気が付いた。
「……………………?」
問題が片付いたのだろうか。
ならもう直ぐ右衛兵が帰ってくるな、と楽観的に考える。
しかし待てども待てども右衛兵は戻って来なかった。
「……………………」
不安が大きくなる。
トイレ男は少し悩んだ後、自分で一階を見に行く事にした。音が止んだのなら危ない事は無いだろう、と考えて。
それでも無意識の内か音を立てない様にして立ち上がり、静かにドアを開けて廊下の様子を見た。不気味な程に誰も居ない。トイレ男は右衛兵と歩いた時を思い出しつつ階段を捜した。
少し迷ったが、階段は直ぐに見付かった。階下を覗くが何も見えない。取り敢えず、灯りは点いている様だ。トイレ男はそぉーっと階段を下りていく。軋む音を恐れつつも、何とか一階まで辿り着いた。
そこでトイレ男が見たのは、地獄だった。
衛兵が倒れている。一人や二人ではない、五人や一〇人、多く見積もって二〇人程の衛兵が床に倒れ伏している。寝ている、という訳ではないだろう。衛兵達の体には所々に痣が有り、中には出血している者も居る。倒れている場所は床やらカウンターの上やら様々で、壁に寄り掛かっている者も少なくない。何者かに襲撃されと見て間違いは無いだろう。
意識を失っている者の中に右衛兵と左衛兵を見付け、トイレ男は自らが恐怖の余り失禁してしまったかの様に感じた。
「……………………」
「……………………」
「ッ!!」
何も言えず地獄を眺めていると、そんな自分を音も無く見詰める存在に気が付いた。
その存在⸺白い服を着た女、そう
「ぁっ……!!」
その女を認識した瞬間、トイレ男は体から力を抜いて倒れてしまったからだ。
心臓が締め付けられる。全身を冷や汗が覆う。血圧が上がり、それに伴い体温も上昇する。なのに、寒い。熱いのに寒い。脳裏に暗い世界とそこに響く足音が浮かんだ。あの女だ。顔も憶えていないあの女⸺トイレ男に喋れなくなる程の恐怖を与えたあの女、それがこの女だ。トラウマその物を目の前にして、トイレ男は現実を見る事を止めた。
そんなトイレ男を見て何を思ったのか。
「〈閉眼〉」
だから、白女がそう呟いた事になんて気付かなかったし、その直後に起こった事にも一瞬気が付かなかった。
「……………………?」
何も聞こえない。
先程までは
その他にも、目を開いても景色が見えない。蹲るトイレ男の視界には床を背景に大きく手の甲が映り込む筈なのに、見えない。空気を感じない。体を動かしても、皮膚が風を押し退ける感覚が無い。熱さを感じない。あんなにも体は熱かったのに、今は何も感じない。寒さも感じない。あんなに流れていた冷や汗はどこに行ってしまったのか、汗その物も感じない。口の中に唾液を感じない肌に服を感じないポケットの中に入っていた硬貨を感じないひんやりとしていた筈の床を感じない。明らかに異常である。トイレ男は酷く不安になった。そして、こんな時こそトイレを精一杯感じて安心を摂取すべきなのに、肝心のトイレを感じられない⸺トイレ男は、一切の物を感じていなかった。
「ッ⸺」
世界から隔絶された。
それを認識したトイレ男はガバッと立ち上がる。いや、彼は本当に立ち上がったのか? 彼は床に蹲った侭ではないのか? そんな疑問が湧いてくるのは彼が『立った』という実感が無いからだ。筋肉を動かした感じがしない、空気を切った感じがしない、視界が高くなった感じがしない。彼が立ち上がったという事を証明する物は、何も無かった。
無意識の内にトイレを捜す。トイレならば、あの美しいトイレならば、現状をどうにかしてくれるという曖昧な、だが確かな信頼が有った。腕を動かす、トイレを感じないから少し歩く、また腕を動かす。それを
自分は何をしているのか、どこに居るのか、どの様な姿勢で居るのか⸺それらを全て見失い、それでもトイレ男はトイレを捜し続けた。
だが永遠は無い。いつまでも同じ事を続ける事はできない。いつか必ず終わりが来る。
トイレ男にとってのそれは、
何も感じない筈なのに、突如としてトイレ男の脳内世界に乱入してきたその衝撃に、トイレ男は大きな驚きと幾分かの安堵を覚えた。
⸺頭を、