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六日目① 穴

 一体いつまで降り続くつもりなのだろうか、この雨は。
 まあ、天気予報では、もうしばらく降るらしいのだが。

 傘を差しながら登校する生徒達の話題も、部活が外で出来ないとか、自転車通学が出来ないとか、髪が上手く纏まらないとかの、雨への苦情が多い。
 中には、温暖化の影響でどうのこうのと、専門的な会話をしている者達までいる。

 そんな生徒達の中、太郎は傘を差しながら、トボトボと学校までの道程を一人で歩いていた。

(この雨、本当にいつまで続くんだろう……?)

 タロが出て行ってしまった翌日。
 休みの空けた月曜日である今日も、彼は未だに姿を見せない。

(追試、どうするつもりなんだろう? このままじゃ留年だって言っていたのに)

 タロが来てから、今日で六日目。
 つまり、明日が期限の七日目なのだ。

 それなのにまだ帰って来ないだなんて、タロは一体どうするつもりなのだろうか。
 まさか太郎に嫌気が差して、追試など放り捨てて帰ってしまったのだろうか。

 いや、でもあのタロが途中で諦めるとも考えにくいし……。

(でも僕に嫌気が差したのなら、いくらタロでも、追試なんか放り出して、怒って帰っちゃっても仕方ないよね……)

 タロがいなくなって清々するハズなのに。
 彼がいなくなれば、煩くもないし、妃奈子に無理矢理告白させられる事もないしで、良い事づくめのハズなのに。
 それに何より、追い出したのは自分自身のハズなのに。

 それなのにタロの事ばかりが気になってしまうのは、どうしてだろうか。

「タロちゃん!」
「!?」

 不意に聞こえて来た彼の名前。
 それにハッとして、太郎は勢いよく振り返った。

 今、確かに『タロ』と呼ばれたハズだ。
 きっと近くにタロがいて、誰かが彼を呼んだんだ。

 良かった、やっと帰って来てくれたんだ!

「太郎ちゃん、おはよう」
「え……、あ、姉ちゃん……」

 しかしどうやらそれは、太郎の都合の良い聞き間違えだったらしい。
 太郎とタロを、聞き間違えたのだ。

 まったく、こんな初歩的な聞き間違えをするなんて、自分は一体どれだけ彼に会いたいのだろうか。

「おはよう……」
「うん、おはよう。一体いつまで降るのかしらね?」

 後ろから自転車で走って来た樹に呼び止められ、太郎は取り敢えず立ち止まった。

 それにしても、彼女は何故こんな雨の中、傘を差しながら自転車に乗っているのだろうか。
 警察に見付かったら、確実に怒られるんだぞ。

「あの、太郎ちゃん、この前はごめんなさい。私、太郎ちゃんの気持ちも考えないで、勝手な事をしてしまって……」
「いや……それは僕の方こそ悪かったよ。カッとして、言っちゃいけない事言っちゃって。僕の方こそ、ごめんなさい」

 素直に、樹に悪かったと告げる。

 あの後反省し、悪かったと思ったのは本当だ。
 だから今の謝罪も、心から言っているのは間違いない。

 けれども、謝罪をしようが何をしようが、常にタロの影がチラつく。
 ぽっかりと心に穴が開いたような気がして、酷く寂しい。
 何をしていても満たされない。
 傍にいた時はあんなに疎ましかったのに、いざいなくなるとこんなにも寂しいだなんて。
 まさかタロの事で頭が一杯になる日が来るなんて、思ってもいなかった。

「あのね、太郎ちゃん」

 樹としては、まだ話があったのだろう。
 しかし、樹がその続きを口にしようとした時だった。

「おーい、太郎ー!」

 再び後ろから自分の名を呼ぶ声が聞こえて、太郎は振り返る。

 するとそこには、傘を差しながら走り寄って来る土田の姿があった。

「あ、太郎ちゃんのお友達ね。じゃあ私、先に行くわね」

 太郎の友人が走って来るのに気が付いた樹は、自分の話は後で良いやと思ったのだろう。
 太郎に「じゃあね」と言い残すと、樹は自転車でサーッと走り去って行った。

「おはよー太郎! 今日もすげー雨だな!」
「うん、おはよう、土田」

 樹と入れ替わるようにして隣に来た土田は、太郎に朝の挨拶を交わすと、自転車で走って行く樹の後ろ姿に視線を向けた。

「なあ、今のって枯野会長だよな? オレの事気遣って先に行ってくれたのか? 何だよ、太郎、引き止めてくれよ!」
「……用がないんなら、僕、先に行くね」
「えっ!? あ、ちょっと待ってって、太郎!」

 土田には構っていられないと、太郎がスタスタと歩き出せば、土田もまた慌てて彼の後を追い掛けて来た。

「あのさ、太郎。土曜日の事なんだけど、からかって悪かったな。オレも少し調子に乗りすぎた。ごめんな」
「……良いよ、別に。気にしていない」
「そっか……。ところでお前、あれから妃奈子には、ちゃんと謝ったのか?」
「……」

 妃奈子。
 土田の馴れ馴れしいその呼び方に、勝手ながら腹が立つ。

 隣に並んで歩きながら尋ねる彼に、太郎は無言で首を横に振った。

「何だよ、ちゃんと謝れって言っただろ。妃奈子のヤツ、かなり傷付いてんだからな」
「……」

 何だよ、彼氏面して、と太郎は思う。

 確かに妃奈子を泣かせたのは悪かった。
 けれどもその原因が未だに分からない。
 その原因が分からない以上、どうやって謝ったら良いのかが分からない。
 いや、それ以上に妃奈子に拒絶されるのが怖い。
 謝ったところで妃奈子が許してくれなかったらと思うと、怖い。

『何を怖がる必要がある! キミが悪いと思ったから謝るのだろう! ならば原因は分からなくても、誠心誠意謝るべきだ! それでも許してくれないのであれば、それはキミ、アレだ。非常に残念だが、妃奈子との今後の付き合い方を考え直すべきだ!』

 タロが傍にいてくれたら、そう言って激を飛ばしてくれたかもしれない。

 なんて、何でこんな時でもタロの事が気になってしまうのだろうか。

「大丈夫だって! 妃奈子も鬼じゃねぇんだし! サクッと謝れば、サクッと許してくれるって!」

 な? と付け足しながら笑顔を見せる土田に、太郎は取り敢えず無言で頷いておく。

「お!」

 と、その時だった。

 何かを見付けたらしい土田が、不意に声を上げたのは。

「あれ、妃奈子じゃねぇか! 丁度良かった! お前、今ここで妃奈子に謝っちまえよ! お前らをからかったオレにも責任あるし、一緒に謝ってやるからさ!」

 ふと見つめた視線の先。
 土田はそこに、妃奈子の姿を捉えたらしい。
 土田に倣うようにして太郎も視線をそこへと向ければ、確かにそこには、トボトボと登校している妃奈子の姿が見える。

 太郎との事が原因なのだろう。
 ゆっくりと歩いて来る妃奈子は、とても悲しそうであった。

「おーい、妃奈子ー!」

 とにかく太郎の許可も取らずに、勝手にそう決めた土田は、大きな声で彼女の名を叫ぶ。

 するとその声に気付いたらしい妃奈子は、パッとこちらに顔を上げた。

「あ、土田君……と、太郎君。おはよう……」
「おはよう、妃奈子」
「おはよう……妃奈子ちゃん」

 ゆっくりとこちらに歩み寄ってくれた妃奈子に、ぎこちなく挨拶を返す。

 すると太郎に視線を向けた妃奈子が、申し訳なさそうに眉を寄せた。

「あの、太郎君……。土曜日は本当にごめんなさい。私、せっかく太郎君が誘ってくれたのに、勝手に怒って帰ったりして……」
「……」

 まさか妃奈子の方から謝ってくれるとは思わず、太郎はキョトンと目を丸くする。

 普段であれば、自分も悪かったと頭を下げただろう。
 そして妃奈子と仲直り出来たと、ホッと安堵の息を漏らしたのだろう。

「妃奈子ちゃんが謝る事はないよ。妃奈子ちゃんを泣かせてしまった、僕が悪いんだから。だから僕の方こそ、ごめんなさい」

 自分が悪かったと、太郎は素直に頭を下げた。
 だけど普段とは違い、それで太郎の心が晴れる事はなかった。

 好きな子と仲直り出来るチャンスだったのに。
 それを太郎は、自ら棒に振ってしまったのである。

「あの、そうじゃないの。あのね、太郎君、私ね……」
「ごめん、僕先に行くね。せっかくだから二人で登校しなよ。じゃあ」
「あ、待って、太郎君!」
「おい、太郎ッ!?」

 まだ何か言いたそうな声を遮って、呼び止める二人の声を振り切って、太郎は逃げるようにしてその場から駆け出した。

(何で……何でなんだよ!? そりゃ、僕が悪いのは分かっているよ! でも……でもっ!)

 心にぽっかり空いた小さな穴。
 それは時間が経つに比例して、徐々に大きくなって行く。

(どうして何も言わずにいなくなっちゃったんだよ! 何で一言も残してくれなかったんだよ! どうして僕に謝らせてもくれないんだよ!)

 樹に謝られても、満たされない。
 土田に謝られても、満たされない。
 妃奈子に謝られても、満たされない。

 心にぽっかりと空いた穴。

 それを埋める方法は、一つだけ。

(お願いだから帰って来てよ、タロ!)

 太郎は全力で走った。
 この悲しみを振り払うように。
 その感情から逃れるように。

 しかしいくら走ったところで、彼はその悲しみから逃れる事など出来なかったのである。

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