第12章 甘味が繋ぐ未来と悠介の決断
大河のほとりに立ち、悠介(ゆうすけ)はゆっくりと息を吐き出した。先日の大決戦を経て、曹操(そうそう)は一時的に撤退を余儀なくされ、孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)の連合は有利な立場に立ったとはいえ、まだ乱世が終わったわけではない。実際、戦の火種は各地でくすぶり続けており、一歩間違えれば再び大規模な衝突が起こっても不思議ではない状況だ。
それでも、三国がひとまず停戦へと向かおうとしているのは事実だった。曹操自身も損害の大きさを認め、当面は内部の建て直しを優先せざるを得ない。孫権と劉備は共に、戦いで疲弊した兵や民をいたわるため、広範囲な救済策に力を注いでいる。飢饉(ききん)の影響を受けた村々へ甘粥(あまがゆ)や塩キャラメル風の携帯食を配給し、破壊された地域の復旧を進める。そんな安堵と不安がない交ぜになった空気の中、悠介は自身の将来と向き合う時を迎えていた。
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### 一時の停戦と三国の情勢
広場では、劉備軍の将兵が大鍋を囲んで甘粥を作っている。以前と比べると、ずいぶんと慣れた手つきだ。干し果物やわずかな肉を加え、兵や民に配る量を細かく計算している姿は、まるで軍隊というより大規模な炊き出しチームのようでもあった。戦で荒廃した土地にも、少しずつ笑顔が戻りつつある。
「曹操との大きな衝突はとりあえず収まったが……奴がこのまま黙っているとは思えん。孫権も内心は、いつ劉備を出し抜くか伺っている可能性がある。これが“平和”と呼べるかどうかは、まだ何とも言えんな」
関羽(かんう)が、低い声で悠介にそう話す。彼の鋭い眼差しには、依然として戦の警戒が解けない緊張感が宿っていたが、同時にわずかな安堵も感じられた。大決戦での犠牲を見てきたからこそ、これ以上の大規模な流血は避けたいという思いが強いのだろう。
「ええ……まだまだ予断を許さないですよね。でも、ほんの少しだけでも、人々が笑顔になれる時間が増えればいいなって思います」
悠介は微笑みながら答える。自分が紡いだ甘味が人々の命や心を支える“戦略物資”になったことは、まだ信じられない部分もある。しかし、ここまで来た以上、その役目は終わりというわけではない。むしろこれからが重要だ——彼はそう考えていた。
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### 曹操の和平選択と裏事情
曹操は大敗を喫した形ではあるが、それでも完全に失脚したわけではない。広大な領土と依然として多数の兵力を抱えており、再起の余地は十分にあるのだ。だが、飢饉や兵糧問題、内部反乱の処理などを考えると、しばらくは大々的な進軍などできそうにない。戦による損耗を最小限に抑えるため、やむなく「一時停戦」の姿勢を見せているに過ぎない——と噂されている。
また、曹操の“甘味研究所”は細々と機能を続けているらしい。悠介を取り込もうとして失敗したものの、飴菓子や麦芽糖の新技術を捨てるわけにもいかず、部下たちが地道に改良を進めているという。民衆への配給や兵士の士気を高める目的で、菓子の有用性は十分に認められたのだ。
「曹操様が無理を通して戦を再開すれば、再び反乱が起きる恐れがある。とりあえず兵と民を休ませ、次なる機会を待つのが得策だろう……」
そんな声が曹操軍内部で囁かれていると聞く。つまり、休戦は曹操にとっても利がある選択なのだ。孫権と劉備は、これを機に民や兵を安定させ、息を整えながら将来に備えることになる。
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### 天下統一への道と悠介の葛藤
乱世が完全に終わったわけではない。あくまでも“一時の停戦”に過ぎず、曹操も孫権も劉備も、いつかは“天下”を巡る大きな動きに踏み出す時を想定している。史実ならば、赤壁の戦い以降も膠着(こうちゃく)と局地戦が繰り返され、やがて魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国鼎立が本格化していく。悠介はそんな流れを知っているが、この世界が史実通りに進むのかは、もはや定かではない。
「いずれ、戦が再開するかもしれない。俺の菓子が、また誰かを助けたり、あるいは戦いを加速させたり……どう転ぶか分からないな」
悠介は夜の静かな川辺で、そんな複雑な思いを抱えながら一人佇んでいた。川面には月が映り、その光が穏やかに揺れている。もし、自分が現代に戻れるのなら——ここから逃げる形になるのか、それとも別の形でこの世界に残るべきなのか。
元の世界を思い出すと、そもそも自分は普通の高校生に過ぎなかった。パティシエを目指す見習いレベルの存在で、まさか歴史の異世界に飛ばされるなんて想像もしなかった。帰り道で眠ってしまえば、いつの間にか元のキッチンに戻れるかもしれない——そんな淡い期待を抱いたこともあったが、まだ現代に戻る手段を見つけてはいない。
しかし、ここで暮らしているうちに、悠介の心には確かな手応えが生まれていた。自分の菓子が人を救い、人々を笑顔にする。現代でも同じことはできるだろうが、この乱世だからこそ生きるアイデアや工夫が多々あるのではないか——そう感じるのだ。
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### 劉備・孫権との再会談
翌日、劉備は悠介を連れて、孫権の使者との打ち合わせに臨んだ。場はさほど緊迫しておらず、戦後処理の一環として民の支援や物資交換を話し合う程度の平穏な場だったが、悠介も顔を出したことで孫権側から「おぉ、“菓子職人”が来たか」と歓迎の声が上がる。
「今回は大変世話になった。おまえの甘粥や携帯菓子がなければ、共闘していても曹操の大軍に押し潰されていたかもしれん。民にも感謝されているぞ」
孫権の側近がそう言い、悠介は素直に「こちらこそ、海塩の協力があったから実現できた部分も大きいです」と返す。先日の大決戦を乗り越えた今、呉(ご)と劉備の関係はかつてないほど強固に感じられたが、やはり政治の世界は一筋縄ではいかない。両者とも、いずれ別の形で衝突するかもしれない可能性を秘めている。
それでも、孫権陣営は「当面は友好を保ち、民の復興を最優先する」と明言した。江南地域での塩キャラメルや魚醤を使ったスイーツの取引も、劉備軍との協力関係で拡大していく見込みだ。戦乱が小康状態にある今こそ、経済や文化を育てるチャンスだと捉えているらしい。
劉備はそんな孫権の姿勢を見ながら、悠介にそっと耳打ちする。「菓子がここまで政治や経済を動かすとは、私も驚いている。……だが、あくまで一時的な平和だ。おまえがここに残るか、元の世界に帰る道を探すかは自由だが、どちらにせよ大きな決断だろうな」と。
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### 悠介の決断
夜が更け、野営地のかがり火が揺れる中、悠介は一人で考え込んでいた。自分がこの世界に留まれば、三国の行方に影響を与える存在として、さらなる責任が生まれるだろう。今まではただ勢いで菓子を作ってきたが、次はもっと多角的に考えながら作らなければ、いつか大きな代償を払うかもしれない。
その一方で、元の世界に帰りたいという気持ちが消えたわけではない。家族や友人との思い出、あの狭いキッチンでバターや小麦粉を練っていた日々を懐かしく思うこともある。しかし、今ここで途絶えるわけにはいかない流れがあるのも事実だ。
(この世界の人たちを、菓子で救えるのなら……俺が残る意味はきっとある。戦が続く限り、悲しむ人は後を絶たない。それを少しでも和らげられるなら……)
そんな思いが、彼の胸に明確な炎を灯し始める。自分の中で、何かが定まった気がした。
翌朝、彼は劉備にきっぱりと言い放った。
「自分は、しばらくここに留まります。元の世界に戻る方法が見つかるかは分からないですけど……この時代を、菓子の力でもっと豊かにできるかもしれないって、信じたいんです」
劉備はその返答に、まるで息子を見守るかのような穏やかな笑みを浮かべる。
「そうか。おまえがそう決めたのなら、私はそれを歓迎しよう。おまえには、これからも多くの人々を救う力があると信じている。……もし本当に帰りたくなったときは、できる限り手を貸すつもりだ。どこかに“異世界から帰る方法”があるかもしれんからな」
それは劉備なりの気遣いであった。彼自身が異世界の話をどこまで信じているかは分からないが、悠介の在り方を否定するつもりはないようだ。
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### 甘味が広がる未来
こうして悠介は三国の世界に腰を据え、さらなる菓子の開発に力を注ぎ始める。曹操軍や孫権軍との間接的な取引も進められ、菓子の技術が少しずつ三国全土に広まっていくのが感じられた。戦が再燃すれば、それがまた兵や民を救う道具になり得るし、平和が長く続けば、より多様な菓子文化が花開くかもしれない。
実際、飢饉への対策として“甘粥”が各地で量産されるようになり、塩キャラメル風の携帯食は兵士だけでなく旅人や行商人にも愛用されるようになった。農村では干し果物を作る技術が向上し、蜂蜜養蜂を手掛ける職人も増えている。今や“甘味”は武具や米と並ぶ重要資源として認識され、領主たちはこぞって技術者を保護する施策を打ち出していた。
「菓子は単なる嗜好品じゃない。人々の命を救い、心を潤すための最強のツールなんだ——」
悠介はそんな言葉を胸に刻みながら、日々新たなレシピを模索する。戦争が減ってくれるなら、何よりだし、もしまた争いが起こってしまったら、少しでも被害を抑える形で甘味を提供していきたい。その両方を追い求めるのは矛盾しているようで、彼がこの世界で果たす使命でもあるように感じていた。
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### ラストシーン—新作菓子の試作と次なる展開
ある日の朝、悠介は兵士の一団に混じって野外の簡易かまどを使い、新しい菓子の試作を行っていた。材料は今までに手を出せなかったスパイスや山の野草、そして海から取り寄せた珍しい塩。麦芽糖の煮詰め方もさらに工夫し、複雑な風味を狙っている。
「よし、このくらいの温度で……あ、焦げる寸前かな。じゃあ一度火を落として、ここで干し果物を投入。海藻粉も少し……」
独り言を言いながら、必死で攪拌(かくはん)を続ける。近くにいた張飛が「おい、またすごいもの作るのか?」と覗き込んでくるが、悠介は「うん、期待してて!」と笑顔で応じる。
鍋の中でとろけた蜜が形を変え、新たな甘味を生み出す。その香りに、周囲の兵士や村人が「また面白そうなものを作ってるな」とそわそわし始めた。出来上がれば、きっと今まで味わったことのない風合いの菓子が誕生するだろう。
彼の脳裏には、まだ帰れぬ現代のキッチンが一瞬よぎった。だが、もう後悔はない。この世界に留まり、菓子の力で人々を助けたいという意思が固まっているからだ。もし奇跡的に帰る手段が見つかっても、そう簡単には踏み切れないかもしれない——少なくとも、今はこの使命を全うしたい。
周囲の人々も、彼が異世界から来たなどとはあまり気にしていない。誰であろうと、兵や民が笑顔になれるなら、それが一番大切なことだと考えているのだろう。かまどの炎が淡く揺れ、材料が合わさって甘い香りを放つたびに、人々の不安な気持ちが少しずつ溶かされていくようにも思える。
「さあ、新作の試作品ができたぞ。誰か味見してくれる人いるかな?」
悠介が声を上げると、兵士たちが我先にと手を挙げる。張飛は豪快な笑みを浮かべ、「おう、俺が一番に食ってやる!」と意気込む。関羽は腕を組んで穏やかに見守り、遠くで作業していた劉備も「これはまた何かの役に立つかもしれん」と興味深そうに微笑んでいる。
その光景は、乱世には似つかわしくないほど和やかで、まるで小さな“菓子王国”のようにも見える。戦の火種はまだ完全には消えていないが、ここには確かな希望がある。悠介の作る甘味が、これから先も人々を救い、武将たちを支える道具であり続けるのならば、彼はきっとこの世界での人生を悔やむことはないだろう。
かくして、悠介は“三国の菓子職人”として生きていく覚悟を決めた。天下統一への道がどのように進むにせよ、彼の甘味がもたらす笑顔や命の支えは、三国の歴史を少しずつ変えていくはずだ。いつの日か、戦乱が完全に終わり、誰もが甘味を楽しめる平和が訪れることを願いつつ、彼は今日も鍋をかき混ぜている——。
その姿は、まるで新たな歴史の幕開けを告げるかのように、小さくも力強い光を放っていた。
(第12章・了)