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憂鬱な朝

 19世紀、ヴィクトリア女王のもとで大英帝国は『英国の平和(パクス・ブリタニカ)』と称されるほどの大繁栄を築いていた。
 『世界の工場』『世界の銀行』と呼ばれ、圧倒的軍事力を誇り、貿易でも優位を保っていた。
 その繁栄についていくために、人々の生活は目まぐるしく変わっていき、社会問題にも焦点が当てられていく。
 その社会や道徳観の変化をうまく表現し、女王の後援により上流社会と交わっていくのが芸術家たちである。


 世紀末が近づくある年の夏、ロンドンのピカデリーに構えるタウンハウスで、名門伯爵マクレイ家の朝は始まる。

「坊ちゃん、もう朝ですよ」

「ん、ん……」

 従者の声と彼がカーテンを開ける音で、僕は少し目を開ける。
 朝陽が窓から部屋へ射し込んでくる。
 目を開けていられないほど眩しかったので、また布団を被る。

「アルバート坊ちゃん、もう旦那様も兄君もお目覚めでございますよ」

 目覚めの紅茶を淹れながら、従者ジョージ・ハーコートは言った。
 光に目が慣れてやっと身を起こし、ジョージからカップをもらう。
 ベルガモットが爽やかに香るから、今日はアールグレイのようだ。
 僕が紅茶を飲んでいる間に、ふとナイトテーブルを一瞥したジョージは、1冊の本が置かれていることに気がついた。
 それがトマス・マロリーの『アーサー王の死』だと気づくと、彼は笑みをこぼした。

「坊ちゃんは本当にこれがお好きですね」

「……別に。次の絵の題材を探していただけだ」

「絵の主題にしたいほど、お好きなのですね。それに……」

 そう言うとジョージは、部屋の隅にあるイーゼルを見た。
 そこには描き始めたばかりの芝生が広がるキャンバスが乗っているままだ。

「もう着色を始めたのですか」

 ジョージの言葉に、何も返せなかった。
 実際僕は、子供の頃からアーサー王の物語が好きなのだが、それをいつまでも使用人にからかわれるのは嫌なのである。

「さあアルバート様。食卓でお2人がお待ちです」

「分かった」

 返事をした僕はベッドから出た。


 父ヘンリーと兄リチャードの3人で食卓を囲んでいる。
 母を病で亡くしてから、家族一緒にいても楽しくなくなった。
 父は執事ターナーから渡されたパーティの招待状を確認していた。

「やれやれ、フォートナム伯爵にバートン男爵夫人……、社交期(シーズン)というのは毎年嫌になる」

「父上はまた、全員分断るおつもりで? 何人かのところなら僕が行きましょう」

「ああそうだなリチャード。お前もそろそろ、結婚を考えないといけないしな」

「ええ。……アルバートは行くの?」

 リチャードが僕に話を振るとき、いつも彼は冷たい目をしている。

「僕は、……その、お兄様が行かないところに」

「ふーん、そう」

「なら、今日アーシェンブルー侯爵の晩餐会に行ってくれるか。あのご夫妻なら、芸術家も集めているだろうし」

「はい、お父様」

 ポーチドサーモンを食べながら、父と兄の機嫌をうかがう。
 僕にとって、特に兄の気を損ねないように振る舞うことが神経を使う作業だった。

 僕たち兄弟は5歳差だが、教育方針は異なっている。
 リチャードは名門パブリックスクールの監督生を務め、その後オックスフォード大学を卒業した。
 それに対し、僕は今オックスフォード大学に通っているものの、かつてはパートタイムの家庭教師(チューター)がついていた。
 すなわち、リチャードは次期家長としての完璧さを求められているのに、僕はある程度好きなことをさせてもらっているのだ。
 それに対してリチャードは妬みを抱いているのだろう。
 僕は人の気持ちを察することが苦手だが、兄の嫉妬だけは分かるので振る舞いには細心の注意を払っている。

「リチャード、お前は今日バートン夫人のところに行ってくれないか」

「はい父上。そうだターナー、先生から何か預かってないかな」

「こちらですかな?」

 ターナーは1通の封筒をリチャードのもとへ持ってきた。
 朝食を食べ終わったリチャードはそれを受け取って席を立ち、居間へ向かう。
 兄が部屋を出ると今度は僕が席を立ち、自室へ戻った。


 部屋でまた読書をしていると、部屋のドアがノックされ「失礼します」という言葉とともにジョージが入ってきた。

「今夜はアーシェンブルー侯爵主催の晩餐会ですか」

「うん。閣下にはお世話になってるし、あそこのパーティには画家たちも来る。もしかしたら――」

「準男爵エドワード・キャロル様ですか。一流の画家ですからいらっしゃるでしょうね」

 皮肉を言うような調子で発言したジョージに、思わず吹き出してしまった。

「僕が会いたいのはその息子だって、君は分かってるでしょ?」

「ええ、もちろんでございます」

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