第161話 慣れない張り込み
「若干十四歳で司法試験に通ったエリートとか言いながら……なんやかんや言いながら、茜も司法捜査官なんだな。アイツの指定通りの場所に停めるとちゃんと動きが良く見えるわ。張り込みは捜査の基本。神前、一瞬たりとも油断するなよ。このおばはんはもう厚生局からは用済み扱いされてる可能性が高いんだ。あの三郎と同じように口封じに消される可能性がある。まあ、厚生局の殺し屋が動いてくれるとこっちは強制捜査に入れるから楽なんだけどな」
納得するようにカウラの『スカイラインGTR』の窓からかなめは目新しいマンションを眺めていた。すでに東都理科大での一般教養科目の生物学の講義を終えて片桐博士が自宅のマンションに帰っていた。茜の指示でその三階の部屋の明かりが見通せる路地の坂の上にカウラは車を停めていた。
「今や花形の法術研究者でありながら、糊口をしのぐために一般教養科目の講師か。確かに屈辱でしかないだろうな。今のように法術が当たり前の時代が来てしまえば花形の研究課題だ。准教授だろうが教授だろうが学部長だろうがどんな待遇でも迎えてくれるところがある。それが一度政府に目を付けられるとこの様だ。人生とは残酷なものだな」
カウラの声に誠も頷いた。誠自身が法術と言うものをこの世界に知らしめてしまった張本人であるだけに、時代を変えてしまった責任と言うものを痛感していた。そして、その時代を読み切ることが出来なかった女性研究者に同情する気持ちも持ち合わせていた。
東都理科大は誠の母校だった。理系の専門大学の私大では東和でも一番の難関大学である。専門課程の研究室の准教授が高額の研究費を貰っているのに対して教養科目の講師の立場があまりにも低い待遇なのは誠も知っていた。もし、すでに法術が表ざたにして良いものであったとするならば、彼女は研究室の一つや二つ兼務していたとしてもおかしくないだろう。
しかし、現実はそうではない。あくまで今の彼女は一コマいくらのはした金で雇われる非常勤講師に過ぎない。高学歴低収入の典型例。誠にもそう言う先輩が多くいたのでその苦労は良く知るところだった。
「しかし……男の影も無いのかよ?寂しいねえ。まあ、あのおばはんもモテない宇宙人である遼州人で有る訳だから別に普通だと言ってしまえばそれまでなんだけどね」
まるで自分のことを考えずにつぶやくかなめの言葉にカウラは思わず噴出した。だがそれはかなめの耳には届かなかったようで彼女はひたすら車の中から夕闇に明かりの目立つ片桐博士の部屋を見つめていた。
「西園寺。あのマンションの訪問者の画像データは?いくらこんなに静かでも訪問者の一人や二人ぐらいあるだろう。教師と言うものは生徒から慕われるものだと聞いているぞ」
カウラはそう言ってかなめに目を向けた。
「当然手に入れたに決まってるだろ?あのオバサンがらみはとりあえず無し。それに生徒に慕われるって面じゃ無かったろ?あのおばはん。これじゃあライラさんの部隊や東都警察の連中もすぐに手を引くだろうってことが分かるくらい綺麗なもんだ。孤独を絵にかいたような暮らしだ。精神がどうにかならない方がおかしいくらいにな」
かなめの言葉と共にカウラと誠の端末にデータの着信を知らせる音楽が流れた。誠の深夜放送のアニメの主題歌が流れる端末を見て、かなめが監視をやめてニヤニヤ笑いながら助手席の誠を見つめてくるが、誠は無視してそのままデータを開いた。
「綺麗と言うか……この数ヶ月の間誰も訪れていないじゃないですか。もし容疑者ならば厚生局の関係者の出入りくらいは有ってもおかしくないですよ。基礎研究のデータのやり取りとかはどうやってたんでしょうね」
誠もあまりに訪問者の少ない女性研究者の生活に不安を感じるとともに、そもそも厚生局との関係すらないのではないかと言う疑念を持ち始めていた。
「なんならお前が行くか?『お姉さんさびしいでしょー』とか言って。それとなにも直接対面だけが研究機関との連絡手段じゃねえ。電話にメール。いくらだってあのおばはんを厚生局の関係施設に呼び出す手段はある。むしろ違法な研究をしていた自覚は有るだけにそっちの連絡手段を取っていた可能性は高い」
「確かにそうなんですけど……それとなんで僕が片桐博士を慰めに行く行く必要が有るんですか?いくら母校の先生だからって面識がまるでありませんよ」
かなめの冷やかすような視線を避けて誠は片桐博士のマンションを見上げた。築三年、東都の湾岸沿いの再開発で作られた新築マンション。博士号を持つ新進気鋭の研究者にはふさわしいといえるが、最近はすっかり研究から取残された知識人が住むには悲しすぎる。そんな感じを受けるマンションだった。
「あのさあ。話は変わるんだけどさあ」
そう言って軍用のサイボーグらしく眼球に備えられた暗視装置でもなければ見えないような暗がりを見つめていたかなめの声が車内に響いた。
「もし、オメエ等が一言の失言ですべての地位を失ったらどう考える?オメエは逆に『近藤事件』ですべてを手に入れた側じゃん。逆の立場だったらどう思うよ」
静かな調子でかなめがつぶやいた。その言葉にはそれまでの軽口の調子はまるで無かった。
「私は考えたことも無いな。私は作られた存在だ。そしてロールアウトし、今の仕事を与えられた。失った経験がない以上答えようがない」
運転席のハンドルにもたれかかりながらカウラはすぐに答えた。誠は突然の言葉にかなめに視線を向けていた。
「僕は……」
かなめは視線を薄い明かりの漏れる片桐博士の部屋に向けたままじっとしている。誠はしばらくかなめの言葉の意味を考えていた。
「簡単な言葉で済みませんが絶望するでしょうね。この世のすべてに……」
飲み込んだ誠の言葉が耳に届いたのか軽く頷くとかなめの表情に笑みを浮かべる。カウラはダッシュボードを開けると眠気覚ましにガムを取り出した。
「だろうな。アタシはこの世を恨んで銃で強盗でもやるかな。カウラ、アタシにも一枚よこせ」
かなめはそう言うと視線を動かさずに手だけをカウラの手元に向けた。