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第七十話 それは本当に尊いもの?

 落ちた先は闇に包まれた空間だった。サダオミは綺麗に着地すると姫抱きしていたヨークを隣に降ろす。
 様子を伺っているとどこからか声が聞こえてきた。

『カイナ、君はいい子だね』

 ティミアの声だ。今よりも年若そうなバイパーの頭を撫ぜながら優しい声色で語りかけていた。

『君を買って正解だった。君はとてもよく尽くしてくれるね。そのうち私の仕事を手伝ってくれるかい?』
『はい、ティミアさま』

 照れくさそうな声でバイパーは返事をし、別の方向から再び声がする。

『カイナ、この国は癌に侵されているんだ。助けたいと思わないかい?』
『癌ですか?』

 ソファに並んで腰掛けている二人は、まるで恋人のように手を繋いでいる。ティミアの声色は優しいものの、どこか冷たさも秘めていた。

『人間はこの国に存在してはならないんだよ。この国は獣人たちのためのものなのに、人間は我が物顔で道を歩く。毛のない猿どもが。可笑しいとは思わないかい?』
『はい、ティミアさまが言うことは、いつだって間違ってたことないですからね!』
『ふふ、我ら純血派が、きっと世界を変えよう』

 さあ、と二人はかき消えてまた別の方向から声が聞こえてきた。ティミアの声ではなかった。

『いつも同じパンばかり買っていきますけど、お好きなんですか?』
『え』
『あ、すみません。ふふ、猫ちゃんがチョココロネ食べるの、可愛いなと思って。いつもありがとうございます。またのお越しをお待ちしております』
『は、はい……』

 女性はパン屋の従業員らしく、疑問を告げた後店員らしい対応に代わる。

 そのあとは。人間の女性との交流が流れ始めた。話を交わして、連絡先を交換して嬉しさにガッツポーズをするバイパー。ティミアに褒められるバイパー。人間と獣人純血派の狭間で揺れ動くバイパー。

 本当に、ただの青年としてのバイパーの日常が流れて行った。

『お前はもう、要らないよ。バイパー。だから最後に、あの人間を殺してきなさい』
『……はい』

 そう言われた先、人間の女性とデートに出かけたバイパー。そうしてあのブティックで、バイパーは女性を……そうして、洗脳で引き出された力で周りも巻き込んで……無差別殺人に至る。と言うのが事の顛末だったらしい。

 倒れ伏したバイパーは警察に拘束され、言葉にならない喚き声で泣き叫んでいた。

『俺は、人間を愛してしまったんです。ティミアさまが一番に嫌っていたものを』

 ヨークとサダオミの後ろにバイパーの姿があった。力なく項垂れ、声にも覇気はない。

『俺は、低流家庭の出で、家出した時に人攫いにあってあの人に買われたんです。純血派の考えだって、最初は感銘を受けた。自分が恵まれないのは人間のせいなんだって責任転嫁していたんです。でも、あの子に出会ってしまった。恋を、してしまった。ティミアさまを裏切った。殺してしまった。もう、生きる意味なんて……』
『罪悪感から、ドラッグの被験体に?』
『はい、恐らくまもなく、まともなこの俺も居なくなってしまうでしょう。……ずっと、助けて欲しかった。この苦しみを誰かに聞いて欲しかった。スフィアダイバーさん……』
『バイパーあんた、まさか』

 バイパーはもう……助からないのだろうか。

『ティミアさまは俺の自我を壊すよう外部補助のデバイスに。あなた方ももう危ないです。引き上げてください』

 ヒューノバーがグラフに目を移すと、ヨークとサダオミに語りかける。

「バイパーの言う通り、心理世界が不安定になってきています。早急に引き上げてください」
『バイパー』

 ヨークがバイパーを優しく抱きしめた。

『……助けてあげられなくて、ごめんね』
『……そう言ってくれる誰かがいるだけで、俺は幸せでした。ありがとうございます。スフィアダイバーさん……う、ああ、あああ……』

 泣き出したバイパーの静かな声が耳に届く。少しの後映像が途切れ、バイパーの心理世界から二人が戻ってきた。監視室にやってきた二人を見てなんとも救われない気持ちになった。

 お疲れ様でした。と声をかけるとヨークが力なく笑い、サダオミも眼鏡のブリッジに手をかけ、黙りこくっていた。

 潜航室の方では警備員がバイパーを回収し部屋を出て行った。

「今回の潜航のデータはいつものように警察に提出しておきます」
「うん、お願いするよ」
「……バイパーはどうなるんでしょう」
「……もう正気に戻ることは難しいかもしれません」

 サダオミのその言葉に、ずんと腹の底が冷えて重くなる。心理潜航を初めてしばらく経つが、救えない人も多く見てきた。

 人間に恋をしてしまったばかりに、精神を壊されて、人間と獣人間の関係性を壊す犯罪に手を染めることになる。悲しいものだ。

 それほどまでに純血とは尊いものなのだろうか。私たちは様々な血が入り混じって、今を生きることができるのに、それから目を背けて、誰かを貶めて、蔑んで、最悪、殺して。それが純血を尊ぶということなのか。正しいことなのだろうか。

 一番苦しかったのはバイパーだろう。相手が人間だったばかりに恩人を裏切る形になってしまったのだ。ずっと苦しんできたのだろう。正気で居られなくなっても、苦しんで、いくのだろうか?

「ミツミ、大丈夫かい」
「あ、はい」
「調書の制作、手伝ってよ」
「班室に戻りましょうか」
「あんたら今日は飯奢ってあげるよ。サダオミが」
「いいですよ。今回はね」
「はは、太っ腹ぁ!」

 ばん、と私の背を叩いてヨークが笑みを向けてくれた。潜航の度に落ち込んでいては、この先苦労するだろう。が、それが私の性でもある。長所でもあるし短所でもある。今はとりあえず、前を向こう。歩き出すのはヒューノバーにでも助けてもらうか。と考えながら班室へと戻った。

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