第9章 甘味をめぐる政治戦—曹操、孫権の対抗策
陳倉(ちんそう)、許昌(きょしょう)……黄河流域の要所では、曹操(そうそう)の軍旗が風をはらんでいる。戦乱が続くこの三国の地にあって、彼の勢力はますます拡大しつつあった。とはいえ、飢饉の影響は曹操の領地をも容赦なく蝕(むしば)んでおり、多くの民が食糧不足に苦しんでいる。彼は民衆の支持を失わぬよう、また兵士たちの士気を維持するためにも、新たな政策を模索する必要に迫られていた。
そんな中、曹操の耳にはある噂がしきりに届いてくる。劉備(りゅうび)の軍が“甘粥(あまがゆ)”という甘い粥を配給し、民心を大いに得ているという話だ。甘味の力で戦場の兵を奮い立たせたうえ、飢饉に苦しむ民を救う道具としても活かしているらしい。さらに孫権(そんけん)も、海産物を活用した“塩キャラメル風”の菓子を開発しているという。もはや“甘味”が人々の心を掴む重要な鍵になりつつあるのは明白であった。
曹操は以前、悠介という菓子職人を拉致したものの、奇襲作戦“シュガーファンネル”によって逃げられてしまった。今思えば、あのときこそ甘味による人心掌握の価値を痛感させられた瞬間だった。だからこそ、彼は自らの手で同じような研究を本格的に進めることにしたのである。
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### 曹操の動き—“甘味研究所”の設立
ある日、曹操は配下の官吏(かんり)や技術者を前に、意外な命令を下した。
「全国から有能な菓子職人や料理人、煮詰め技術に長けた者を集めよ。私の元で“甘味の研究”を行うのだ。麦芽糖や果物の煮詰め方をさらに改良し、兵の口に合う新たな甘味を開発せねばならん」
甘味を“研究”するという発想は、この時代としては目新しい。だが曹操は、これを一つの戦略資源と見なしていた。飢饉で苦しむ民に配給すれば民心を得られるし、兵士の士気を上げるための携帯食にもなる。さらに、悠介のような特別な人材を奪えなくても、自らの手で体制を整えてしまえばいい——それが曹操の考えだった。
曹操は「全国から人材を集める」と豪語したものの、この乱世でそう簡単に優秀な職人が見つかるわけではない。だが、“曹操の庇護を受ければ家族を養えるうえ、多くの素材を扱える”という噂が瞬く間に広まり、困窮した料理人や名もなき職人たちが少しずつ集まってきた。中には技術を盗むため、敵対勢力のスパイも混じっているかもしれないが、曹操はそれを承知のうえで歓迎した。
こうして曹操の領内には、いわば“甘味研究所”のような部門が生まれた。表向きには兵糧や保存食の開発を理由としており、実際、多種多様な穀物の加工や干し果物の調理が進められている。技術者たちは蒸留や発酵の技術を探り、蜂蜜や麦芽糖、果物を煮詰める温度や時間を実験的に変化させてみたりと、試行錯誤に余念がない。
「こ、これは見事な糖度。だが、焦がしすぎると苦味が出るな……もう少し火を弱めて煮詰めるか」
「蜂蜜の在庫が少ないなら、別の甘味料を開拓せねば……各地で栽培される果実を選別し、干しナツメや干し梨などを大量に加工できれば、菓子のバリエーションが増えるだろう」
人員が増えるにつれ、アイデアも増える。曹操は日々、この研究の成果を確認し、さらに改良を命じた。戦が激化すれば民への配給が必要になり、兵への補給でも一瞬の疲労回復を狙う方策が欲しい。悠介が作っていたような“塩キャラメル状の携帯菓子”にも興味を示し、塩味との組み合わせにも挑戦させていた。
曹操の配下・司馬(しば)は、以前悠介を監禁した際には苛立ちを募らせていたが、今や“人材集め”の総責任者として各地を奔走している。菓子職人と化学的な知見を持つ者を探し、まとめ上げるのは骨の折れる仕事だが、曹操の絶大な権勢を背景にやりやすい部分もある。これこそが曹操の恐ろしさ——物量と権力を武器に、一旦決めた方針は貪欲に形にしてしまうのだ。
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### 孫権の独自路線—“海の甘味”ブランド化
一方、江南(こうなん)地方では孫権が自領の整備を進めていた。孫権は劉備との同盟交渉を経て、とりあえず曹操への対抗姿勢を維持しているが、その裏で独自の経済力強化を目指していた。彼の狙いは、海産物や港湾交易をフルに活かし“呉(ご)ブランド”とも言える新しい特産物を作ること。中でも“塩キャラメル風”の菓子は民衆や兵士だけでなく、商人たちにも高値で取引される可能性を秘めている。
「いいか、魚醤(ぎょしょう)だけでなく塩そのものの品質が肝心だ。海藻や貝殻灰を使った精製も改良せよ。甘味を出すには蜂蜜や果物も必要だが、ここは海の特色を活かして、“塩っ気”を主体とした新しい味を作り上げるのだ」
孫権は従来の軍事部門とは別に、商工部門に近い専門の部署を設置し、塩や海藻の加工、さらには海産物とのコラボで新しい菓子を開発するよう指示を出した。彼にとっては、菓子作りは単なる嗜好品の話ではなく、呉の経済力アップに直結する国策でもある。
「兵士の口に合うのはもちろん、やがてこの菓子を遠方の市場にも流通させれば、税収が増えるだろう。曹操や劉備に遅れを取るわけにはいかない」
孫権は意欲を燃やし、自領の農民や漁民の生活改善にも役立つと踏んでいる。実際、塩にこだわった菓子は保存性が高い場合もあり、交易品として魅力が大きい。その一例として、干しエビの粉末をわずかに混ぜ込んで旨味を強化した“塩キャラメルもどき”が試作品として作られ、兵士から好評を得はじめていた。
「こ、これはなかなか……ほんのり魚介の香りがするが、甘味と相まってクセになる。酒が欲しくなる味だ」
「嫌いな奴は拒絶するかもしれんが、ハマる奴にはたまらんだろうな。商売としては面白いかもしれん」
孫権の側近たちは、口々に意見を述べつつも、独創性の高さに期待を寄せる。こうして、劉備が“甘粥”で民衆を掌握し、曹操が本格的研究所を立ち上げている裏で、孫権も“塩キャラメル風”や“海産物系スイーツ”という独自路線を突き進みはじめたのだ。
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### 三国“菓子競争”の発生
かくして、三国はそれぞれの思惑を抱えながらも、“甘味”をキーワードとした文化的、経済的競争に突入しつつあった。もはや戦だけがすべてではない。“菓子”という新たな領域で、民心と利権を掴もうとする動きが加速しているのである。
ただし、戦火が広がる現実も避けられない。史実の三国志と同様、曹操が中原で圧倒的な兵力を誇り、孫権と劉備は南方や西方で抗争や同盟工作を繰り返す。ときには小競り合いが起こり、さらなる被害が出て、飢饉の影響が拡大する。民の流浪と略奪が頻発する荒れた状況の一方で、甘味を求める声も高まっているという、皮肉な事態になっていた。
「おい、噂に聞いたか? 曹操軍が作った“麦芽糖菓子”を民に配っているらしいぞ。ただのプロパガンダかもしれんが、空腹の我々にはありがたい話だ」
「孫権のほうでは“海の塩味”を売りにした甘菓子を市場に流して、税収を稼いでいるらしい。劉備も“甘粥”を広めているし、どこもなんだかんだで甘味が重要になっているな」
各地をさまよう民や商人たちの間では、いつしか「三国が“菓子競争”をしている」と揶揄(やゆ)されるようにもなっていた。もちろん実際には、戦が主軸であり、多くの血が流されている現実は変わらない。だが、その裏では確かに“甘味”の存在が一種の“文化競争”を生み出しているのだ。
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### 悠介の視点—戸惑いと驚き
当の悠介は、劉備軍の行軍に帯同しつつ耳に入る噂に驚くばかりだった。曹操が全国から職人を集めている、孫権は塩キャラメルを開発してブランド化を図っている——どれも一昔前には考えもしなかった展開だ。自分が持ち込んだアイデアが、ここまで三国の世界に波紋を起こすとは思わなかったのである。
「まさか、ここまで“甘味”が注目されるなんて……。でも、戦争はますます激化しているし、民は苦しんでいる。正直、複雑な気持ちだな」
悠介がそう漏らすと、張飛(ちょうひ)は大きく頷き、荒々しい声で応えた。
「敵の曹操も孫権も、結局は自分らの勢力を強めるために甘味を利用してるんだ。おまえはどうする? おまえが持ってる菓子作りの秘伝をもっと広めちまうか? それとも俺たちのためだけに使うのか?」
難しい問いだった。悠介としては、菓子が人々を救うなら広めても構わないと思っている。だが、敵対勢力にとっても“兵を鼓舞する武器”になりうるし、曹操のように個人を拘束して利用しようとする不届きな者がいるのも事実だ。中途半端に情報を流せば戦がさらに激化するかもしれない——そう考えると迂闊(うかつ)には動けない。
「私の考えだが……おまえは気にせず好きに作ればいいと思うぞ」
口を開いたのは劉備だった。いつになく穏やかな表情をしている。
「曹操にしろ孫権にしろ、それぞれが民を支配する立場で甘味を使っている。だが、おまえの菓子は民を笑顔にするためのものでもある。一概に悪いこととも言えまい。飢えた人々が甘い粥や塩味の菓子でしのげるなら、それはそれで一つの救いになるはずだ」
悠介はその言葉に救われる想いだった。戦乱の世においては、どの勢力が善か悪かなど一概に言えない。多くの民が混乱に巻き込まれ、命を失っている。だが、甘味という要素が少しでも人々を笑顔にし、争いを和らげる一助になれば嬉しい——そう考えるのは、やはり理想論に過ぎるのだろうか。
「ありがとう、劉備さん。俺は、俺にできることをするだけです。菓子で民が少しでも救われるなら、どこでだって構いませんし……ただ、曹操みたいに乱暴な方法はごめんですけどね」
劉備は微笑みながら悠介の肩を叩き、「安心せよ、これからもおまえの力が必要だ」と語った。
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### 戦火の広がりと、甘味の行方
このように三国がそれぞれの“菓子政策”を進める中、戦火はさらに広がりを見せつつあった。曹操は中原を制圧しようと各地の武将を平定しており、孫権は海上交通と南方の地利を活かして勢力を固めている。劉備は飢饉の民を支え、巧みに人望を集めながら、次なる覇業を目指す状況だ。
甘味をめぐる政治戦は、やがて一種の“文化合戦”へと発展しうる。曹操の煮詰め菓子がどれほどの品質を得るのか、孫権の塩キャラメルが国内外の商人にどれだけ売れるのか——そして、劉備の甘粥はどこまで民衆の命をつなぎとめるのか。これらの動向が、武力だけでなく民心や経済を大きく左右しはじめているのだ。
「菓子で天下を取るなど、半年前には想像もつかなかったな……」
関羽(かんう)が淡々と呟き、張飛が苦笑いを浮かべる。悠介は複雑な胸中を抱えながら、どこか責任感の重さも感じていた。彼がもたらした現代知識の断片が、こんなにも大きく歴史を変えてしまうものなのか、と。
しかし、その渦中にあって、悠介はまだ戦い続けるしかない。飢饉は終わらず、曹操や孫権との争いも激化するばかり。いつかこの乱世が終わりを迎えるとき、自分の菓子作りがどう評価されるのか——それを考えるのはまだ早い。今はただ、命をつなぐ甘味を作り続け、人々を一人でも多く救えるように努めるしかないのだ。
そして、本当の激戦はこれから訪れる。甘味を武器とする三国の戦いは、いよいよ最終章に突入するのかもしれない。
史実の三国志が合従連衡(がっしょうれんこう)と波乱に満ちていたように、この甘味が絡む乱世も、まだ誰にも行く末を予測できない。ただ一つ明らかなのは——“菓子”という存在が、いま確かに三国の未来を左右しているという事実である。
(第9章・了)