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出会い

 初めてマクレイ家のマナーハウスに行った時のこと。

 確かその日の夜はパーティがあって、貴族だけでなくアル付きのチューターたちも招待されていたはず。
 俺たちキャロル家は予定より早く着いてしまったので、父親同士がチェスをするため応接間に引き篭っていた。

 父親から離れて知らない屋敷に1人でいるのが寂しくて、誰かいないかとうろついていた時、アルが声をかけてきた。

「……ねえ。君は1人なの?」

 当時アルは13歳、俺は11歳。なのに俺よりアルのほうが小さかった。

「うん、父さんが伯爵と一緒にいるから」

「君のお父様って……キャロル先生のこと? 僕のチューターの」

「……じゃあ、おま――じゃなくて、あなたがここの息子?」

 アルはこくりと頷いた。
 思い返してみると、アルは自分が住んでいる屋敷なのにひどく縮こまっていた。
 なぜかは今でも分からないが、当時リチャードがパブリックスクールを卒業して戻ってきていたから居心地が悪かったのだろうか。

「……ねえ、僕の部屋に来てくれないかな」

「ん? ……ああいいよ――じゃなくて、――」

「大丈夫、変に振る舞わなくても。君の名前は?」

「ジャック・キャロル。よろしくな、えっと……」

「アルバート。……アルでいいよ、お母様以外にそう呼ばれたことないから。よろしく、ジャック」

 自己紹介しながらアルの部屋に向かった。
 部屋の中にあったのは1人分のベッドに小さな机、そして大きな本棚。
 屋敷にはさらに大きな図書室があったはずなのに、自分の部屋にも当主が使う書斎並みの本棚を設置していたのだ。

 当然、最初に俺が惹かれたのはその本だった。
 難しい哲学書や美術に関するもの、古典から最近までの小説、歴史書、そして、グローブ版『アーサー王の死』、アルフレッド・テニスン『国王牧歌』、『親指トム』が入った童話集などアーサー王伝説にまつわるもの。

「図書室へ行ったら、もっといっぱいあるよ」

「アーサー王が好きなのか?」

「うん、だから絵の勉強を頑張ってるんだ。円卓の騎士たちの話も読んでみたら、絵に描いてみたいものがいっぱいできたから」

 廊下で話していた時の弱々しさはどこへ行ったのか、アーサー王物語について話すアルは生き生きとしていた。

 当時はアーサー王物語に魅力を感じていなかったし、父が描いていたアーサー王の絵にも何とも思わなかったのに、アルの様子を見ていると急に「描いてみたい」という思いが湧いてきたのである。

「なあ」

「どうしたの?」

「俺にも、アーサー王物語について教えてくれないかな。俺も、一緒に描きたい」

「……! いいの?」

 そこから、アルとは友だちになった。
 伯爵家の次男と準男爵の息子、そんな立場をどうでもいいと思えるくらい語り合った。


 そんな思い出に浸りながら時計を見ると、もう5時になっていた。
「そろそろ行くか?」

「そうだね」

 そう言って席を立とうとすると、貴婦人たちの話し声がまた聞こえてきた。

「レディ・レイヴンのところへ行こうと思うの」

 また例の占い師の名が聞こえてきた。この間のパーティで話題にしていた方々とは違う。

「いつも思うんだけど、彼女とはどこで会えるの?」

「いつも場所が違うけど、大鴉がとまっている店だそうよ」

「ご自分のお店を持っていらっしゃらないの?」

「噂なんだけど、あの人のお屋敷がどこにあるか誰も知らないんですって。たくさんの大鴉がいると目立ちそうなものなのに」

 たくさんの大鴉がいる屋敷がどこにあるか分からない? なんなんだその噂は。
 アルとジョージも聞いたらしく、俺たちは目を見合せた。
 本当に最近、よく聞く名前だ。名前を聞きすぎて空を飛ぶ大鴉に目がいってしまう。

「……ねえジャック。お代は僕が払うよ」

「わざわざ奢ってくれなくてもいいんだぞ」

「おまけだよ」

「素直に感謝することができないとは」

「ジョージ聞こえてるぞ」

 俺たちは上着を受け取って、ティールームを出た。
 トップハットとコートをまといステッキをついて歩くアルと俺はもちろん、上質なコートをまとったジョージも、こうしてそれなりに良い身なりをして3人で歩いているといろいろな視線を感じる。

 ロンドンには建物が多いぶん無駄に路地が多く、そこには路上生活者が大勢いた。
 『こんな豊かな国で貧しい暮らしをしているのは個人の問題』なんて無責任なことを言う奴が多く、一向にその暮らしは改善されない。

 こんな現実を目の当たりにすると、
地位が高い者には義務がある(ノブレス・オブリージュ)』なんて綺麗事にしか見えない。
 何か事件があった時に濡れ衣を着せられることがあるのも、犯罪の温床などと言われるのも、貧しい人たちなのだ。

「うわぁ!」

 突然、衝撃音とともに高い声が聞こえてきた。
 音の出処は、俺たちがいる場所の少し先。
 赤い髪の子どもが鼻から血を流して地面に突っ伏していた。
 その傍にはスーツを着てハットを被った男が1人。小さな台とブラシもある。

「あれは、靴磨きのようです」

「まさか、顔を蹴られたっていうのか」

「ジョージ、あの子のところに行ってきて。僕たちも追うから」

「御意」

 そう返事して、ジョージは2人のもとへ走っていった。

「行こう、ジャック」

 アルも走り出したので、俺も後を追う。

「ジョージ! その子は……」

「鼻血が止まらないようです」

 少女はまだ俯いていた。ぼろぼろの上着と靴を身につけた子だ。

「ああ、血で靴がまた汚れたな」

 この子の顔を蹴ったであろう男は、女の子のことには目もくれずに靴を気にしていた。

「どうしてこの子を蹴ったのです」

「金に見合った仕事をしなかったからだ。腕が悪い奴だよ、それは」

 こいつ……、立場がない者だったら物として扱っていいとでも思っているのか?

「おい――」

「ジョージ、この子は僕たちが見てるから、その人に分からせてあげて。彼女が感じた痛みを」

 アルの顔は無表情だった。が、それはアルなりの『怒り』を表しているというのは、一緒にいる俺やジョージなら分かる。

「はい、坊ちゃん」

「おいボウズ、それを蹴ったくらいでそんな――」

 返事をしたジョージは、男が発言を終える前に掴みかかって、地面にねじ伏せた。
 その間、約5秒。格闘術を極めているジョージだからできる早業である。

「…………ぁーーっ!」

 俺たちは今完全に周りの注目を浴びてしまっているため正直まずい状況なのだが、ジョージどころかアルも、それを気にしていなかった。

「痛い……っ! おいお前ら、刑法の『人身へ対する犯罪』セクション47を知らないのか! 事務弁護士(ソリシター)であるこのウィリアム・アッシャーの顔に傷をつけ――!」

「セクション47は、『実際の身体的危害』に課せられるものでしょう? 確か擦り傷はだいたい該当しないはずですが。それに無力な少女の顔を蹴飛ばしておいて『仕事がなってない』『靴に血が付いた』と吠える方に『自分は偉いから顔に傷をつけるな』などと言う資格はないかと」

「まったくだぜ。それにアッシャー先生、あなたの理屈が通じるなら、中流階級(ミドルクラス)上流階級(アッパークラス)に文句を言えない」

 アッシャーは鳩に豆鉄砲を食らったかのように何も言えなかった。
 ただ悔しそうな表情で俺たちを見ている。
 すると突然、アルがアッシャーに近寄ってしゃがんだ。
 リチャードと同じ、冬の風に当てられた鉄のように冷たい目でアッシャーを見つめているのが、奴の怯え様で分かる。

「……あなたのような人がいるから、上の者が下の者を踏みつける悪循環が続く。ジョージ、もう離せ。互いの顔を二度と合わせないことを祈っています」

 アルは立ち上がり、また少女のもとへ戻ってきた。
 その間にジョージの手から解放されたアッシャーは、「覚えてろ!」なんて小悪党のセリフを言いながらその場から走って去っていった。

「もう鼻血は止まったみたいだぞ」

「そうみたいだね。大丈夫ですか」

 アルが彼女に寄り添ってそう尋ねると、少女は顔を上げた。
 その美しい碧眼には強い力があった。

「なんでアタシを助けたの、お貴族様が。『恩を返せ』って言われても何も出ないよ!」

 そう言って彼女は、靴磨きのブラシをナイフのようにこちらへ向けた。

「これはこれは。随分とお転婆な子ですね」

「ねえアンタ。さっきアタシを『無力な少女』ってバカにしたでしょ!」

「なっ……! 決して馬鹿にしては――」

「ジョージ、いいから。……驚かせて申し訳ない。ただどうしても彼が気に食わなくてね」

 アルがなだめると、少女は鼻で笑ってブラシを持った手を下ろした。

「お坊ちゃまは知らないんだね、この国の金持ちはあんなやつばっかだよ。これまでもいっぱい蹴られてきたし、周りのやつも見てないふりをするのが当たり前。……助けるやつなんて、アンタたちが初めて」

「……そうか。今の言葉は、君なりに感謝してるってことでいいの?」

「……そう思いたいなら、そう思えば? もっとも、コレ見たら助けたこと後悔するかもしれないけど」

 そう言って袖の中から取り出したのは、(ふち)が青い白のポケットチーフ。
 それは間違いなくアルのものだと分かった。
 アルも反射的に胸ポケットに手を触れたがポケットチーフはなかったので、彼女が持っている物が自分の物だと確信したようだ。

「人からなんかされたらされたで、やり返す。母さんもやってたから、今さら引き返せなくてね」

 少女はいたずらっぽく笑いながら、ポケットチーフをアルに返した。
 アルが彼女に寄り添ったその瞬間にポケットチーフを抜き取って、袖の中に入れ込んだということか。なかなか手際がいい。

「……あっ! あいつから代金もらってない! っもー! 働き損じゃん! 今日こそレディ・レイヴンのとこ行けるって思ったのに!」

「……レディ・レイヴン?」

 思わぬ所でその名を聞いて、一瞬俺たちは顔を見合せた。

「知らない? 今話題の女占い師。いかにも貴族っぽい感じなのに、アタシみたいな底辺の人間もそれなりのお代があれば占ってくれるんだって」

「……なあ、どこで占ってもらうんだ?」

「今日はあそこのパブ」

 彼女が指した方に、そのパブがある。
 労働者階級のための入口と中流階級以上のための入口がある、ごく普通の店構えだ。
 ただ屋根の上に、1羽の大鴉がとまっていること以外は。その大鴉が、まるで誘うように俺たちを見ている。

「アタシは14歳だから入っても目立つ。だから待ち伏せしようって思ってさ」

 噂を聞いて以来そこそこ気になっていた、レディ・レイヴンが来る場所を知った。
 これはチャンスでは? そう思って俺はアルに小声で話した。

「らしいぜ、アル」

「もしかして行く気?」

「気になってるだろお前も」

「…………」

 黙り込んだということは、図星ということだ。
 隣からジョージの強い視線を感じる。
 これは「アルバート様を道連れにするな」という意味か。
 しばらく考え込んでいたアルは、突然少女に尋ねた。

「靴磨きの代金はいくら?」

「え? 汚れによるけど……、アンタの靴全然汚れて――」

「違うよ。さっきの人の靴2回分」

「……アンタが払うの? 何企んでんの」

「僕も、レディ・レイヴンに興味がある」

 おっ、アルが俺の言葉に乗った。……アルの発言と同時にジョージの視線が強くなった気がするが。

「……アタシと一緒に、レディ・レイヴンのとこに行くって?」

「君は代金が必要なんでしょ?」

「確かに俺たちの連れになれば、一緒に入れるな」

「……分かった、アンタたちに乗る」

 取引成立として、アッシャーが払うべきだった料金をアルが支払った。

「俺はジャックだ」

「僕はアルバート。よろしくね」

「私はアルバート様の従者ジョージです」

「アタシはエミリー。呼び捨てにするからね」

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