第139話 人買いの最期
志村三郎は悲痛にも近い表情で事務所の椅子に座り込み携帯端末に耳を当てていた。締め付けられた喉もとの感覚が気になって自分でも悪趣味だと思っている真っ赤なネクタイに手をやった。緩めてみるが事務所の自分の机を叩き続ける貧乏ゆすりのかかとの音は止まることが無かった。
電話の相手の同盟厚生局保健管理室の職員と名乗っていた男に高飛びを勧められたことが志村の心を揺り動かしていた。
「あんた達だろうが!臓器売買?冗談じゃない!あんな化け物を作っているなんて話は聞いてないぞ!そんな甘っちょろい話どころか同盟司法局だけじゃなくて駐留軍まで動いてるんだ!まったくどうしてくれるんだ!あのサオリさんの上司のちっちゃい姐御が言ってたな……引き時が肝心だって。俺は完全に間違えちまった。もうお終いだ!」
そう怒鳴りつけると端末の電源を落として事務所の中を見回した。すでに彼の不機嫌を悟ったこの商社を名乗るこの小さな事務所の中の舎弟達は出て行った後だった。そして自分のようなやくざ者には立派に過ぎると思っている執務机の画像には一人の少女の姿が映っていた。
それは西園寺かなめから送られてきたメールに張り付いていた動画の一場面だった。事務所から帰る道すがら、そして帰ってきてからも志村は何度と無くそれに目を通した。確かに彼はその少女を厚生局の役人にひそかに譲り渡していたのは事実だった。それがテレビで放映されたあの都心で暴れまわった化け物に変化したとは三郎にはとても信じられなかった。ただ、厚生局の研究の重要な参考人として今度は二度と出ることのない監獄に収監されると言う事実だけが三郎の脳裏をよぎっていた。
『別に東都だけが金を稼げるところじゃないでしょ?何ならこちらの方で高飛びの手配でも……』
役人が自らそこまで言ったところで志村は通信を切った。連中は分かっていなかった。ここ以外に三郎が暮らせる場所は無い事を。ベルルカンの地獄に行くのはさらさら御免だった。遼南共和国で彼の父親が行ったことを考えれば、遼大陸に行くことはあまりに危険すぎた。この租界に住む住人にはそれぞれに他の場所に住むことが出来ない理由があってこんな地獄に住んでいる。ここの外にいる人間にはその事実が理解できないことを三郎は役人の言葉であらためて思い知らされた。
「なんだってんだ!俺だけじゃないはずだぞ!連中に人間を売ってたのは!そうでなければ『近藤事件』からこの数か月でこんなに研究が進むわけがねえ!あの糞役人め!所詮奴等には俺達は使い捨ての駒ってことか!」
そう叫んでキーボードを叩いてみるが苛立ちは収まらなかった。昔、『東都戦争』と呼ばれた東都のシンジケート同士の潰しあいのさなか。西園寺かなめは娼婦の仮面で彼に近づき旧遼南共和国シンジケートの幹部の動静を探っていた。彼女が甲武の四大公家の嫡子であることを知ったときは満面の笑みで自慢して歩いたものだが、今回の驚きはそれの逆を行く話だった。
元々遼南からの難民を東都の各地の臓器売買を行っている組織に売り渡す仕事のための事務所。とてもまともとは言えないが、需要があるからと言うことで自分をだましながら続けてきた商売だった。
この国、東和には臓器を買い漁る金持達が山といて、この街の貧民達の臓器をまるで自分の替え部品の様に扱っていることに怒りを感じないことは無かったが、それも初めだけの事だった。慣れてしまえば臓器売買で命がいくら消えようが心が動くことなどなくなっていた。需要があるから供給するだけ。ただの資本主義の経済理論が三郎を動かしていた。
だが今回はその相手が兵器としての法術師を開発している連中となれば話は違った。志村は試しに自分の端末に再び電源を入れてみた。多数の着信が届いていた。多くが目の前の画像に映っている少女の消息を探っている官憲の犬達のいることを知らせるタレコミだった。
好意的なものから、古くから付き合いのある臓器ディーラーからは怒りに震えるような文言での脅迫文じみたメールが届いていた。どれもが驚きと恐怖に満ちていて、三郎の心をさらに乱すだけの効果しかない代物だった。
「ったく……どうなってんだよ!俺が悪いのか?本当に俺だけの責任なのか?この街の存在が悪いんじゃないのか?あんな豊かな街の隣にこんな貧しい街がある。それがすべての原因じゃないのか?」
誰もいない事務所で叫んでみても何も変わらないことは分かっていた。法術関係の研究素体向けと思われる取引は彼の知るだけでもこの少女を含めて十三件あった。志村以外のルートでも集めているだろうから臓器を買っている組織の規模はかなり大きなものだということは推測できた。
同業他社の連中も今頃三郎と同じような青い顔でこの少女の写真を見ているに違いない。連中が売った商品でなくとも、同じような研究が行われていれば売られた人間のたどる運命は同じだった。
中には租界内部の人間でなく、租界外で商品を拉致して売るもっとずるがしこい業者が居たことも三郎は知っていた。恐らく司法局が動き出したのはその連中が身元を残すような失態をしでかしたからだろう。とりあえず他人を憎むことによって三郎はなんとか心の平静を取り戻しつつあった。