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茨の道

 英国王立芸術院(ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ)は、ピカデリーのバーリントン・ハウスにある。
 もともとバーリントン伯爵家のタウンハウスだったこの建物を政府が買い取って拡張、1867年に美術学校と展覧会場が置かれた。

 パッラーディオ様式で建てられた白亜の館には、大勢の人が集まっていた。
 俺はそこの会員を務める父の新作お披露目に付き合っている。

 俺の親友は、父の絵を見て目を輝かせていた。
 もともと綺麗な金髪も、琥珀色の瞳も、よりいっそう輝いているように見える。

「これは……!」

「いかがですか?」

 林檎の木が生い茂る島に黒いボートがやってくる。
 ボートに乗っているのは3人の女性と1人の男性。
 男は身体を倒していて、彼女たちは男を心配そうに見つめている。
 島には9人の女性たちがいて、ボートに気づいた者が慌てている。

「アヴァロン……!」

 アヴァロン。
 モードレッドとの最期の戦いで致命傷を負ったアーサー王が、その傷を癒すために〈湖の乙女〉と呼ばれる水の精たちの案内で向かったという伝説の島。9人姉妹の妖精が統治していて、中でも長女のモーガンは癒しの力があるという。

 彼女はアーサー王の宿敵である魔女とされることが多いが、善と悪の二面性を持っていたという話のほうが俺たちの好みだ。

「俺たちの理想形だな」

「うん! サー・エドワード、モーガンがアヴァロンでアーサー王を治癒したというバージョンは1860年にジェームズ・アーチャー氏が描いていますが、これは舟がまだ到着していないのですね」

「彼が描いた《アーサー王の死》に感銘を受けたのですが、実際アヴァロンに舟が着いたときに妖精たちはどんな反応をしたのかと考え始めたのがきっかけとなった次第です」

「なるほど。確かに妖精と言えど、いきなり手負いの王を連れてやってきたらこのように慌てるのかもしれません」

 ギリシアの神々じゃあるまいし、気高い妖精たちがそんな人間的な反応するかは疑問だが、興奮気味のアルバートと議論したところでこちらが押されるし、何より後からアルの傍に控えているジョージに何をされるか知ったこっちゃない。
 だから、こういう場合は黙っているに限る。

「ここにモーガン・ル・フェイもいる」

 そう言って俺は、絵の中にいる黒衣の女を指した。
 今にもアーサー王に駆け寄らんとしている黒髪の美女で、頭には冠を被っている。
 父の中では、それがアヴァロンの女王たる彼女の象徴(アトリビュート)なのだ。

「モーガンは作家たちにいろいろな一面を持たされているけど、本当の姿が気になる」

「この絵にある通り、アーサー王をアヴァロンへ導いたんだ。彼女は俺ら人間が何をほざこうが気にしない。少なくとも、俺はそう思う」

「『魔女』などという汚名を着せられても、仮にその不名誉な話が一番辻褄が合うとしても、ですか。ジャック様にしてはまともなことを仰る」

 ジョージ……! 精一杯の抵抗のために奴を睨みつけるが、こいつはあしらうばかりだ。

「……アヴァロン、か。グラストンベリーがそうなのではと言う人がいるけれど、面白くないよ」

「同感だ。誰も辿り着けないような場所だったり、誰も知らない場所だったりするから、伝説となる。それを無理矢理暴くなんてもってのほかだ」

 ……だが、アヴァロンの場所が知りたくないと言えば、嘘になってしまう。
 この絵にあるような美しい林檎の木が生い茂る場所がこの世界のどこかに、それもこのブリテン島の近くにあるというのだろうか。


「いいのか? 俺と紅茶を飲んでいて」

「久しぶりに一緒に過ごしたいなって」

 父と別れてバーリントン・ハウスから移動した俺たちは、ストランド通りにあるティールームで
午後の紅茶(アフタヌーンティー)を嗜んでいる。
 紅茶で初めて英国王室御用達(ロイヤル・ワラント)の称号を女王から与えられた店だ。

「ジョージは全くそんな感じはしないがな」

「坊ちゃんのお望みには従うまで」

「ああそうかよ」

 まったく……、せっかく定番のアールグレイを飲んでいるっていうのに。

 ジョージはいつも俺に目くじらを立ててくる。無理もないと思う根拠はある。

 俺の父は労働者階級出身だが、画家としての功績を称えられて準男爵になった。それでも準男爵はただの称号で、身分自体は平民。
 でもジョージも称号がないだけで同じ労働者階級だ。肩書きなんていう飾りだけで差をつけられている。

 この国の身分社会というのは、存外複雑だ。
 一度こいつにそのことを言ったら「平民だというのならばアルバート様には敬意を払え」なんて返されたっけな。

「ねえジャック」

「うん?」

 俺に呼びかけたアルがカップをソーサーに置いて、真剣な面持ちで語り始めた。

「僕、……やっぱり嫌だ。身分とか称号とか」

「おい、突然何を――」

「そんなものがなかったら、僕は……お兄様ともっと仲良くできたのかも。家で寂しい思いをしなくて済んだのかも……。でも……」

「落ち着け。……何があった」

 それからアルは、兄リチャードと父ヘンリーとの会話を聞いてしまったこと、その内容が兄と自分の差についてであったことを話した。

 リチャードがそんなことを思っていたのは、数回マクレイ邸に出入りしただけの俺も薄々分かっていた。

 アルのチューターをしていた父に連れられて屋敷で当主ヘンリーとリチャードに挨拶をした時、リチャードはずっと冷たい目で俺を見ていた。
 初めはこの『準男爵』(爵位持ちの平民)が気に食わないだけなのかと思っていたが、彼は同じ目を弟にも向けていた。

「坊ちゃん……」

「なあ、アル。お前の兄貴はお前だけにそんな感情を持っているわけじゃないと思うんだ」

「…………え?」

「お前のとこみたいな名門の家のトップとしてやっていくには、そりゃ力がいる。その力は称号とか学歴とかになるだろうな。そしてその力を手に入れるための道には茨だらけだ」

「だから、茨が生えていない道を進む僕を嫌っておられるんだよ……」

「一旦聞け。リチャード卿は、自分の立場なら誰もが通らなきゃならない道を歩むことに疲れている。ただ遅く生まれただけのお前とは全然違うということが……確かに不満かもしれない。だけど! 同時にそんな自分が嫌いになっているって考えることもできるだろ?」

 俺の言葉を聞いたアルは、目元に溜まっていた涙を1滴溢れさせた。
 その涙を見たジョージは、すぐにハンカチを取り出してアルに渡す。

「リチャード様の思いは、ご自分にも向いていると?」

「だってよ、アルはこんなにも純粋で良い奴だぜ。そんな奴に向ける憎しみほど惨めなものはない。自分と血を分けた兄弟に向けるものは余計にな」

「ジャック……」

「それに、さっきお前が言ったことに反論させてもらうと、お前の道に茨が生えていないなんてことはない。てか、茨がない道を歩ける人間なんざいねえよ。……茨の量は、人によって違うだろうから不平等だけどな」

 アルもアルで、正直マクレイ邸にいるのはつらいはずだ。
 職を探していたジョージを救うためとはいえ、いずれ家を出る自分のために上級使用人たる従者をつけたり、趣味でしかない油彩画を描くための道具を買ったり。

 さらに俺がマクレイ邸に顔を出した時に、彼に対するメイドたちの陰口を聞いてしまったこともある。アルもそれを自覚しているらしく、家を出たらああしたい、とよく語っている。

 立場で苦しむのは、お互い様なんだよ。リチャード・マクレイ卿。

「……ははっ」

 最後に付け加えた言葉に対して、アルが笑った。
 良かった、こいつが笑ってくれないと二度と晴れがやってこない感じがする。

「……ありがとう。ジャック」

「俺がいつも、お前から希望をもらってんだ。対価だと思って受け取れ」

「だとしたら、僕はおまけしないといけないよ」

「俺にとっては妥当なんだ」

 嘘ではない、実際俺がアーサー王物語にハマったのはアルの影響だ。

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