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五日目③ きっとそのうち雷も落ちるだろう

 ザーザーと煩い雨音が響く中、チンと小さな音が鳴った。
 どうやらパンが焼けた音らしい。
 太郎は焼けたパンを手に取ると、居間に座り、準備していたマーガリンをパンに塗りたくった。

「……」

 日曜日の朝。
 休日のため、いつもはまだ寝ている時間なのだが、今日はいつもよりも早く目が覚めてしまった。

 その原因が煩い雨音なのか、はたまた他に原因があるのかは定かではないが。

(タロ、どこに行ったのかな……?)

 こんな大雨の中、家から出て行ったタロは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
 まさかこの雨の中、外で一夜を過ごしたのだろうか。
 それともパラレルワールドへ帰ってしまったのか。

(姉ちゃん、怒っているかな……?)

 さすがに昨日は言いすぎたかな。タロの言う通り、あれじゃあただの八つ当たりだ。

 一夜明け、冷静になった頭で、彼はそう後悔をしていた。

(妃奈子ちゃん、どうして泣いちゃったんだろう。僕の何がいけなかったんだろう……?)

 その理由は未だに分からない。

 しかしそれでも、彼が彼女を傷付けてしまったのは、間違いない。

 明日は月曜日だ。
 彼女とどのような顔をして会えば良いのだろう。
 やはり今日のうちに謝りに行くべきなのだろうか。

(でも僕は妃奈子ちゃんに嫌われてしまったかもしれないんだ。謝っても駄目かもしれない)

 告白もしていないのに、結局は嫌われてしまうだなんて。
 このままこの先もずっと、彼女との関係は修復出来ないのだろうか。

(一体、どうしたら良いんだろう……)

 ペタペタペタペタ。

 しかしぼんやりとした太郎が、無意識にマーガリンをこれでもかと言うくらいに塗りたくっていた時だった。

 ガチャガチャと言う音が、玄関の方から聞こえて来たのは。

「……?」

 何だろうと首を傾げる太郎であったが、そんな彼の耳に、遂にガチャンと言う音が届けられる。

 そう、鍵の開いた音である。

「えっ!? な、何で!?」

 おかしい。鍵が勝手に開くだなんて。
 だって昨日は確かに鍵を掛けたのだし、その鍵を開ける事が出来るのは、この家の住人である自分だけ。
 両親だってまだ海外にいるハズだし……。

 じゃあ何故、家の鍵は開いたんだ?

「まさか泥棒ッ!?」

 そう考えた太郎が、勢いよく立ち上がった時だった。

「タロー!」
「えっ、タロ!?」

 パタパタと廊下を走る音が聞えたかと思えば、程なくして、昨日家を出て行ってしまった居候が、勢いよく部屋に飛び込んで来た。

「ただいま帰ったぞ、タロー!」
「え!? あ、えっと……お帰り?」

 タロの事だ。
 どうせまたあの奇怪な魔法で鍵を開け、勝手に入って来たに違いない。
 泥棒だと思ってビックリしたじゃないかとか、勝手に鍵を開けるなとか、いつもなら叫んでいただろうが、今日だけはそんな事はどうでも良かった。

 タロが帰って来てくれた事に、太郎は何故かホッとしてしまったのだから。

「あの、タロ……その、昨日はごめんね。やっぱり僕、言いすぎだったよ」
「ボクは気にしていない。それに、キミが謝る相手はボクではなくて、隊長とヒナコの方だろう」
「あ、うん……そうだね」

 確かに昨日、彼が傷付けてしまったのは樹と妃奈子だ。
 妃奈子に関しては、自分の何が悪かったのかは分からないが、樹に関しては、どう考えても自分が悪い。
 タロの言う通り、謝る相手は彼ではなくて、彼女達の方だろう。
 ハッキリとタロにそう指摘され、太郎は思わず俯いてしまった。

「だが……」
「?」

 しかしその直後、ポツリと聞こえて来た彼の声に、太郎は顔を上げる。

 見れば、気まずそうに表情を顰めたタロが、ポリポリと頬を掻いていた。

「タロ?」

 そんなタロの態度に太郎が不思議そうに彼の名を呼べば、タロはやっぱり気まずそうにポツリと口を開いた。

「その……昨日はボクも言いすぎた。少々キツい言葉だったかもしれぬ。すまなかった」
「え……? え、あ、い、いいんだ! 元はと言えば、悪いのは僕なんだから! 僕だって気にしていないよ、タロ!」
「む……恩に着る」

 あの自由人で自信家であるタロが、まさか謝って来るだなんて。

 意外なタロの態度に驚く太郎であったが、その言葉の意味を理解し、「気にしないで」と声を掛けてやれば、タロはホッと安心したような柔らかい笑みを浮かべた。

「それよりもタロ、今までどこに行っていたんだよ? ビショビショじゃないか!」
「雨も滴る良いなんちゃらだ、と言う奴だ」
「水だよ。とにかくちゃんと拭きなよ。風邪、ひいちゃうよ!」
「ふ。このくらいで風邪をひく程、柔ではない」
「じゃあ、家が濡れるから早く拭いて!」
「む……!」

 そう注意すれば、タロの怒った文句が聞こえて来る。

 何だ何だ、キミはボクより家の心配か!
 ボクが風邪をひいて苦しむより、家の床が濡れて腐って崩壊する方が心配なのか!

 そんな、タロのわけの分からない文句が聞こえて来る。

 そりゃ、どう考えても家が崩壊する方が大変だよ! 
 と言うか、今、自分で風邪なんかひかないって言ったじゃないか!

 太郎がそう言い返せば、更にキーキーと、タロが文句の声を上げる。

 それが楽しいとか、居心地が良いとか思ってしまう自分自身に苦笑を浮かべながら、太郎はバスタオルを持って来てやると、それをタロに渡してやった。

「とにかく、ちゃんと拭いてよね! はい!」
「む、むー……」

 しかしそれでも仕方がなさそうに頭を拭き始めたタロが、何だかおかしくって。

 太郎は思わず、また苦笑を浮かべてしまった。

「ねぇ、タロ。朝ごはん、パンで良い?」
「いや、気遣い無用だ。隊長の家で、もっと美味しいモノを食べて来たからな!」
「え、姉ちゃん家にいたの?」

 と言うか、もっと美味しいモノって、失礼じゃないか、コラ。

「うむ。隊長が快く招いてくれたのだ。イヌゴローは無礼であったが、ご両親は良き人であったぞ」
「あ、そうなんだ。ずっと姉ちゃん家に……」

 そう呟くと、太郎は気まずそうに表情を歪めながら、おずおずと彼に問い掛けた。

「あ、あの、タロ? その……姉ちゃん、怒ってなかった?」
「いや、特に怒ってなどいなかったぞ。キミが素直に謝れば、隊長との仲は修復出来よう」
「ほ、本当!? 良かったあ……」
「うむ。やはり一歳の差は大きいな。キミより隊長の方が遥かに大人である」
「う、それについては何も言い返せないよ……」

 好きな女の子と言うわけではないが、樹とて、太郎にとっては大切な姉貴分だ。
 それ故に、このまま彼女と気まずい関係になってしまうのは、太郎とて嫌だったのだ。

 だから、きちんと謝れば、これまで通りの関係でいられると言うタロの言葉に、太郎は安心したようにしてホッと安堵の息を吐いた。

「それよりもタロー、聞いてくれ! 吉報だ!」
「吉報? 何かあったの?」

 吉報。
 それは言うまでもなく、タロが樹から聞いて来た、『妃奈子も太郎が好き』という話の事だ。

 それを伝えれば、太郎はきっと喜んでくれるだろう。
 暗い気持ちを吹き飛ばしてくれるだろう。
 タロはそう思っていた。

 だから彼は伝えたのだ。
 早く太郎を喜ばせたい、喜ぶ顔が見たい。
 そんな純粋な思いから、タロは彼に伝えた。

 否。
 伝えてしまった。

「ヒナコもタローの事が好きだったのだよ!」
「え……?」

 ウキウキしながらタロがそう口にした瞬間、太郎の表情が強張った。

 しかし夢中になって話していたせいだろう。
 タロは太郎の異変には気付かず、更に言葉を続けてしまった。

「隊長が言っていたのだ! ヒナコはずっと前からキミの事が好きだったのだと! 喜べ、タロー! キミ達は両想いだったのだぞ!」

 本当!? うわあ、どうしよう! すごく嬉しいよ!

 そう言って、太郎は喜んでくれると思っていた。

 そして満面の笑みを浮かべながら、「教えてくれてありがとう、タロ!」と、そう言ってくれると思っていた。

 しかし、

「……酷いよ、タロ」
「え?」

 一瞬、何を言われたのかが分からなかった。

 分からなかったが、その場に響いたのは、確かに太郎の悲しそうな声。

 聞き間違いかと思いつつも太郎を見つめ、そしてタロはハッとした。

「タ、ロー……?」

 視界に飛び込んで来たのは、昨日とは比べ物にならないくらい、悲しそうに表情を歪めた太郎の姿。
 酷く傷付けられて苦しそうな、この世界の自分。

「ど、どうしたのだ、タロー!? 嬉しくないのか!? ヒナコはキミの事が好きだったんだぞ! 両想いだったんだぞ!!」

 何故、太郎は喜んでくれない?
 どうしてこんなにも辛そうな顔をする?
 だってこれは太郎にとって、一番の嬉しい情報だろう?
 なのにどうして……?

 そう思ったタロが、驚きながらももう一度太郎にそれを告げた時だった。

「嬉しいわけないじゃないかッ!」
「!!?」

 何故……?

 突然響いたその怒鳴り声に、タロが驚愕に目を見開けば、太郎は薄っすらと瞳に涙を浮かべながら、ギッとタロを睨み付けた。

「そんな嘘吐くなんて酷いよ! 僕にとっては、一番残酷な嘘だよ!」
「う、うそ!?」

 太郎は何を言っているのだろう。
 だってこれは本当の話なのに。
 樹から聞いた真実なのに。

 嘘と決め付け、怒りの表情を見せる太郎に驚いたタロは、ブンブンと激しく首を左右に振ると、必死に弁解の言葉を続けた。

「な、何を言っているのだ、タロー!? これは嘘なんかではない! 本当の……」
「まだ言うの!?」

 叫ぶ事によってタロの言葉を遮ると、太郎は驚き固まるタロの前で、悲しそうに俯いてしまった。

「僕は……正直、キミが嫌いじゃなかった。喧しくて、煩くて、たまにウザいと思う時もあったけど、キミが来てくれてから、意外と楽しかった。キミは無茶苦茶なヤツだけど、悪いヤツじゃない。ただ変なヤツなだけで、良いヤツだと思っていたのに……」

 フルフルと震える肩。
 怒りに握り締められた拳。

 太郎はそこで一度言葉を切ると、再びタロを鋭く睨み付けた。

「それなのに酷いよ! 追試に合格したいがために、そんな嘘を吐くなんて!」
「ンな……ッ!?」

 その言葉に、タロの瞳が大きく見開かれた。

「確かにキミとしては、追試に合格したいだろうさ! でも……だからってそんな嘘吐いてまで、僕に告白させようとするだなんて……っ!」
「ご、誤解だ、タロー! ボクはそんなつもりじゃ……っ」
「そうだよね、そう言えば、僕は喜ぶもんね! そして迷う事なく、妃奈子ちゃんに自分の気持ち伝えに行くもんね!」
「違う! 本当に……」
「少し考えて来るって言って出て行って、それで思い付いた作戦がそれだったわけ!? あんまりだよ! キミがそんな卑怯な事するなんて思わなかった! 見損なったよ、タロ!」
「タロー……」
「キミなんか嫌いだ! 大嫌いだ! もう出て行ってよ! キミの顔なんか、二度と見たくないッ!」
「……。すまなかった」

 ポツリと。

 ただ一言それだけを呟くと、タロはトボトボと太郎の前から立ち去ってしまった。

「……」

 パタンと扉の閉められる音が響けば、再び訪れる、雨音だけの静寂。

 ああ、どうしてだろう。
 自らが進んで追い出したのだと言うのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
 何故、胸がズキズキと痛むのだろうか。

「僕、後悔しているのかな……?」

 たったさっき、本気で出て行って欲しいと思った。
 あんな自分勝手な嘘で、自分を思い通りに動かそうとするタロなんて大嫌い。もう顔も見たくないと、本気で思った。

 しかし本当にタロが出て行ってしまった後、自分を襲ったのはスッキリとした爽快な気分ではなくて、遣る瀬ない辛い気持ち。

「タロが、あんな顔するから……」

 自分を騙そうとしていたハズなのに。
 それなのに出て行く時のタロは、本当に辛そうだった。
 とても、とても、悲しそうだった。

 どうしてあんな顔をするのだろう。
 あんな顔をするくらいなら、最初から嘘なんて吐かなきゃ良いのに。

「タロが、悪いんだ」

 そうだ、全部タロが悪い。

 自分がこんなに後悔しているのも、タロがあんなに辛そうな表情をしていたのも、全てはタロのせい。

 タロが自分の追試のために、嘘なんて吐いたせい。

「だから、僕が後悔する事なんてないんだよ……」

 タロのせい、タロのせい、タロのせい、タロのせい……。

 太郎は、自分自身にそうやって必死に言い聞かせた。

 そうでもしないと、遣る瀬ない思いでどうにかなってしまいそうだったから。

 辛くて苦しくて、おかしくなってしまいそうだったから。

 だから太郎は全部タロのせいにして、彼の悲しそうな顔を、必死で掻き消そうとしたのだ。

「……」

 でも頭ではいくらそう考えたとしても、心のどこかでは、やっぱり自分も悪かった、言いすぎだったと思ってしまって。

「どうしてあんな事を言っちゃったんだろう……」

 太郎はその場に座り込むと、ポツリとそう呟いた。

 膝を立てて両腕で抱え込み、そこに顔を埋める。

「やっぱり、後でちゃんと謝ろう」

 どこに行けばタロに会えるかなんて、分からないけれど。

 ザーザーと、屋根を叩く雨音が、嫌に耳に響く。

 気のせいだろうか。

 その音は先程よりも、一層激しくなっているようであった。

しおり