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痺れる。
空気を伝って、肌がビリビリと。
知らず、口角を上げていた。
粘着質な笑みは消え去った。
今はただ、喜びを。
「悪いが」
時間稼ぎは成った。
一言紡がれた言葉に、首を傾げるゴルド。
ずっとデッキブラシで対応していた以外、なにも行動しているようには見えなかった。
一体、彼はなにを待っていたというのか。
その疑問の答えは、すぐに出た。
足元が光る。
甲板に、不規則な文様が浮かび上がる。
(あ、これ)
テオとゴルドが甲板中を走り回った跡。
「……魔法陣、ってやつ?」
「そのとおりだ」
あちこちに走り回って、途切れているし、歪みに歪んで、きれいな円形じゃない。
(おかしいな、昔見た本の中の魔法陣、もっときれいな丸だったのに)
こんなに歪でも使えるものなんだ、魔法陣って。
そんなことをぼんやりと考えるゴルド、その目の前。
さっきまで、綺麗な海の青色に光っていた魔法陣が、危なげに明滅する。
(ん?)
青、赤、青、赤と明滅、点滅、変化を繰り返す魔法陣。
気のせいか、テオの仮面が、冷や汗をかいている幻覚が見える。
「本当に、申し訳ないが」
甲高く、ともすれば本能が危険を察するビーッ! ビーッ! と鳴る音が、甲板、果ては海の上でやかましく響く。
「魔法陣って、実力以上の魔法を発動できるが、本来は精密なもので」
冷や汗の幻覚が増えてきた。
いやあれ本当に浮かんでいるんじゃないか? 冷や汗。
「今回は所々歪んだりしていて、形も悪い」
言い訳をする様は、まるで悪戯がバレた小さな子供のよう。
「本当は形ができていないとまともに発動しないものに、無理やり膨大な魔力を流して動かそうとしているもんだから」
さっきまで殺気立ってデッキブラシを振り回していた男が、目を背けて言い訳をしている。
仮面越しでも分かるくらいに。なんて分かりやすい態度を取るのだ、この仮面男。
「……暴発、しやすいんだ」
――嫌な予感がする。
ものすっごく、嫌な予感がする。
「――船。半壊で済んだらいいな」
「ふ……」
どこか祈りにも似た諦観の言葉に、ゴルドは力の限り叫ぶ。
「ふざけんなあああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
まるで、その叫びが引き金となったように。
魔法陣は真っ赤に染まり、眩しいほど煌々と辺りを照らす。
(ああ)
こんなに歪なのに。
こんなに危険が迫っているのに。
(なんて、綺麗)
その時、その瞬間、今。
船の周りにある海水が、切り取られたようにごっそりと空へ浮かぶ。
一人に対する戦力としては、あまりに過大。
見て分かるほどに強大なその力を前に、ゴルドは最後のあがきとばかり、サーベルを目の前に突き出す。
「……そのサーベルの弱点は、サーベルが触れた周辺しか魔法を解除できないこと」
テオが訥々と語る。
「圧倒的な質量の前には、実は無力なんだ」
迫りくる水の塊を切り裂く。
切り裂く、切り裂く、切り裂く。
切り裂いて、生まれて、飲み込まれ、また切り裂く。
(こんなの、無理だろ)
とうとう、切り裂くこともできなくなった。
違う。
切り裂く前に、生まれてしまう。
空から降る、小さな海が。
「とは言っても、ここまで多くの魔力を使うような魔法使いは、きっとそうそういないだろうが」
わたしも、親の友達しか知らない。
テオの呟きを最後に、ゴルドは飲み込まれる。
隠れていた生き残りの船員も、甲板の板も、その下の荷物や家具も。
全部まとめて、海に持ち上げられる。
そこまで見届けたゴルドは、大きく水を飲んでしまう。
そこで彼の意識は途絶えた。
▽
「……これで僕の話は終わり。文句ないよね?」
次にゴルドが目を覚ましたのは、石床の監獄の中だった。
どうやらあの後、あの船は無事に陸に戻ったらしい。
生き残りの船員たちは、全員ここの檻の中に入ったようだ。
調書を取るために連れてこられた部屋は、石壁で仕切られていて、手も出せないほど小さな穴から音声のやり取りをしている。
とは言っても、こちら側も、もしかしたらあちら側にも見張りの看守はいて、睨みを利かせているものだから、見えなくとも悪さはできない。
「ああ。ひとつ、もう一回聞きたい。本当に、船で戦闘を繰り広げた
「知るわけないじゃん。殺すつもりのやつに、名前なんて聞いてどうするんだよ」
「いや……。本当であれば懸賞金を与える対象なんだが、どういうわけかどこにもいないんだ。宿屋に監獄宛ての置き手紙があったくらいだ」
「へえ。縛られるのが嫌だったんじゃない? それか信用されてないんじゃないの、あんたら」
口を
ゴルドはテオの名を
ちょっとした嫌がらせ。それから、万が一にもテオの邪魔をされることが、嫌だと思ったから。
(何をするつもりか知らないけどさ)
彼なら。テオなら、愉快なことをしてくれそうな気配がした。
何となくの勘。世界を少しだけ愉快にしてくれそうな、あまり実りのない賭け。
「監獄宛てって、何言ってたんだ?」
「……知らせる義務はない。と、言いたいところだが」
石の穴から紙が出てくる。
薄っぺらい封筒。宛先は監獄、ゴルドの名。
「お前宛だ」
封筒を破る。
時間がなかったのだろう、走り書きのような文字が一枚の紙に。
読み終わり、思わず笑いだしてしまう。
怪訝な顔をする、こちら側の看守に手紙とも呼べない紙を手渡す。
「僕、あと数年の命だってさ」
中身を読んだ看守の顔色が変わる。
何事かを伝達し、バタバタと忙しなく動き回る気配がする。
「あーあ」
ゴルドは天井を見上げて、
「あいつの
――余計なお世話かもしれないが、お前が使った禁制品のことを教えておこうと思う。
あれは、魔力を分解、あるいは吸い取り、魔法の構築を崩す魔導具だ。
分解するためのエネルギーは、使用者の命。
使う度に生命力が減っていく代物だ。
見た限り、お前はあと数年生きられれば良い方だろう。
運が悪かったな。
だが、そんなものが出回っている方が実は問題なんだ。
あれは、貴族や王家と言った権力者たちが保有しているもので、それは世の中に出回らせないためでもある。
保管するという責任があるんだ。
それが流出しているということは、何かしらの異変が起きているのかもしれない。
わたしはその原因を探り、出回った禁制品の回収を行っていく。
ここにはしばらく戻ることができないだろう。
だから、言っておく。
久しぶりに楽しいやり取りだった。
運よく会えたら、まあ。
また、来世にでも。